12話 聖なる汚濁の降誕祭 前

 心臓を見つけられます。

 娘は確かにそう言った。顔をしかめたのは俺だけではなかった。思わず、と言った様子で振り返った茜は注意深く俺の目を睨んで、それからまた娘のほうに向き直る。

「説明してくれる?」

 娘の発言を一応受け入れた茜に、娘の周りの空気はどことなく安堵を孕んだように見えた。

「多分、」

 娘はそのように前置きをしてから、次のように続けた。

「私、ひととひととの『繋がり』が見えるんです」

 まだ、調子のいいときとそうでないときがあるんだけれど、と娘は付け加える。

「きょうだいや、恋人の関係や、『絆』みたいなのが……」

 娘の言葉に、後ろにいる番犬の男もひとつ首肯する。

「それで、私のこの『力』は、きっとあなたたちの役に立つと思うんです」

 娘の瞳は、そこできらりと輝いた。


***


 カフェに来る前、私は市井に自分の『力』のことについて話していた。

「あんたが言うには、高峯と『とりもの』のときに帰って来る子供っていうのは、『親子』の関係、ってことよね」

「一般的な親子とは言い難いが」

 市井はそう前置きをしてから、腕組みをしたまま

「まあ、そう言えんこともないだろうな」

 と、私の言ったことを肯定した。


「私のこの力って、きっと、まだちゃんと私に根付いてない……んだと思うんだけど、私ね、高峯とその『子供』の親子の『絆』みたいなものも見ることができるんだと思うの」

 市井は目を瞬いた。

「ひととひととの間に、草花が繋がっててね──うまくいえないけど──それで、そのひとたちがどう言うふうな関係なんだか、想像できるの……吉見の二人がきょうだいだって検討がついたのも、たぶんそのせいよ。だから、高峯に会わせてもらえたら、高峯と『子供』の間にも花みたいなのがきっと見えるはずだし、私、その『絆』を辿って、きっとその心臓の在りかを見つけられると思うの」


 どこか胸の高鳴りさえ感じながら私がそう話し終わると、市井はゆっくりと鼻から息を吐く。

「……なるほど」

 市井はそこで、組んでいた腕をほどいて、顎をさする。それから、その切れた目で私のことを慎重に見つめた。


「お前の奇異の力がお前の解釈通りならば、そうかも知れない。だが、それはお前の推測だろう。実際はそういう力ではないかもしれない。他にそういう力のやつを聞いたこともないしな」


 そう言われると思っていた。うちの父さんもそういうふうに私を諭していたものだったから。

「不確かだったっていいの。私、試してみたい」

 自分でもびっくりするくらい、私は自分が何をしたいのかわかっていた。

「市井は、華屋には行けないのよね?」

「……そうだ」

 市井が私の質問にそう答えて

「俺のことを嫌いな女も多いしな……」

 なんて付け加える。私がそれからまもるにまっすぐ体を向けると、まもるの紫色の瞳は驚いて揺れる。

「今度は怒ったりしないでね」


***


 娘は自分の異能について説明しながら、「絆」と言う言葉を何度も口にした。

「それで、お願いがあるんです」

 娘は俺たちに物怖じした様子だが、はっきりと言葉をついでいく。

「能力がちゃんと私に身につくまでの間、私を、匿って欲しいんです」

 は? と声を出した俺の横で、茜も動揺したらしい。彼女は驚くと声が出ないんだよ。

「あなたたち、そうしたってきっと損はないんでしょ……?」

 俺たちの顔を伺いながらおずおずと話すわりに、娘の言葉はやたらと狡猾の色を帯びていた。無知な子供のような顔をしておいて、この娘……。

「私、そうして貰ったらあなたたちにきっとお礼をするし……それに、ひとでなしをすぐに殺すのは、あなたたちにとってもまずいんじゃないかなって……」


 俺たちの図星を突いた娘は、そのことに気づいたのかはわからない。だが、そこでついに、わずかにではあるが口の端で、笑った。昨日、北崎の前で縮こまっていたあの娘は、俺の前から這う這うの体で逃げ出したあの娘は、どこに行った? 舌を巻く俺の前で、茜がひとつため息をつく。それから傾げたその首の横で、イヤリングが揺れた。

「ええ、あなたの、お気に召すままに」


***


 私とまもるは薄暗い洋間に通される。

「この二人はしばらく華屋の客人です」

 私たちの後ろを塞ぐようにして朱色の目の彼女はかしこまった言い方をした。

「丁重に」

 彼女のその言葉を何人もの先客が聞いていて、その先客たちの中には私の知っている顔もあった。

「よう」

 そうやって口をにっと横に広げて笑ったのは吉見の兄の方だ。妹と一緒に肘掛椅子から立ち上がって私たちの方にやってくる。

「お前を敵に回さなくて済みそうで安心した」


 そう言って眉をハの字に歪めてみせる様子に、私は吉見の言葉を本音だと思った。結構顔に出る人なのかもしれない。それから吉見は、ちら、とまもるのほうにも目線を送る。

「まもるを外に出してやったんだな? 市井の差し金か」

「……そうよ」


 私はそう答えながら、この人にどこまで喋っていいのかよく分からないでいた。いい人そうに見える人ほど、よっぽど怖い顔を表の顔とは別に持っているのかもしれない。吉見ふたりの肩越しに部屋の中を見渡すと、見える人影はどれもなんだか怪しそうな気がしてくる。なんでもないような顔をして全員が私のことを見ているし、私たちの会話に耳を澄ましているのだ。私が巡らす目線の先に赤色が映って、私は思わず目を見開いた。こちらに目線をやらない、赤髪の鼻筋の通った男の人。このひとが、市井の言っていた「マキ」だ。私たちに手紙をよこした人……。


 私の視線に気づいたらしく、マキは片側だけが長い変な上着を翻して洋室からさっさと出て行ってしまう。出ていく戸口で一度だけ私に向けられたマキの緑色の瞳は、私に「何も喋るな」と脅しているみたいで、私は面食らってぎゅっと唇を噛み締めたのだった。


***


 部屋から出ていく真木を横目で見ていた俺は、その後ろ姿を茜が殺気立った様子で追うのに気づいた。二人の姿が廊下の突き当たりに消えたのを確認してから後を追う。そうして俺の忍び歩いて行った先から苛立った声が聴こえてくる。角を曲がってすぐのところからだ。


「どういうつもり?」

 いつも通りの落ち着いた口調ながらも、明らかに怒気を纏った茜の声。なんのことだ、ととぼけて返す真木の声は不自然なくらいに無感情だった。こいつは、ポーカーフェイスはできても演技はできない男らしい。

「あの男のところに何か知らせをやったでしょ? 娘はここに心臓がないのを知っている風だった……」


 真木が何か返答をする気配はない。それから激しい靴音がした。俺がそうっと二人の様子を覗き込むと、茜が自分より頭一つ分も背の高い真木の胸ぐらを掴み上げている。真木には抵抗するふうもない。口をつぐんだまま、茜の顔をじっと見下ろしているだけだ。


「幸いこちらに不利益もないから、母さんには黙っといてあげる……でもね、勝手なことしないで。……あんたは誰の味方なのよ」

「俺は……」


 小さく口を開いた真木は何かを言いかけて、俺に気づいて露骨にこちらに視線を送ったから、それに気づいた茜も俺の方を振り返った。それから茜は汚い野犬でも見たように俺の姿に顔をしかめて、乱暴に真木から手を離した。


「いいね?」

 茜はそう念押しして立ち尽くしたままの真木から踵を返し、洋間のほうへと俺の横を通り過ぎていく。決まり悪そうにネクタイを直した真木は廊下の奥へと歩み去っていった。自分の部屋にでも帰るんだろうか。ぼうっと真木の背中を見ていた俺は、急に後ろから服を引っ張られた。振り返ると茜が無言で俺を睨みつけているところだ。俺と目が合っても声を発さず、犬にでもするかのように茜はもう一度怒ったままの切れた瞳で俺の上着を引っ張った。


***


 畳の匂い。私は客人用に用意された布団の中で、寝巻きになっていた。私たちが通された部屋は、その真ん中をついたてで区切られている。ついたての私の側には吉見の妹の方が、まもるのいる反対側では吉見の兄のほうが、傍で私たちを見張っていた。白い月の光が中庭に面した障子の格子をはっきりと浮かび上がらせて、ゆれる木の陰が映画館のスクリーンみたいにそこに写り込んでいる。風に木の葉の影が揺れるのを、布団の中に横になったまま、私はぼうっと、たぶん一時間くらいは見ていた。私はやっぱり眠れないでいたんだ。昨日の夜もそうだった。でも体が疲れているのは確かで、布団の中に横になっているのは心地いい。動かした足が温まった布団の中で擦れている。


 私は昨日からのことを思い出した。広場でのこと。市井やみなみちゃんが助けてくれたこと。自分がひとでなしになってしまったこと。新しくいろんなひとでなしと知り合ったこと。何度も死にそうになったこと。ほんとうにいろんなことが一気に押し寄せて、そのことを思い出したから私はなんだか胸が苦しくなった。部屋の中に誰もいなかったら、声を上げて泣きたかった。なんでこんな目にあわなきゃいけないんだろう。私が悪い奴だからかな。


 心細い私は布団から右手を引っ張り出して、月の光の差す畳の上に広げてみた。母さんはこの手を繋いでくれたんだ。そうしたら私は、当然なのに忘れてしまっていたことを思い出した。そうか、父さんと母さんは昨日まで生きていたんだ。その「当然のこと」がなんだかどうしようもなく切なくて、涙がはらはら目の端から零れていくのがわかった。カフェで私に向き合う二人の目は怖かった。私はきっとうまくやれたんだと思うけど、怖くないわけ、ないじゃない。私まだ十七なんだ。まだ、子供でいるつもりだったのに。いろんなことを考えて、そうやって考えるのが止まらなくて、私は自分が怖かった。今すぐ誰かに背中をさすられてなだめられたかった。


 そのとき突然、私の胸は懐かしさみたいなものでいっぱいになった。急に満たされる暖かい感覚に首をひねっていたのだけれど、私はその感覚が自分が鼻から吸う夜の空気から来ているのに気がついた。花の匂いがするんだ。ふわ、と優しく香る、どこかで嗅いだ懐かしい匂い。どこで嗅いだんだっけ。私が身を起こすと、ゆる、と布団が私の身体からはがれて、その先の壁に寄りかかる吉見の妹の姿が見えた。彼女は寝てしまっているみたいだった。くる、と障子の方に顔をやる。匂いは廊下のほうからしている。少し寒かったけれど、私は貸してもらった寝巻きの襟のところをきゅっと握って立ち上がった。そうっと歩み寄ってから、落ち着いてゆっくりと引いた障子は、私の思い通り音も立てずに開いて、閉まった。


 中庭の景色は美しかった。降り注ぐ白い月に照らされて、夜空の下でもネリネの赤紫が月に向かって咲くのが見える。驚くくらいに鮮やかなその花園からは、混ざり合った花の匂いが私の胸へと流れ込んでくる。あんまり綺麗で、私はほう、とひとつため息をついた。中庭を向く私の顔を振り向かせたのは、さっき布団の中で嗅いだ、あの懐かしい花の香りだった。中庭の花の匂いとは別の、どの花よりも高く香るたった一つの香り。目の前に広がる廊下の先から、その香りは流れて来ていた。どこか甘い、その特別の香り。それにつられるようにして踏みしめる私のつま先が、冷えた廊下のすべすべした面にこすれる。つやつやと手入れのされた床板は、私の裸足を受け止めるたびに、きい、きい、と小さく軋んだ。小さなその、きい、きいという音が、庭の虫の声と混ざって空気の中に溶けていく。


 さわりさわりと、中庭の草木を撫でたのと同じ風が私の頰にもなで付ける。さっきの涙はもう乾いてしまっていた。十月の空気は冷たかったけれど、月の光の下に冷えたその風はとても似つかわしいと私は思った。透明な夜だった。きっとあんまりに綺麗だったから、私は今度は別なふうに泣きたくなってしまったんだ。一歩踏みしめるごとに胸が苦しくなった。声を上げて泣きたいくらいだったけど、香りを頼みに背中を揺らして私は歩いて行った。早くそれを見つけなくちゃいけなかった。


***


 明日のとりものの配置について華屋の役者連中で散々話した後、俺と茜は部屋に戻って来た。ごたついているからか、どうも奴らの俺に対する説明は不親切だった。なんなら「とりものに関わるな、茜の護衛をしていろ」くらいの勢いだ。ナメられてる。そして、部屋に戻ってからも茜はずっとスーツを脱がず、苛々と落ち着かない様子でベッドの上に腰掛け、組んだ足のつま先を揺らしている。


 上着を脱ぐ俺を一瞥して、茜は、どう思う、と小さく俺に問うた。

「あの娘のことか」

「うん」

 上着をクローゼットの中に吊るしながら俺はなんとも言えなくて唸った。

「敵意はないと思った。言葉通り、こちらの保護を求めているんだろう。案外しぶといお嬢さんだ」

「……そうだね、昨日広場で見たのとは大違い」

 俺はそれから、ベッドの茜が腰掛けてるのとは反対側に座った。

「ああ、あれは生まれ持って、そういう才覚のある女なんだろう」

「……あれは子供よ」

 茜の怪訝そうな声に振り返ると、彼女は眉根を寄せて俺のことを見ていた。どうやら、俺の「女」という語に反応したらしい。いや、俺はどっちだっていいんだけど。

「あんまり物言いがはっきりしていたから……君と同じかっていうくらい……」

 そう口を濁した俺をなんだか寂しそうな目で見てから、茜はベッドをぐるりと回って俺の方へやって来た。俺を見下ろす茜の瞳は酷く冷たくて、いつも通りに美しかった。

「あんたを『寝かしつけて』やらなくちゃね」


 茜の目が、今度は昨日と同じように、ぎら、と凶悪の色を纏って輝いた。俺より一回りも小さい身体の彼女に、俺の頭からつま先までが震え上がる。そうしてこわばった俺の体を優しく押し倒して、彼女はこなれた様子で靴を脱いだ。黒いハイヒールが、絨毯の上に二つ散らばる。


 彼女の「寝かしつけ」には恐ろしいほどの麻薬的な効果があって、終わるときには俺は一種の昏酔に陥っていた。前後不覚どころじゃない。天と地がひっくり返るくらいの秩序だった混乱じゃない。彼女が俺に流し込む狂乱は、目に見えるもの、聞こえるもの……五感が受け取るものの全てが混ざり合って、自他もわからなくなるくらいの、恐ろしい毒の儀式だった。俺が最も人間になれるのは、彼女に再び「寝かしつけ」られる直前、つまり、今このタイミングなんだ。


 のしかかって来る茜に向かって、俺はなんとか人間らしさを保とうとしていた。

「待ってくれ……俺、聞きたいことがあるんだよ」


***


 私は襖の前に立ち尽くしていた。香りにつられるままにやってきた、離れにあるその部屋の前。薄い紫の小花が垂れ下がる模様の襖は、私を最初から待っていたような顔をして、そこにじっと佇んでいる。花の香りは確かにそこからしていて、さっきよりもずっと強く、私の鼻にこたえた。あまったるい蜜の匂い。花園の夢の中にいるような、くらくらするような、父さんの飲むお酒のような。扉を開けてはいけない気がして、開けなくてはならない気がして、私は金色の引き手に手をかけようとしてはやめてをしばらく続けていた。けれど、中にあるものは私を待っているに違いなかった。それは、そのために私をここに呼んだ。私は、それを見つけてあげないといけなかったんだ。私は思い切って引き手に人差し指を差し込んで、ゆっくりと戸を開ける。


***


「なぁに」

 気だるそうな声を零す茜の唇からなんとか目を逸らして、俺は彼女の目を見た。そりゃ、彼女の目にだってくらくらするからだめなんだけど。

「満月の出る『明日』……ってのは、これから寝て起きた明日……ってことだよな?」

「そうよ。日付で言うなら今日になるね。それだけ?」

 うんざりした顔の茜はそう言って、その柔らかい指先で俺の首筋をなぞっていく。眠りそうな脳みそをなんとか起こして、俺は彼女の手をぐいと押しのけた。


「そんじゃあ、俺たち寝ている場合じゃないんじゃないのか? きっと『子供』は突然やって来るんだろう。そういう系統の輩はさ、そのあたりで相場が決まってるんだ」


 そうのたまう俺をつまらなさそうな顔で見た茜は、

「映画の見過ぎよ」

 と言って、その足先で俺のふくらはぎをなぞった。びりびりと足から伝う劣情に頭がおかしくなりそうだ。


「『子供』はここと外が繋がっているときにしかやって来られないの。だって、あれは外から入って来るんだから。……外で日が沈むまでは、じりじり待ってたってしょうがないのよ」


 だから早く寝ちゃってよ、と言って彼女が俺にキスしようとしたから、俺は彼女の口を手で覆ってしまった。だから彼女は死ぬほど不機嫌そうな顔になる。

「じゃあ、もう一つだけ質問だ。……頼むよ。……『子供』っていうのはさ、どんな姿でここに戻ってくるんだ? きっと普通の人間の形をしていないんだろ?」

 どうせ、と垂れる俺に、茜はひとつ瞬きをして俺の手をやんわりとどかした。

「……人間の形、を、してはいる。けれど、違う。あんたが想像するような姿じゃない……」

 俺は茜の言葉の意味を測りかねた。

「……というと?」


***


 襖を開けた先に、月の光が差し込んでいる。そこは誰かの寝室だった。足元の真っ赤な絨毯からその先へと目を移していくと、奥には畳が敷いてあって、そこに一人が横になっている。苦しそうな息の音を聞いて暗闇にじいっと目を凝らすと、それは高峯だった。私はその姿を見た瞬間、部屋の中にいるのが高峯だったのにびっくりした後に、思った通りだったとも思った。この部屋の中にいるのはこの人しかありえないような気がしたんだ。布団をかぶった彼女は時折苦しそうに声を漏らす。うなされているのかしら。さっきとは比べものにならないくらいの強い花の香りに、私は高峯に最初に会ったときも彼女がこんな香りを纏っていたのを思い出した。もっとも、あのときはこんなに匂わなかったけれど。私はなんだか頭が冴えて来て、なんでこんなところまで来てしまったのかしらと急に怖くなって来た。頭がくらくらしていたから、何もそういうことを考えていなかったけれど。私、勝手に館の中を歩き回ったりして……。きっと私、ここの人たちに怒られるわ。そうしたら、ここに匿ってもらえなくなっちゃう……。


 私はそれから自分のやって来た方を振り返って、廊下に誰もいないことを確かめた。こっそりこっそり帰ろうと決めて、自分の開けてしまった襖の引き戸を探って伸ばした手に何かがふわりと触れる。手の甲に触れたのは、ゆるりと垂れ下がる藤の花だった。ぎょっとした私は、反射的に花を払いのける。けれど、ぞわりとした感覚が私のその左手から全身へと伝わって。そうして私は、見なければいいのに高峯の部屋の中をもう一度見てしまった。


 花に呑み込まれ、からめとられ、窒息するんじゃないかとまで思ってしまうような閉塞感。薄暗い高峯の部屋の中には、溢れんばかりの藤の花がびっしりと垂れ下がって、所狭しとその部屋の天井から私の鼻先までを埋めていた。これは自分の奇異の力のせいだと私はすぐに気づいた。それからどっと押し寄せる甘い異臭に、私は袖で自分の鼻を覆う。異臭……いや、さっきからずっとしていた匂い…甘い花の匂い……懐かしいような気もするような花の香り──いや、そうじゃない。どこか生臭いその匂いを嗅ぎながら、私は義務感に駆られて部屋の中に一歩踏み込んだ。足元には赤黒く染まった白百合の花が咲き乱れ、絨毯を埋め尽くすようにぐねぐねと赤らんだ蔦が茂って、それが高峯の寝床までも包んでいた。入ってはならない場所の香りに私は足がすくんだけれど、それでも好奇心でいっぱいの心のせいで私は後に退けなかった。そのとき、私の目の端に赤く黒ずんだ藤の花が見えて、私は、はっとした。やっと気づいたんだ。これは、この部屋を埋め尽くしているこの匂いは、この甘ったるくて懐かしくて生臭いこの香りは。


「経血の、におい」

 そう口に出して、私は一気に吐きそうになった。また、頭がくらくらする。


 変な気分になりそうな私は、床の中に一筋きらりと光るものを見つけて、はっとして目を凝らす。それはびっしりと床に茂った蔦のうちの一本だった。その蔦はよく見れば高峯の被った布団の下から伸びていて、呼吸をするように時折震えている。私はごくりと生唾を飲み込む。どう考えてもそれが、帰って来る「子供」と高峯との絆に違いない。思った通り、やっぱり私、心臓を見つけられるんだ。


 それまで恐れだけに高鳴っていた心臓が、またわくわくと別の鼓動を打ち始める。生臭い血の匂いなんて、私の感覚から吹き飛んでしまった。それから私は、その蔦が出口のあるこちらの方に向かってするすると床を這っているのに気がついた。この絆を追った先に。


***


「『子供』が自分の足で歩いて来るわけじゃない」

 あれは「運ばれて来る」の、と茜は付け加える。俺の急かすような表情にため息をついた茜は、俺から横に目を逸らして、首のあたりをさする。具体的に言うとね、という茜の言葉に、俺はじっと聞き入っていた。


「孕んだ女が連れてくるの」

 この掃き溜めまでね、と茜は付け加える。

「そうしてここで産み落とす」


 代理出産というところ、と付け足す茜に、俺の腹の底が震え上がった。五感で感じるところの全てが、俺にとって全て不快であるような気分だ。気持ちが悪い。脳みそに嫌な空気が満ちている感じがする。


「『子供』を孕んだ女がここまでやって来るってこと……?」

「そう言ってるじゃない」


 自分の言ったことをそのまま繰り返されたような顔をして、茜は俺の顔面に張り付いた恐怖を分かりかねているようだった。俺の腹の上にある茜の重さと体温がなかったら、俺は発狂していたかもしれない。自分の唇が震えているのがわかる。それでも俺は、喉からかっこのつかないか細い声を絞り出す。


「……『あれ』も、『外から来た女』、じゃないのか?」


 ぽつりと溢れた自分自身の言葉に俺は、改めて背中に寒気が走るのを感じていた。ぱっと上げた俺の目に映るのは、緊迫の色合いをたたえて見開かれる茜の目だった。


***


 私は走っていた。足の感覚があんまりない。いや、どの感覚も、あまり。目の前に次から次へと迫って来る鮮やかな花を踏み折りながら、それでも早く遠くに行かなくちゃならなくて、私は泣くのも忘れて走っていた。口を開けてどんなに息を吸っても、自分が息をできている感じがしない。あまりに息が不自由で、口から声が漏れ出て来る。私は中庭を突っ切って、庭道具や荷車の置いてある納屋のようなところにたどり着いた。夜の匂い、花の匂い、秋の匂い。それらの全部が全部気持ち悪くて、今すぐ全てを吐き出したかった。


 高峯の胎から伸びた赤黒い蔦は、うねりながら連なって、私のへそへと繋がっていた。

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