34話 夜の終わり

 風の吹きすさぶ丘を歩いている。俺は、というよりも俺が今見ている記憶は、なにやら通常の記憶ではないらしい。どこかわからないその場所を、足元の石ころを踏み越えながら懸命に歩いていく。すると、うつむいた俺の視界の中に、一本、木の柱が映り込んだ。俺が顔を上げると、その柱の両側に、別の木の柱が二本、同じようにして立っている。俺がさらに顔を上げ、目の前にそびえる柱を上へ、上へと辿っていくと、風にはためく布地の端が、ぶつ切りにされてささくれ立っているのが見え、さらにもっと上、てっぺんを見上げようとした時、俺は、俺の視界に真昼の闇が広がっているのを見、首筋を汗が伝っていった。そしてその瞬間、ああ、これは本当の記憶ではなくて、「彼女」が見た夢なのだと悟った。


***


 青緑のドアを開けると、書架の森はいつも通り俺のことを受け入れた。舞い踊る蝶たちの羽から、熟成された酒のような、古い紙の甘ったるい匂いがする。その蝶たちの合間に見える風景を辿って、俺は目当ての本にすぐさま行き着いた。赤く黒ずんだその革張りの表紙を引き寄せ、開く。アルコールに似た例の甘さに頭がぐらつくような心地になりながら、吐き気を催すような麻薬の香りを深く胸に吸い込んだ。物語の中に身を沈める。必ず彼女の秘密を見つけてみせる。そうして俺は、紙面に並べ立てられた文字の奥にのめり込むようにして、広大な思考の海へと溶け込んだ。


***


 「丘」で目を閉じた「私」が短い瞬きから顔を上げると、父親と同じくらいの歳に見える小太りの紳士は、私の両頬に触れて、柔らかな微笑を浮かべた。

「君は、神様を信じているんだって?」

 暖かい部屋の中、紳士の肩越しに、奥のテーブルに並べられた陶器の聖像たちが佇んでいるのが見えた。製造のひとつひとつに彫り込まれた穏やかな顔たちが私の目の中で歪み、滲んで、じわりと笑った。


 視界が輪郭を取り戻した時、胸の中には激情が沸き起こっていた。

「途中まで合っていた、なんて、ないの」

 喚き立てる狂った女の声は「私」自身の声だ。身体が芯から勝手にぶるぶると震えて止まらない。

「間違っていた。間違っていたの。何もかも、最初から」

 男が私のそばに寄ってくるのがわかった。重みのあるその影が近づいて、その両腕が壊れ物のように優しく私のことを抱きしめる。その優しさの底知れなさが、何もない夜の、間遠い闇のように恐ろしかった。


 男の腕の中からするりと抜け落ちた私は、そのまま足元を踏み抜いた。するとそこから、地面が崩れる音がする。下を向けば、踏み折ったのは、燃え落ちた家の梁だった。残骸が落ち重なった平野の中に風が吹くと、焼け燃えた灰の匂いの中に、鼻の中にこびり付くような乾いた香りが混ざる。「私」はそれを胸に吸い込んで、喉の奥が熱い匂いにひりついて、むせて、その場にしゃがみこんで、それでもその空気の中で息をしていた。そこの場所に残った香りを自分の体の中に少しでも残しておきたくて、忘れたくなくて、埃の舞うそこからずっと離れられなかった。目を閉じたとき、何かが近づいてくるのがわかった。


***


 開け放たれた戸口から進み出たハイヒールが、木製の床に硬い音を刻んだ。その懐にいつも通り鍵をしまいこみ、眼鏡の奥から氷のような冷たい目を差し向けて現れた黒衣の猟犬、華は、もう、二歩、三歩と前に進むと、静かに怒りをたたえ胸を反らし、深く息をつく。揺れるその長い前髪の奥から溢れるのは、殺意である。彼女は、獲物を探しにやってきた。


***


 触れたのは、ひとの手だった。

「目を見た瞬間にぴんときたよ。君っていうのは」

 微笑む紳士が差し出した指の腹がかさつきながら私の頰の上を滑って、顎の輪郭を撫でた。

「いい目をしていると」

 紳士は私から両手を離し、それからスリッパを履いた両足をひきずって、ベッドの方へと歩いて行った。紳士はそこに腰掛けると、にこりと笑って、私に隣に腰掛けるよう促した。紳士は腰掛けたまま横を向き、

「君にはこれから」

 と言って、その手に持ったものを私に差し出した。その口に金色が塗りつけられた美しい書物だった。

「大事な役目を果たしてもらおう」

 紳士は微笑んで、私はそのずっしりと重い本を受け取り、それを手にした私の頭を紳士は愛おしそうに撫でた。父親か、先生みたいだと思った。頭の上にあった紳士の手は、私のこめかみ、耳に触れながらゆっくりと下に降りていって、その親指が私の目尻に触れ、私の両方の目を覗き込んだ。


「綺麗な色だ。母さんは、この目から君に『茜』って名を付けたんだ」

 歌うようなその声が甘ったるく注がれるのにうんざりして、私は彼女の両手を払いのけた。そのままベッドの上に倒れ込み、小さく吐き出す。

「違う」

「違うの?」

 彼女は心底不思議そうに私の目を覗き込み、また飽きもしないで私の目の虜になろうとするから、私は起き上がって彼女の首を絞めるみたいにその鼻先に食ってかかった。

「私の目は、『あかねいろ』じゃない。『しゅいろ』なの」

 彼女はきょとんと音が出そうなくらい目を丸くして、

「大して変わらないんじゃない?」

 と言うから、私は辛抱強く、

「違う」

 と、もう一回言わなきゃいけなかった。

「この目はね、お母さんと……」

 私はそこまで言って、それから自分の声が小さくなるのに気づいた。

「私の、産みのお母さんと同じ色なの。そう言われて育った」

 私の口は、そこから黙ってしまい、顔は俯いて上がらなかった。しばらく沈黙が続いた後で、彼女は慎重な声で、

「……母さんには『茜色』に見えたんだろう」

 と、言った。

「そうかもね」

 私が目を上げると、彼女は私の目の色を、きっと何度も見つめてきたはずのその目の色を確かめるようにしてこちらを見ていたから、私たちはまっすぐに目が合った。

「でも違う」

 私は彼女のまなざしから逃げなかった。彼女も私の目を、その奥にある何かを見ようとするみたいに、懸命に追いかけているのがわかった。乾いた唇の上と下が離れて、そこからまた自分の声が吐き出される。

「大事なことなの。私にとっては」

 彼女はしばらく私の顔を見つめていたようだった。彼女はそれから飼いならされた犬のように優しくすり寄ってきて、私の腕をさすった。そういう感傷的なのはうんざりだった。そのはずだった。けれど、私は彼女が私の顔を覗き込むようにして私を抱き寄せ、キスするままなのを放っておいた。


***


 苛立った靴音を絶え間なく鳴らしながら、書架の間を半ば走るように練り歩き、猟犬はその喉の奥から唸るような呻き声を漏らしている。私のことをこれだけコケにした憎っくき侵略者を、今日は、今日こそは、殺しに行ってやる。夜空の美しい色の滲みを知らない彼女は、怒りに震え、もはや、夜半の風の清らかさも、それに吹かれて揺れるランタンが奏でる懐かしい音楽も、その意識には上らないのだった。そうして書架の間を抜けるうち、彼女は、自分の耳に正確な間隔で鳴っていた自分の足音が「ずれる」のを感じた。一瞬感じたその「ずれ」の違和感は、足を進めるたびに大きくなっていき、彼女の胸は騒いだ。何が起こっているのか把握し切れなかった。彼女がはたと立ち止まった時、彼女の中で全てが明瞭となった。「ずれていた」のではないのだ。「ずれていた」と思っていた奇妙なリズムのばらけ、調子外れはつまり──「揃っていなかった」のだ。

 彼女が足を止めた瞬間に訪れるはずだった沈黙の中に、呼応のように響き続ける「リズム」。それは紛れもなく、別の人間の足音だった。

「誰かいる」

 慎重に口の中だけで鳴った声が、彼女の推測を確かにした。猟犬はついに、憎っくき敵に追いつこうとしている。


***


 額に当てられていた唇が離れていった時、そこにあったのは、微笑む「片目」だった。

「合っている、合っているさ」

 君の計算はね、と男は微笑み、私の両肩を優しく掴んだままだった。

「傷つけられた人間には、傷つけられたのと同じだけ他人を傷つける権利がある」

 確信めいてそう言う男から身を離そうとして、けれど男は、私の両肩にのせた両手でもって私のことを押しとどめないまでも、身じろぎさせなかった。

「君は自分の痛みを世界に還元したんだろう」

 私の目の奥には、いつかの真っ赤な炎が燃え上がり、夜の群衆のざわめきと子供の悲鳴が遠く響いた。追憶から目の前の現実に意識を戻すと、眼帯に閉じられた男の右目の横で、灰色の左目が私の顔に眼差しを注いでいる。

「この腐った世の中に、君は痛みを返した」

 私の胸が勝手に息を吸う。

「正しいじゃないか。君が痛みを受けて、それを世界に返して……足してゼロだ。君がやったことってのは、ごく自然な行為だろう。君は自然に従った。道理としてね、なんだってゼロにならなきゃならないんだよ。この世界は性質としてゼロを求めて動いている。宇宙の原理というやつさ」

 ぎらぎらと輝く男の目の中には、彼の見る広大な宇宙が広がっているようだった。

「そしてその痛みの還元は、復讐は、対象と形を変えて永遠に繰り返され、連鎖する。奪われたものは誰かからそれを奪う。与えられたものは同じものを他人に与える。終わらないゼロへの旅路だ。けれど、これの面白いところはね、最初のプラスと、最後のマイナスが永遠に出会わないところなんだ」

 そこで男の目は、愉快そうな調子でにたりと底意地悪く歪んだ。

「もし痛みの還元が最初の暴行者になされないなら、計算が合わなくなる」

 男はそこでやっと私の肩を離して微笑み、さあ返答をしてご覧と私に時間を与えた。

「サディストね」

 私が吐き捨てると、男は反射のようにひとつ笑い声を上げた。

「俺のことを言っているの? まさか! 俺がどれだけ君を甘やかしていると思っているんだ?」

 男には、私を端から馬鹿にしているところがあった。

「私には何にもわからないって思っているみたいだけど」

 私は、自分の声が馬鹿な女っぽく尖って、甘えるようにくらむのがわかった。

「わかるのよ。それくらい。私にだって」

 拗ねた私の顔を、男は楽しそうに見ている。

「殴りつけるのだけがサディストのやり方じゃない」

 男は黙ったままだ。私が馬鹿な女っぽく喋るのを楽しんでいる。そういう趣味の男だ。私はそれにいつも苛立っていたけれど、それが同時に私にとって心地良い棘の感触を持っているということも知っていた。

「貴方は今、私がもっとも傷つくようにしてるのね」

 私はあえて「もっとも」という言葉を使って、彼の喋り方に近づこうとしてみる。男は、私に喋り方を真似されるのが好きだった。

「私の中に良心があるのを知っている」

「そいつは知らなかった」

 男はおどけた。今度は私から彼に近づいた。

「良心に堪えるように、私が苦しむように、してるのね」

 男は私の言葉に答える代わりに、胸の震わしてくつくつと笑った。

「でもね、俺にとって君が最も重要だということは本当だ」

「だから誰より傷つけたいの?」

 男はそのごつごつした両手で私の頬を包み込んだ。

「そうだ。わかってるじゃないか」

 片目は、かしこいね、と私の目の色をじっくり眺めて、自分が酔いそうになるのを確かめているようだった。男の口が解けるように開いた。

「俺はね、君の中に誰より多く、一番深く、もっとも大きな傷を残して死にたいんだよ」

「死ぬ」

 突拍子もなく出た私の声が、喉の奥をつまらせた。

「なんて」

 つい男を突き飛ばした私は、動かなかった男に跳ね返されるようにして後ろへとよろめき、男から身を離した。

「知っているよ」

 男は動じず、眼帯の奥から微笑みかけた。

「君のそばにいれば長くは生きられない」

 その顔は傾いて、夜天光の差す窓の方へと向いた。

「感覚さ」

 私の目は男の横顔に釘付けだった。

「言ったろう。俺は計算のできる男なんだ。元来の性質として、そして、君に与えられたこの異能の性能からして」

 男はそこで勿体ぶるみたいにゆっくりとこちらを振り返った。その顔には、穏やかすぎる微笑みが灯っていた。

「それで構わないんだよ。君には、俺がこの人生の全てを賭して死すだけの価値が、そういった価値を持つだけの性質がある。俺はね、君のためにこのちんけな命を投げ出せることを、光栄に思っているんだよ」

 男はそれから私にまた近づいた。私の手を取る。

「でもね、覚えておいてくれ」

 自分の胸が浅く息をしているのがわかる。

「俺は、君にとって最大の男であるという、この地位を誰にも譲る気は無いからね」

 私の目は縋るようにして彼の方を向いていた。

「俺は君の一生の終わりまで呪いになる。最も大きなね。決して拭うことのできない罪になって君の地獄までついて回ろう」

 男の指が、私の指を柔らかく握って、緩めてを繰り返した。

「俺は誰より君の痛みを知っている人間になるよ」

 愛の告白めいた苛烈な言葉のひとつひとつを、私はずっと聞いていたいような気になった。だから私は、男が私を抱きしめるのを拒めなかった。

「君の痛みの全てを俺がもらおう。君の苦しみという聖なる供物を、俺が死ぬ代わり、全て差し出してほしい」

 自分の肺が膨らんで萎むその動きを、男の胸板が全て受け止めているようだった。

「知りたいんだ。誰より深く、君のことを。覚えていたいんだ。誰よりも長く、君の痛みを、苦しみを」

 ずっと穏やかに続いていた肺の動きが、受け止められる優しさに震え出すのがわかった。

「それが報酬ってもんだろう? 足して引いて、これで『ゼロ』だ」

 男の手が私の頭にそえられて、その指が髪の間に入っていった。

「計算は合っている」


***


 遠く響き続ける足音を追って、猟犬はぐらぐらと燃えるランタンの光の下を進んでいた。相手に確かに近づいているような、けれどいつまで経っても近づかないような、曖昧にして掴み所のない感覚に歯ぎしりしながら、猟犬はそのコートを揺らして進む。そうしていくつも背の高い書架の並びを抜けるうち、彼女は何らかの異物を視界に捉えた。彼女はその姿を追って道を引き返し、その「異物」を目指して走る。


***


「でも、あなたは私の名前を知らないでしょ」

 私は男の腕の中から逃れて、こちらからその片目を覗き込む。

「ここに来る前の私。その私が持っていた本当の名前よ」

 私の震えるような声が夜の部屋の中に囁いた。

「貴方には、私の全てを手に入れることは絶対にできない。貴方だって、過去には手が届かない」

 私は首を傾げて得意げに微笑んだ。

「最初から決まっているの。あんたが負けちゃうってことはね」

 私は両手を差し出して、男の首筋からその耳の在り処を辿った。私はとどめみたいに言葉を続ける。

「私の全部は、貴方のものにはならない」

 男は黙ったまま私の言葉を聞いていたところから、ふ、と息を漏らすようにして笑い、

「君がそう言ってもね」

 と、困ったように眉根を寄せた。

「いつか俺は、君の全てを手に入れるよ」

 必ずね、と男は言葉を続けた。

「俺はいつだって自分の望みを叶えてきたんだ。それはこれからも変わらない」

 男の言葉に揺らぎはなかった。私はこのひとに敵わないように思った。

「『いつか』なんて、ほんとに来ると思う?」

 そう言いながら、私は目の前のこのひとの言葉の強さを信じていた。

「来るまで待つだけさ」

 男の語調は変わらない。一定の温もりと穏やかさと自信を持ったまま、私の疑いをねじ伏せてしまう。私は、このひとに敵わない自分のことすら愛してしまっているのだった。


 足先がベッドの上に盛り上がったシーツの皺の畝をひとつ、ひとつと越えながら伸びていく。部屋の中が寒いような気がする。寝返りを打って光の差し込む窓の外を眺める。そうしているうち、いつからか知れず思っていた言葉が、まるで誰かに話しかけるみたいに自分の口からこぼれてくる。

「私の今の名前は」

 足先がベッドの広がりに伸びていく。

「もう後戻りできないことの証なんだ」

 この名前が、この夜の街に私を打ち付ける釘になっている。

「でも、本当の私は……」

 本当のわたし、とひとりきりの口が繰り返した。それからはっとした。私はどこに、「本当」なんてものを求めているんだろう。私はベッドの上に起き上がり、裸足のまま冷たい洗面所に入る。水の沁みたカビの臭いが鼻腔の上側に貼り付いた。私は、乱れた髪の女が、朱色の目を動物のようにぎらつかせ、痩せた肩で荒々しく息をしているのを鏡の中に見た。善か悪かなんて、悩む必要もない。私は、紛れもなく、悪なる人間だ。

 本当の私は、今、鏡の中にいる、この醜い女だ。


***


 近づいていった華が拾い上げたのは、開いた本だった。それはまるで「誰かが読みさしで放り、そのままどこかに行ってしまったかのような」様子で開かれていた。

 近い。確実に獲物に近づいているのだ、と、彼女の怒りの感情は不気味に興奮を帯びてきた。猟犬はその本を開いて文面に目を通し、それが娼館の女の記憶を書きつけたものであることに気づいた。やはり、あれが真犯人だったのだ。猟犬は眼鏡の奥からその顔中に攻撃的な笑いを滲ませると、耳をすませて、追い詰めるべき侵入者を再び求め始める。


***


 ネオンのぎらつく通りから暗い方に逃げてきたのはよくなかった。そんな風に冷静に考えながら、汗ばんだ手に握りしめた「冷たさ」を頼りにしている私は、自分が正気じゃないのをわかっていた。後ろを振り返ると、怒鳴り声を上げながら追いかけて来る男たちが迫っている。それからはあっという間だった。


 大きくなりすぎた痛みは熱くぼやけて曖昧になっていく。辛うじて開いた視界の中には、動かなくて自分のものとも思えない私の腕と、ずっと捨てられなかったあの銀色が落ちていた。頭がぼうっとしている。冷たさも熱さも痛みも吐き気も何もかもが混ざり合って、私の中には感情ばかりが残っていた。縋り付くようにして見つめ続けていた銀色のかすかな輝きは確かにそこにある。ああ、私、わたし……あなたのようには生きられませんでした。


 そのとき突然身体に叩きつけられていた激しさが止んで、いくつか別の声が近寄って来るのがわかった。きんきんした女の人の声を覚えている。周りの影が動いて、目の端にきらきらした着物が映り込んだのがわかった。きんきん声がくらくらと歌うように言った。


 見てごらん、ごみ屑みたいなちんけな娘

 汚い身なりの商売女!

 死体になっちゃ、世話ァない

 

 あばずれは、みいんなここに集まる決まり

 お似合いだこと。よく顔見せな

 けれどどっこい、まだ生きて

 

 こんなナリして、笑わせる

 こんなごみ屑風情がさ!

 まだ、生きようとしてやがる!

 まだ、生きようとしてやがる!


 楽しげな女の声がちかちかした視界にいくつか重なって、頭の隅々まで痛みが染み入っていったとき、私はとうとう世界から突き放された。


***


 徐々に近くなっていく足音を聞きながら、猟犬は目をぎらぎらとさせ、見えるものすべてを睨みつけんばかりに辺りを見回し歩いていた。必ず見つけてやる、仕留めてやる、という彼女の呪いに似た執念のためか、彼女は再び異変に気がついた。彼女の研ぎ澄ました五感に「香る」、甘さ。


***


「あ、あ、う」

 喉奥から鳴き声のような動物じみた声が溢れて、私は痛みに目から、口の端から、涙や唾液が流れて止まらないのを覚えていた。後ろから叩きつけられるたびに自分の体が揺れて、私は必死でシーツの皺にしがみついた。痛い、身体が、気持ち悪い。

「『正しい人はひとりもいません』」

 後ろから聞こえるその声が、上ずった半狂乱の悲鳴みたいに部屋の中に響いている。普段穏やかに話す紳士のあの口が、理知的な言葉を、けれど鳴き声のように喚かせていた。身体がぶつかるたびに痛みと気持ちの悪さが身体の奥へとしみ込んでいき、汚れたものがいずれ心臓にまで届くように思われた。

「教えた通りにしなさい」

 と、ゆらゆらと狂った調子で響く声が、私の頭にかがみこんで囁いた。世界中の何もかもが受け付けない。私はそれでも吐き出される汚い声の隙間で息をしていた口を噛み締め、もう一度開こうとした。


***


 聞こえていたはずの足音はいつのまにか止まっている。猟犬がその香りを辿って目を上げた時、ひらり、と何者かが風の中を漂うのが見えた。そこにいたのは、彼女が初めて目にする、紙の身体を持った蝶であった。


***


 棚の上に置かれた時計と財布に目をつけた。時計を上着の片方のポケットにしまいこみ、財布からあるだけ札を抜き取って、身分証のいくつかに目を通し、使えそうなものをスカートのポケットに滑り込ませる。それからもう少し部屋の中を歩き回り、机の上にペンダントがあるのに気がついた。寄ってみれば安物だということに気づいた。けれど私はしばらくそれに見入って、手に取り、ペンダントトップだけを引きちぎって時計と同じところへしまった。そのとき、部屋の主の男が、実は私のことをずっと観察していたことに気づいた。

 男は怯えて、けれど何とか私をやり込めようという気持ちを捨てないまま、手を広げて私の方に近づいてくる。私は息も止まりそうな気持ちで、胸ポケットに手を入れる。じわり、じわりと足の置き場を変える私に、男が言った言葉が忘れられない。

「君の目は、動物みたいだ」


***


 紙の蝶は猟犬の彼女が伸ばした手からくるりと逃れると、書架の間をその先へと進んでいった。彼女ははっとすると、黒衣を揺らしてそれを追いかけ始める。


***


「知ってるか? あれはもう孕みもせんのだ。『ゴム』いらずってな」

 男の声が聞こえている。部屋の外からだ。

「変態じじいのお払い箱だ。お古ってわけ。中の壁に、じじいのが、腐って、こびりついて」

 そこで、やめろよ、と仲間が冗談半分に止める声が聞こえる。

「きったねえ」

 私は歯を食いしばり壁に寄りかかっていた。耳は閉じられないから、もう塞ぐこともやめた。煙草の息を吸い込んで、シミのついたマットレスの上で組んだあぐらを、気が狂ったみたいに揺らしている。

「臭いったらない」

 聞こえる声の主を全員殺してやりたかった。でも、こっちが掴みかかったところで面白半分に殴られて終わりだ。ほんとのところ、終わりだった。私は、ここから逃げようとした他の馬鹿がどうなったのかも知っている。そうやって自分の身にならないことをするのには、向こう見ずには、なんの意味もない。望んでもないのに目の奥から涙が出てきて、膝を抱えて汚れた部屋の中に縮こまっている自分が、ばかに惨めに思えて、私は煙をいっそう深く吸い込んで、鼻をすすった。

 黒ずんだタイルの向こう、私は、暗闇の中に信号の明滅を浮かべていた。照らされては消える青白い顔。その顔が確かに私の方を見ている、見つめている。やめて。


 ありったけの目線が、衝立の向こうから私に向かって注がれている。

「覚えていることを、そのまま話してください」

 穏やかで正確な声が遠いところから響き、しんと静まり返った空気の中に、殺意と、狂気と、熱意と、正義感が、ひりひりと、潜み切れずににじみ出ている。

「はい」

 私は「教えられた通りに」口を開く。


***


 自分を導くように飛ぶ蝶を追いかけているうち、華は、同じような蝶があたりの書架に点々ととまっており、またいつのまにかずっと追いかけていたのとは別の蝶が、自分と歩調を合わせるように横を飛んでいるのに気がついた。そのまま歩を進めていき、最初の蝶が書架の角を曲がったの追って方向を変えた瞬間、何かのざわめきが彼女の鼓膜を揺らした。彼女がその恐ろしい音を追った先、全く未知のものが、遠く書架の谷間に浮かび上がっている。ざわめく不可解な「塊」。球体に見えるそれは、彼女の目の前を飛んでいる蝶と同じ色をしているのだった。華は遠く見えるその塊を目指し、足を速める。


***


「君は、ここで、この街に居続けて、どうするの」

 煙草を手に持ったまま、彼女は私に問いかけた。

「……待っているの」

 彼女はこちらを向いた。なにを。彼女の口が、声を伴わないでそう言った。

「夜の終わりを」

「……朝が来ることを?」

 彼女は自分なりの言葉で私の言葉を噛みくだいたつもりだった。

「この街に朝は来ないでしょ」

 と私は馬鹿にした風に声を出した。

「私にも朝は来ない。私はちゃんとわかってる」

 彼女は黙ってしまう。私は彼女の顔から目線を滑らせていき、組み合わせた自分の手を見下ろした。

「だからそんなこと、望んでない」

 肘掛け椅子に座ったまま、彼女は煙を吐いて私の言葉の続きを待っている。

「私が望んでいるのはね、本当の終わりが来ること」

 暗闇の中でも、彼女の顔を見ていなくても、その目が細められるのがわかった気がした。望んでいる、私は自分でそう言っても、ほんとはもう、望んでいやしない。ただ流れるままに流されていくこと。自分が悪人であると受け入れること。それに逆らわず、そういう者として生きること。もう、自ら選択をしないことを、決めてしまった。

「この、陽の光のない、熱くて煙たい夜の街のあらゆる灯りが、私の目に映らなくなること」

 滔々と吐かれる言葉たちは、私の言葉でないみたい。

「この街の灯りのひとつひとつが落ちていって、私の世界がひとつひとつ、暗くなって、消えて、ほんとうの静けさの中で、何も感じなくなること」

 そこで私は彼女の目を見た。苦しみと哀れみに見開かれた彼女の目が、やはり私のことをまっすぐに見つめていた。

「最後の明かりが消えて、私の世界が夜の先の、ほんとうに何もないところへ落ちてくのを」

 私は瞼を下ろした。安寧の暗闇が私のことを待っている。

「夜の終わりを、待っているの」


***


 塊に近づくほど、ざわめきは大きくなり、華はとうとうそれが蝶たちの群れの塊だと言うことに気づいた。彼女はやがて、その球体の塊の下に、蝶とは別の色をした何かがちらちらと覗いているのにも気がついた。彼女は頭にかっと血を上らせ、全速力で走り出す。覗く「何か」とは、黒い衣服を纏った男の足に他ならなかった。とうとう見つけた真の敵が、今、己の目の前にいる。華はみるみるうちに旋回する蝶の塊に近づくと、そこに見えていた男の身体を掴もうと手を伸ばし、巨大な紙の群れへと飛び込んだ。


***


 うつ伏せになっていた私の身体を仰向けたとき、いつも撫で付けられている紳士の髪はぐしゃぐしゃに乱れていて、やつれた汗だくの顔の中狂った目が私を見ていた。私の顔は汗ばんで、乱れた髪がべったりと貼り付いている。鼻をつく異臭が、気持ち悪い。私は教えられた通りに言った。

「『善を為す人はひとりもいません』……」

 紳士は、私に向かって微笑んだ。


***


 伸ばした華の手は、その中に数匹の蝶を捕まえただけだった。紙の嵐の中には、何者もいなかったのだ。彼女が驚きに目を見開いていると、じきに、蝶たちの羽音が爆発し、彼らが一斉に飛ぶ向きを変えた。華は足を開いて轟音と叩きつける紙の躯体の衝撃に耐える。すると、蝶たちはみるみるそこに落ちた本の中に吸い込まれ、本の形に戻っていくのだった。一頭一頭が元のページへ変化し、彼らは華の目の前で一冊の本に戻り、閉じて全く沈黙した。あっという間の出来事だった。彼女は荒々しく肩で息をし、そこに立ち尽くしていたが、音のない夜の中で、自分の敗北を悟ったのだった。この書架の森にはもう、自分しかいない。かの敵は、飢えた猟犬の前から逃げ果せた。

 彼女の胸の中に、かっと怒りが燃え上がった。猟犬は苛立ちのまま、拳を書架に叩きつける。振り下ろした彼女のハイヒールに、蝶の一匹がその羽を貫かれて死んでいた。


***


 気づけば、目の前に青緑のドアがあった。記憶の海から戻ってきたのだ。身体中じっとりと汗をかき、見てきたものへの嫌悪感に自然と嗚咽が漏れ、顔が強張る。前の記憶とは、濃度も感度も違う。いや、情報量が多すぎるんだ。俺はまた一段、他人の人生の深いところに降りてしまった。自分の手を口元にやって、その触覚で気を紛らわせようとする。だめだ、吐きそうになる。

 とても耐えられたものじゃないのに、俺は見てきた茜の記憶の中から、とりわけ熱く苦しい記憶を反芻していた。のし掛かる肉の感覚と、拒絶感ごと押し潰されるような自分自身への嫌悪感。

 彼女は「あの時」恐らく、初潮も来ていなかったのに。

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