僕は苦しいです
第1話 プロローグ
これは私が17年前に経験した1つの物語だ。実際、私がこの話を書きだそうと思ったのはなぜだろう。当時私は精神的な病に侵されていた。この種の話が実際に起こった出来事なのか、あるいは一人の精神病患者による愚昧な妄想なのかはわからない。しかしただ一つ言えることは、これが私にとって重要な意味を持っているということだ。
この話はとても長い。いったいどこから語るべきだろう。しかし君がその気でいるなら、私は事の顛末をはじめから語ることができる。この旅の始まりは私の学生時代に遡る。私は高校3年生、冴えない学生だった。友達はだれもおらず、話し相手もいない。勉強だけが唯一の生きがいだった。私のことを覚えている生徒はいない。私はずっと、陰のように教室の隅にいたのだから。
私の関心は本の中にあった。ひとり図書館に足を踏み入れていたのもそのためである。図書館には3つのグループがあった。1つは受験組、もう1つはオタク組、そして最後に、おそらく私と同類の、一人で足を踏み入れた者たち。正確には彼らはグループではない。しかしある日を境に、彼らがグループになっていることに気がついたのは偶然だった。この変化は些細なものだったが、退屈な日々を過ごしていた私にとって、ささやかな興味の対象となった。というのは、おそらく私と同類の彼らが、なぜ彼らに似つかわしくない共同作業をわざわざ、しかも楽しそうに、行っているかが気になったからだ。私は彼らに声をかける。
「君たち、何してるの?」
「現代における史的情緒の喪失と悔恨、および憧憬に纏わる洞察だよ」
「君たちが?」
「失礼だな。君も同類だから分かっているだろう」
この男の意図がつかめなかった。集団の中に1人いた彼は隣のクラスの田中だ。受験組だと思っていたが、なぜか最近このグループにいる。
「それって、どういう意味?」
「ノスタルジーってやつだよ、郷愁にまつわる悦び、あるいは少量の哀しみ 」
「君や俺のような現在に生きていけない連中は過去に救いを求めるものさ。楽しかったあの頃俺たちはまだ小学生だったろう。大人になるにつれいろいろ問題が見えてくる。友達ができないのも、多数派って呼ばれる連中の生み出したトレンドにからめとられた悲痛な現実だったりする」
これが田中のような連中が集まっている理由か、と思った。要するに傷の舐めあいだったというわけか。私たちには相応しいが、あいにく過去に囚われるよりも未来に囚われていた方が良い。受験という乗り越えなければならない壁が迫っている。ともかく受験期を前にして揃いも揃って現実逃避とは失望した。私はそう思い、図書館をあとにしようとした時分、しかし彼らの共有していた本に目がとまる。
『異世界漂流概論』
これは何だ。田中の現実逃避もここまで祟ったか。
「これって何の本?」
「『異世界漂流概論』、著者はアレクセイ・ウンコスキー。おそらく著名じゃないし、俺も知らなかった。学会の異端者、変質者、狂人、重度の精神病。通り名はいくつかあるが、どれも好意的なものじゃない。まあ見てくれ」
そう言うと田中はどこかのページを探しながらこう言った。
「ウンコスキーは現実と異なる世界、つまり異世界の存在に肯定的だった。異世界というのは、俺たちの世界の裏側にある世界なんだ。昔の哲学者や神学者はこれを精神世界と呼んでいた。だけどそれは完全に意味を捉えていなくて、つまり『本当にある世界』なんだ。ほら、このページだ」
田中は87ページを指してウンコスキーの学説を指摘した。要約するとこうだ。ウンコスキーはある日「宇宙からの電波(これは本人がそう呼んでいる)」を受けてしまったようだ。その電波には本来聞こえるはずのない「異世界の示唆」が隠されていた。この驚異的な事実を一人の単なる酔狂でないと立証するために、ウンコスキーは緻密な研究と理論化を行った。そしてとうとう、異世界に漂流できることを立証した論文、『異世界漂流概論』を書き上げたという。具体的には安定した場所、扱いの難しい化学薬品、形式的儀式の用意、また異世界漂流実験に関わる被験体のデータ等、また被験体の捉えた異世界の描写などが記されている。
「興味深いのはこのデータだ。『本稿では無造作に選んだ被験体1000名に対し薬物投与と催眠を行い生成、維持される異世界漂流像の検討を行った。実験の結果、被験体の8割は異世界漂流に失敗した。しかし僅かながらに異世界漂流を成功した者もいる。彼らには共通性が見られる。被験体はできるだけ多様な出自になるよう努めたが、異世界漂流を成功した者は皆、学生時代に特定の友達を有さず、本ばかりを読み、人間関係が不得手な人間ばかりであった。そして何より驚くべきことは、彼らの出自は私の出自と酷似していたことである』」
「異世界漂流に成功した被験体は、俺たちと出自を同じくしている。つまり、ウンコスキーの理論通りの実験を行えば、成功する確率が極めて高い。」
「ちょっと待て、本当にやるつもりなのか」
「ああ、異世界に俺たちはいく。そのために集まってたんだ」
ばかばかしい。非科学的だし、何より薬物を扱うというのが危険だ。事実、8割が失敗している。その危険を冒すことと、大学受験を成功させることのどちらが大事か。言うまでもなく大学受験だ。なぜなら努力の末に成功が見込めるのが資本主義であり、学歴社会だからだ。
「ふーん、面白そうだけど、ちょっと入試が近いんだ」
「本当にごめん、また今度暇になったらまぜてよ」
二度と関わるまい、と私は思った。
私は現実で生きる。現実逃避など時間の無駄だ。
こうして私は図書館をあとにした。
しかしこれから私が途方もない大いなる冒険の旅に出かけるのは、紛れもなくウンコスキーの漂流理論によるものである。だがそれは、2年後私が大学生になってから再び彼らに出会うまで、知る由もないことだった。
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