第3話 少女が抱く夢
『
それは産まれたときから人が持つ奇跡の能力の名前だ。世界の法則すら無視するその特殊能力は、持っている人間にしか扱えない。その能力が安定するのは、およそ15歳ごろ――成人前後と言われている。正確に調べられたわけではないが、『
使い方によっては強力な戦士、兵器になり得る『
フリートはこう思っている。「『
「『
「……フリートさん。娘の言ったことは忘れて頂けませんか……その。非常に虫のいい話であるとは思うのですが……」
援助は受けたいが、事情は隠したい。テテリは申し訳なさそうにフリートに告げる。『
あまりにも都合のいい主張だったが、フリートから見ても『
「ええ、まあいいですよ。別に制御できていないわけではないのでしょう?」
「ケホッ、ええ、はい」
「であれば、気にしません。それよりこれからの話をしましょう」
できる限りはやく、『
なので、フリートは『気にしていませんよ』というポーズを取りながら必死に話題を逸らしていく。
「泊まる宿は、行きつけの宿があるのでそこにしましょう。ま、行きつけと言っても今日みたいに酔っぱらって倒れてることも多いんですけどね……」
それは置いておいて、とフリートは話を続ける。実際安酒で酔っぱらっていたおかげでリクルと出会えた、と言えなくもないのだ。フリートにとっては面倒ごとではあったが、助けた少女がどことも知れない場所で野垂れ死ぬのは寝覚めが悪いという理由もある。
「わかりました。フリートさんにお任せします……リクル。言ったわよね、貴女の『
「……はい、お母さん」
しょんぼりと項垂れるリクルの前で、テテリは激しくせき込む。喀血こそしなかったが、それなりの時間話しているのだ。病人であることを考えれば、これ以上の会話は難しいだろう。
「お母さんッ、大丈夫!?」
「大丈夫、ではないわ……正直、辛いけど。リクル、貴女の『
「う、うん……」
リクルが頷くのを確認し、テテリは満面の笑みを浮かべた。それは病人とは思えないほど、明るく希望に満ちた笑顔だった。
「じゃあ、フリートさん。よろしくお願いしますね」
「……ああ」
フリートは、『この世に、絶対に逆らってはいけない相手がいる。王でもない。貴族でもない。それは子を守るために戦う母親である』という言葉を思い出しながら、頷いた。リクルとフリートが頷いたのを確認して安心したのか、テテリは力尽きたかのようにテーブルに突っ伏した。
「お母さんっ!?」
「大丈夫、寝ただけだ……もとから、体力の限界だったんだろう」
静かに聞こえてくる寝息を聞き届けると、フリートはテテリの腕を肩に回して担ぎ上げた。ろくに食事も摂れていなかったのだろう、やせ細ったテテリの体は、成人済みの女性とは思えないほどに軽かった。
「ど、どうするんですか?」
「ここに長くいればいるほど体に悪そうだ。先に宿に行くとしよう……リクルは、必要なものがあれば持ってきてくれ」
「う、うん……」
テテリを担ぎ上げたフリートはリクルを連れて家を出た。しっかりとコートの前を抑えたリクルと、革鎧の上に妙齢の女性を担いだフリートの二人連れは非常に目立った。が、フリートはそれなりに顔を知られている冒険者であること、テテリの顔色が悪いこと、余りにも堂々と歩いていることなどの理由があり、路地裏を歩く人に絡まれたりはしなかった。フリートが腰から剣を下げていることも影響しているだろう。
あちこちにゴミが散乱している路地裏を抜け、通りに出る。ギベル砦を起点にして、わずか一年未満で急速に発展した町。元々は小さい町だったものが、魔獣たちに対抗するために冒険者や腕自慢、商人が集まったことにより、ろくな区画整理もされずに発展した町だ。ゆえに道は入り組んでおり、初めて来た人間は必ず道を訊ねることになる――そんな町の名前は、砦と同じくギベルと呼ばれている。むしろ、ギベル砦の方が、端的に『砦』と呼ばれることが多い。
「こっちだ」
道沿いに家が建てられたのではなく、平野に家ができたことで道になった――とまで言われるギベル。その道は入り組んでいるだけではなく複雑に曲がりくねっている。几帳面な人間が空からこの町を見たら、あまりの無秩序さに発狂するだろう。細い家の隙間を通ったかと思ったら、歩いている道が家の屋根で、頭上にあるのが橋かと思ったら家だった――みたいなことも、ざらにある。
あまり家が作られないスラム、それこそリクルたちが暮らしていた路地裏、と呼ばれる場所であれば、ここまで複雑にはならないのだが。複雑に家を乱立させる余裕が、スラムの住人にはないともいえる。縦横無尽に家と道が交差する町中を、リクルは目を白黒させながら、フリートはすたすたと進んでいく。行きつけというだけあって、周辺の地理は頭に入っているのだ。
「ここだ」
「『あくび亭』……?」
「入るぞ……おーい、グルガーン」
フリートは昼間から飲んだくれていたため、今の時間帯は夕方からそろそろ夜になろうか、という時間だった。食堂を兼任するこの宿屋は、まさに今が掻き入れ時とも言える。命知らずの冒険者たちが帰ってきて、あくび亭は凄まじい熱気に包まれていた。
「おうっ、フリート! お前今日は酒臭くねぇな……ん? 誰だその嬢ちゃんと背中の……」
酒を飲んで騒ぐ冒険者たちの熱気よりも暑い厨房から姿を現したのは、筋骨隆々の大男だった。フリートも冒険者であるため、体つきはしっかりしているが、奥から現れた大男は比べるのもバカらしくなるほど筋肉の塊だった。そんな彼が両手に繊細な飾りつけがされた料理を持って立っているのは、奇妙でミスマッチな光景に思える。
「フリート、お前……人さらいか?」
笑顔だった大男は、担ぎ上げられた女性を確認すると真剣な表情でフリートに迫った。『いざというときは俺がこいつを警邏に突き出すぞ』という決意すら感じられる真剣さだった。フリートが事情を説明しようと口を開いたが、フリートの言葉が出るよりも早くリクルが声を上げる。
「ふ、フリートさんは、私とお母さんを助けてくれたんです……!」
「ん?」
「ひっ」
フリートのコートに身を包んだリクルは、大男に見下ろされると、息をのんで体の半分をフリートの後ろに隠した。筋骨隆々にして顔に傷が入っている大男は、リクルにとっては刺激が強すぎた。それでも退く気はない、と気丈に大男を見つめる。
「……なるほど。人助けか?」
「ん、まあな。部屋をもう一つ借りたい」
「了解……お前が泊まってるとこの右隣が開いてるからそこ使え。鍵は、ほれ、そこの壁だ。持って行っていいぞ。金は……今忙しいから、あとででいいか?」
「すまんな、グルガン」
「あとで自己紹介させてくれよ。こんななりだが、子供にビビられるのはちょっとキツい……」
「今さらじゃないすかね」
少しへこんだ表情を見せる大男だったが、食堂で飯を食べている客から『出来てるならとっとと持ってこいよ~!』とからかい混じりの声が響き、グルガンと呼ばれた大男はそちらに向かっていった。フリートは勝手知ったる様子で壁かけから鍵を二つ取ると、ひとつをリクルに渡した。
「これ、二人の部屋だ。ベッドは一つしかないから、申し訳ないが二人で使ってくれ」
「いっ、いえ、ありがとうございます……!」
リクルが恐る恐る鍵を受け取り、二人はそろって階段を上っていく。『あくび亭』は一階部分が厨房、受付、食堂となっており、地下に貯蔵庫がある。2階部分と3階部分が宿泊部屋となっており、フリートはそこの2階に泊まっていた。
二人は階段を上ると、リクルが鍵を開けて中に入る。
「わぁ……」
「ベッドに寝かせるぞ」
綺麗に手入れが行き届いた部屋を見てリクルが感動の声をあげるなか、フリートはテテリをそっとベッドの上におろした。顔色は相変わらず青白いが、呼吸は落ち着いている。フリートは医者の知識はほとんどないので、大丈夫かどうかはわからない……が、少なくともあのあばら家で生活するより環境はいいだろうと思う。
「私は宿代しか残さない、って誰の言葉だったかな……」
昔、そんなことを言ったギャンブラーがいたらしい。要は明日生きるためのお金すらも使い切る。明日のことは明日考える――という生き様を表現した言葉だ。フリートがやっていることは偽善に過ぎないが、別に死ぬまで大切にお金を握りしめてても仕方がない、というだけだ。明日にも砦が落ちる可能性は常にあり、そんな時代にお金を抱え込んで、後悔も一緒に抱え込む事態にはなりたくないとフリートは思っている。使う理由がなかったから溜まっていただけで、理由があるなら使うことにためらいはない。フリートの呟きが聞こえなかったらしいリクルが、ベッドに静かに横たわるテテリを見て、改めてフリートに頭を下げた。
「ありがとうございます、フリートさん。こんなに私たちに優しくして頂いて……」
「あー……うん。気まぐれ、気まぐれだから。ついでに、テテリさんが言ってた婚約云々の話は忘れてくれ。俺は結婚するつもりないから」
「……はい」
リクルが頷くまで微妙な間があったことを努めて無視し、フリートは立ち上がる。ゼペルの気付け薬で酔いが醒めたフリートは、今が食事時であるということと、先ほど受付で美味しそうな匂いを嗅いでしまったせいで空腹を感じていた。幸い今の時間なら、あくび亭の食堂はフル稼働している。食事を摂らない理由はなかった。
「リクル、食事にしようか」
「は、はい」
ここでフリートは悩む。テテリを起こすべきか、それとも起こさないべきか。栄養状態を考えるなら、無理に起こしてでも食事を摂るべきだが、体調が悪いのであればまずは眠って体力を回復させるべきともいえる。
少し悩んだ末に、フリートは後者――起こさないことを選択した。ベッドに乗っていた毛布をテテリにかけるフリートを、リクルが心配そうな目で見つめている。フリートは安心させるかのようにリクルに笑いかけた。
「テテリさんは寝かしておこう。また、明日の朝にでも消化のいい料理を頼むよ」
「……わかりました」
二人は眠るテテリをそのままに、部屋を後にした。そのまま階段をおり、一階の食堂の席についた。
「おーいおやっさん! 酒だ! もう一杯!」
「こっちにも頼むぜ!」
「俺はこいつを一皿くれ!」
「うるせぇ! てめえらちゃんとウェイトレスに頼みやがれ!」
「今いねぇじゃねぇか!」
「おやっさんの強面のせいで辞めちったんだろ!?」
「てめえらがうるせぇからだよ!!」
大男と客の怒鳴りあいに、リクルはびくびくしながらメニューに目を通す。色々と書いてある文字は読めないが、隣に繊細なタッチで描かれた料理のイラストがついており、何の料理かわかるようになっている。
「ど、どれなら頼んでもいいですか……?」
「なんでもいいよ。ここの料理、料金良心的だし。割引あるし」
宿泊者にしか適用されないが。
リクルが真剣に悩んでいる様子を微笑ましく見守りながら、フリートは自分が注文するメニューを決めた。少しそのまま待っていると、リクルが顔をあげた。
「き、決めました!」
「おーいグルガン、注文!」
フリートが気怠そうにあげた声は、冒険者たちの大声でかき消された。大男に聞こえた様子はない。
「リクル、ちょっと耳塞いでて」
「は、はい!」
しっかりと両手で耳を塞いでフリートを見つめるリクルに、不覚にもちょっと動揺しながらフリートは声を張り上げた。
「うるせぇー!! 注文だっつってんだろうがぁ!! 腹減ってんだよこっちはァ!!」
「うわ!」
「やっべ、あれ『無音』のフリートだぜ……」
「二つ名に相応しくない大声だな……」
「今日は酔い潰れてねぇな……」
「ていうかあの娘誰」
「娼婦にしちゃ若いな……」
「ていうかあのコート、フリートのじゃね……?」
「すげぇ趣味だな……」
本人たちはヒソヒソ声で話しているつもりなのだろうが、元々の声が大きいのと、食堂が静まり返っているので、ほとんどがフリートの耳に入っていた。
好き勝手に噂を始める冒険者たちに対して額に青筋を浮かべながら、フリートは大声に反応した大男に向けて手招きをする。
「――ご注文で?」
「ああ、これを一皿と……あと酒――はやめとくか。おーい、リクルー?」
忠実にフリートの言った通りに耳を塞ぎ続けているリクルの目の前で手を振り、手を外させる。フリートは大声で驚かせないように耳を塞いでもらったのだが、情操教育的によろしくない噂もシャットダウンできたので、自分の判断に内心満足した。
「あ、えーと、これをお願いします!」
メニューのひとつを指さし、注文を済ませる二人。その後ろでは、冒険者がフリートの機嫌を損ねないようにヒソヒソと噂話に興じていた。
「あい、了解。少し時間かかりそうだけど、ちょっと待っててな。スープでも持ってくるから、それでも飲んでてくれ」
「わかった。えーと、リクル。彼がこの宿屋の主人にして料理人、元冒険者のグルガンだ。強面だが、悪いヤツじゃない」
「よろしくな、嬢ちゃん。食ったらぜひ感想聞かせてくれよ」
グルガンがにっかりと笑って拳を差し出した。リクルはその拳を右手で包もうとするが、拳が大きすぎて包み込めなかった。これはお互いに敵意がないことを示す挨拶だが、グルガンとリクルのようにサイズが違いすぎるとうまくいかないこともある。
「え、えと、リクルって言います! 今年で16歳になりました! お世話になりますグルガンさん!」
そして、焦ったように――爆弾を放り込んだ。
「16ッ!?」
「えっ? は、はい……お母さんが数えていたので、間違いないと思いますが……?」
キョトン、とした表情で佇むリクル。その幼げな風貌といい、とても16歳には見えない、というのがフリートとグルガンの感想だった。特にフリートは、落ち着きなく喜怒哀楽が変化するリクルの様子を見ていたので、なおさらその思いは強い。
「成人済みですよ? もう結婚もできます!」
「え……マジで……? てっきり、12、3歳だと思ってた……」
この世界では15歳を超えれば成人とみなされるうえ、結婚するのも早い。リクルは絶賛適齢期と言えるのだ。そういった焦りも、テテリにはあったのかもしれない。残念ながらというべきか、幸いにしてというべきか、リクルにはそういった焦りはないようだが。
子ども扱いされていたことに気づいたリクルがショックを受けた表情で、コートの胸元部分を握りしめた。
「む、胸ですか!? やっぱり胸が小さいから……!」
「ま、待て待て落ち着けリクル!」
まあその低身長と、体の起伏の少なさが印象の一要素になったことを否定はしないが、それ以上にその落ち着きのない言動と早合点が問題である、とフリートは思う。大人というのは落ち着きを持って暮らすべき、そう、自分やテテリのように――と、そこまで考えたところで、フリートは落ち着きのない知人を思い出してげんなりとする。
人それぞれ、ということだ。
「あー、まあ仲良くやってくれ。痴話喧嘩の相談なら乗らないからな」
「そういう仲じゃないから……」
「私が大人な体になれば……なればいいんですね……ふふふ……」
不気味な笑い声を漏らし始めたリクルから逃げるように、グルガンが厨房へと消えた。あとには疲れたように溜息を吐くフリート、ぶつぶつと呟き始めたリクル、勢いを増して噂話を拡散し始めた冒険者たちが残されたのだった。
食事を摂った二人は部屋に戻り、これからのことを話し始めた。戻る前に、食堂の利用がピークを過ぎて落ち着き始めたグルガンに事情を説明し、病人であるテテリを泊めることを了承してもらった。別の都市でも宿屋を開いていた、というグルガンはテテリの病状を診るなり、『これは流行り病じゃねぇから好きにしな』という言葉を残して1階に降りて行った。この店を経営する人間としては、伝染の可能性がある病気は困るのだろう。
咳血病は、死者を最も多く出している病気ではあるが、人に伝染するものではない。宿を経営するうえでそういった知識も必要になるのだろう、と、密かにフリートは感心していた。
「俺は砦に雇われてお金を稼いでるから……金がきつくなったら、冒険者として魔獣を狩りに行っていた。けど、明日からは定期的に狩りに行こうと思う」
「わ、私はどうすればいいですか?」
「まず、ついてくるのは無理。戦闘技能があるなら別だけど」
「……な、ないです」
「ま、そうだろうね」
リクルが答えるまでに少し間があったが、そもそも戦う力があるなら、あんな冒険者崩れにいいようにやられてはいないだろうと考えたフリート。この件をほじくり返すのは流石にデリカシーがなさすぎるので、フリートは話を進める。
「だからどこで働くかって話になるんだけど……」
「は、はい……」
「俺もあんまり顔広いわけじゃなくて……というか顔が利く場所は基本、荒っぽいとこばっかなんだ」
この世界で就職するのに必要なのは、なによりも『コネ』である。その人物が信用するに足るかどうかは実績でも金払いでも見た目でもなく、紹介した人物によって判断される。紹介する人間も、長年の付き合いで築いた信頼を失いたくはないので、本当に信頼できる人間しか紹介しない。逆にスラムにいる人間は、そういった信頼がないため、仕事に就くことができない、仕事に就けないから金がなくてスラムに行く――という負のループが起きるわけだ。
「荒っぽい……」
「冒険者崩れが来るとこは危ないから置いとけないしな」
フリートの脳内に姦しい女の知人の顔が浮かび上がるが、リクルが彼女とうまくやっていける気がしなかったので、選択肢から除外する。
「んーまあ、働く場所はおいおい考えよう。とりあえず明日だな」
「はい、あの。お願いがあるんですが……」
もぞもぞと座りなおして、リクルが話し、フリートはそれに頷いて応えた。
「ふ、服を……取りに行きたいです……コートもお返ししなきゃですし……」
「あー……すまん、正直すっかり忘れてた」
いまだに半裸状態の上にフリートのコートを着ているリクルが、恥ずかしそうに顔を赤くしながら告げた。一目見ただけでは問題ないために、彼女の服の状態をすっかり忘れていたフリートは困ったように頭を掻いた。
「よし、明日は生活物資を整えよう。リクルもテテリさんも体を清潔にしたほうがいいだろうし……買い物だ!」
力強く宣言して拳を掲げたフリート。その勢いで、気が利かなかったという事実をうやむやにして流し去ろうとしているのは明白だった。だが、まだまだフリートという人間のことをよくわかっていないリクルは勢いに押され、戸惑い気味に「お、おー……?」と拳をあげた。
「というわけで、安静にして今日はもう寝よう。明日は朝ごはんの時間になったら起こすから、寝てていいよ。コートを返すのは明日でいいから、とりあえず寝よう」
「は、はい……」
フリートはリクルが同じ話題を蒸し返すまえに、とそうそうに切り上げて部屋に戻る。椅子から立ち上がり、扉に手をかけたところで、リクルが声をあげた。
「あ、あの!」
「ん?」
「今日は、私とお母さんを助けていただいて――本当に、本当にありがとうございます! わ、私、何でもしますから、お母さんを――」
そこまで勢いよく話したリクルの両目から雫が溢れる。
「あ、あれ……?」
男に襲われて犯されそうになり、その男が目の前で殺され、母親とともに宿に来て、今日初めて会った男と一緒に荒くれ者の冒険者たちの中で食事を食べた。リクルにとって、怒涛の半日だった。許容量を超えた分が涙となってこぼれ、リクルはその涙を拭おうとするが、着ている服が借りものであることに気付いて思いとどまった。
「わ、私――」
「リクル」
フリートは真剣な表情でリクルを見つめ、扉から離れて近づいた。まだ彼女の詳しい事情は知らないが、あのような危険が隣り合わせの場所で、病気の母親を守ろうと奮闘していたのだろう。気を張り詰めさせ、だが母親に悟られないようにしながら、必死に生きてきたのだろう。それは、いくら年齢的には成人しているといっても、16歳の少女が背負える重圧とは言い難い。
「
「っう、うあああ……! フリートさん……!」
フリートが近づいて、そんな言葉とともに頭を撫でてやれば、今まで母親に泣きつけなかった分を発散するかのように、嗚咽を漏らしながらリクルがフリートの胸に飛び込む。
「怖かった……! お母さんが死んじゃう、って……なんとかしなきゃって……!」
(娘か……妹くらいにしか思えないよなぁ……なんたって、幼すぎるし素直すぎる……)
近くで寝ている母親を起こさないように、大声をあげて泣き叫ぶ、という行為をしない。リクルの芯は、間違いなく強い。だがそんなリクルでも、誰にも頼れない状況で病気の母親を守り続けるという行為は、精神をすり減らすものだっただろう。必死にフリートの服を握りしめ、それでも抑えきれない嗚咽を漏らし続けるリクル。
そんな彼女の頭を、フリートは今までひたすら剣を握り続けた右手を使って、ぎこちない手つきで撫で続ける。まるで見守っているかのように、優しい銀の月光が二人を照らしていた。
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