第1話 : その青金は奇貨なるや
(1)飲み屋での一悶着
川縁の街『ツムガヤ』の日が暮れかけると、街の目抜き通りには制服姿の点火人たちが姿を見せる。彼らは、いつも決まった時間に街中に現れ、街路に整然と並んだガス燈全てに火を灯すことを生業とする。彼らの仕事道具は、身の丈の三倍ほどの長さをもち、先端に火種を仕込んだ点火棒である。彼らは、夜陰が濃さを増すのと競争するように町中を駆けずり回る。そして、夜の帳を眩く照らし出す光を残して去っていく。
そんな煌々として眩ゆい大路より一本、横道の暗がりへと足を踏み入れてみよう。
すると、たちまち、けばけばしくて雑多な
『デッカーの樽置場』とは、この典型的な飲み屋通りに立ち並ぶうちでも一際目立つ、大箱の大衆酒場だった。
この店は屋号の通り、いくつもの酒樽をこれ見よがしに店内に並べ、そこから酒を波波と汲んで客に提供することを売りとしていた。あるいは、やり手の店主デッカー氏のお眼鏡にかなった器量良しの女給たち。彼女らが振りまく愛嬌もまた、もう1つの客のお目当てとして作用していたことは間違いないだろう。
ともかくも、店主の経営方策は、この日も大いに功を奏しているようであった。まだ空には日暮れの薄明が残る時分から、広い店内はあらかた客で埋まり、ムンムンとした汗臭い熱気と濃厚な酒の香りで満ち満ちていたのが、その証拠である。店主デッカー氏と思しき肥満体の人物は、店のカウンターの奥にてセカセカと忙しげに動いていた。精力的に店を切り盛りする彼ではあったが、愛想とも本心とも区別のつかない喜色は隠しきれていない。あるいは、あえて隠してはいないのか。
しかし、酒の悪しき効用とは、しばしば度し難くもある。
煙草と調理火から生じた煙が充満し、喧騒の坩堝となった店内。
その一角で、キャッと短い悲鳴が上がる。続けざまに響き渡ったのは、聞いた者の肝をヒヤリとさせるような、男の怒号。
半分夢見心地だった酔客たちの頭が、いっぺんに醒めたのはいうまでもない。相前後して、一瞬のどよめきが広がる。何事かと彼らはお互いに目を見合わせ、視線を声のした方へと向かわせた。
店中の注目が集まったのは、店の壁際にある、四人掛けの丸机。そこが事件の現場らしかった。
「アア、冷えなぁ、クソがっ! ――オイオイ、店員のお嬢ちゃんよぉ。この店じゃ、注文したお客に酒を浴びかけるのが正しい礼儀作法なのかい? 俺はこの店初めてでさ、知らねえんだ。なあ、どうなのよ。なあ?」
「も、申し訳ございません。ただ今、お拭きするものをお持ちいたしますので」
「全然質問に答えてねえなぁ! 俺が訊いてんのは、こんな大層な歓迎作法があるのかどうかってことだぜ。『はい』か『いいえ』かで簡単に答えられるだろう。なあ?」
椅子に腰かけたまま足を横柄に広げ、いらだたしげに床をふみ鳴らす若い男。
その男の前で、しきりに頭を下げては許しを請う、前掛け姿の十代と思しき女給。
当事者はこの2人。事の成り行きは、男のずぶ濡れになった服と彼の足元に転がった空っぽの酒盃を見れば、誰の目にも明白であろう。女給が躓いたか何かの拍子に、持っていた波波満杯の酒を客の男にすっかり引っ掛けてしまったのである。
男の怒気を含んだ詰問に、若い女給は震え上がり、ますます深く頭を下げた。
「本当に、本当に申し訳ございませんでした! どうか、お許しください。今、拭くものを、すぐに……」
「違うって言ってんのが分かんねえかなぁ? そうじゃねえだろ、『はい』か『いいえ』、どっちかっていう話なんだよ。なあ、嬢ちゃんよぉ、俺は気の長いクチじゃねえんだ。その上、酒も入っているときた。いい加減、答えてくれねえかなぁ?」
座ったままに、女給をジリジリと睨め上げる男。その横顔は、酒と怒りが回ったがために真っ赤に染まっている。
一方、哀れな女給は対照的に真っ青となった顔色を、何度も頭を下げたために乱れた髪の隙間から覗かせていた。
それが店の反対側の壁際に陣取った者の、ドロンとした酔いどれ眼にまで不思議と見て取れたのだろう。先ほどまで騒がしかった店内は、一転して水を打ったように静まり返り、酒盛りの場にはあるまじき空気が漂いはじめていた。誰も、何事も発することが憚られる、あの居心地の悪い緊張感である。この場を差配する立場であるはずの店主でさえ、カウンターの向こうでまごついたまま、いまだに動けないでいた。
しかし、それは仕方がなかったかもしれない。
かの怒れる男は、更に言えば彼の連れの男たちまでもが、見るからに筋骨隆々、刺青の見えるやくざ者紛いな連中だったからである。そんな訳だから、生半可な覚悟では彼らの間に割って入ることなど、誰もできはしなかった。また、恐ろしきは集団意識というもので、きっと自分ではない別の誰かが意を決して止めに入ってくれるだろうと、その場にいる誰もが皆、たかを括っていたのである。
かくして、緊張はますますその度を強めていく一方であった。
「ガハハッ!」
そのような空気を読まず、静寂を破ったのは怒りに満ちた男の連れの1人だった。
「なあ、ダンよ。お前の欠点は気が短いだけじゃないだろうが、なあオイ」
「アァン? なんだと、ジンナー。俺に何の欠点があるって?」
ダンと呼ばれた男がその鋭い視線を、振り返って、連れの大男に向ける。
「おい、言ってみろよ、ジンナー」
一団の年長らしき大男ジンナーは、機嫌の悪いダンにねめつけられても動じることなく。かえってニンマリと、酒に緩んだ口元を愉快げに吊り上げた。
「ああ、言ってやるとも。俺たちゃ昔っからの友人、何の気兼ねもねえもんだ。ダン、お前の欠点、それは何と言ったって、学がないことさ。そう、学なし! ガハ、ガハハッ――! ……ッ、ゴホ、ゴホゴホッ」
「アハ、違いねえ、違いねえ!」
「そうだ、ジンナーの言うとおり!」
「ハァ? お前ら、俺を揃いも揃って馬鹿にしてんのか!」
ジンナーの指摘に、他の連れ二人も悪ノリして同意の声を上げると、ダンが声を荒げた。彼は二人に食ってかかるように席を立って、料理や酒が並んだ丸机に身を乗り出す。二人はからかうような表情を浮かべたまま、怒れるダンが伸ばしてくる手を慣れた様子でひょいひょいと避けた。
その頃、当のジンナーは自分の冗談で咽せ込んで、巨躯を椅子の上でくの字に折り曲げていた。しかし、かすかに忍び笑いをこぼしていたようだ。咳き込みとは違う、クックッという押し殺した息遣いを聞き漏らさず、ダンは「いつまでも笑ってんじゃねえよ!」と彼の大きな肩を力任せにド突いたのだった。
降って湧いた騒動が、喧しい仲間内の戯れに移り変わっていく。その有様を、固唾をのんで見守っていたのは、店中の人々、とりわけ騒動の当事者にして最も男達に近い位置にいる女給である。彼らの心中には、この騒動がこのまま終結に向かうのではないかという安堵感が、一様に広がりつつあった。場を白けさせるような騒動を見かねたジンナー他2名が、気を利かせて激昂するダンの注意を逸らしたのではないか、と。同じ卓を囲む者たちと小声でやりとりするざわめきが、現場から離れた席から起こって順に波及し、張り詰めた空気は連鎖的に解けていった。
その最後には、女給も自身の仕事を思い出すまでに落ち着きを取り戻す。そして、彼女は、まずは布巾を取りに行かねばと、一言一礼を残して踵を返しかけた。
そのときだった。
「だからな、ダンよ。ククッ、下手に出て、こう訊けば良かったんだ」
ジンナーが体を起こして、立ち上がっているダンを見上げた。
「自分には学がないもんだから、是非、礼儀作法についてお嬢さんからご教授願いたいと、さ」
ざわめきが止み、再び場の空気が凍る。立ち去りかけた、女給の顔がひきつる。その表情の変化を、店中の誰もが見て取った。
向き直った彼女の視線の先には、ダンの赤ら顔があった。彼の背後には、同じような酔いの回った顔が3つ並んでいる。ダンは気味悪くニヤけてみせると、酒焼けした喉で無理な猫なで声を作って、女給に問うた。
「じゃあ、嬢ちゃん。改めて教えて貰えるかな。俺、気が短い上に、頭がちいと悪いもんだから、出来るだけ簡単に答えてくれると、なお助かるなぁ。俺がびしょ濡れの酒まみれになってるその理由を、さ」
女給は、もう答えられなかった。男たちに気圧されて、今一度色を失い、ブルブルと怖気が全身に走っていた。
店内の他の誰もが、見えているのに、見て見ぬ振りをした。面倒ごとなど、誰もが避けたがるものである。
その中で唯一動いたのは、店主デッカー氏だった。が、それも他の女給に背中を押されたためがために、調理場から呼び寄せた男手を後ろに引き連れて、ようやくカウンターを出てきたというところに過ぎなかった。
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