(6)キュリオーネの苦悩

 だが、なぜか。キュリオーネはまだ何やら言いたげに、リダをじっと見据えている。その視線に嫌な予感を覚えるのが早いか遅いか、彼女は先んじて口を開いた。


「そういえば、キミは確か、出版社に勤めていたね」

「……ええ、見習いですが」


 座っていた木箱から腰を微妙に浮かせつつ、彼は控えめ気味に小さな声で答える。逃げおおせる時機を逸したのは、全く明らかで、観念せざるを得なかった。


「見習いでも何でも構わない。文章に関わっている人間に、少しだけ相談に乗ってもらいたいんだ」彼女はリダの返事を待たず、話を進める。「実は、今、記述が手詰まりといったところでね」

「手詰まり、ですか? 史料はこんなあるのに、それはまた何故?」

「そう。史料はあるんだ。ありがたいことに、ここにはあふれ返るほど集まっている。たった1人の男の日誌群が、この広い迷宮世界の中で、ただの一文書蒐集館にだよ。奇跡的な確率といっていい」

「じゃあ、なにが問題なんです?」

「……私にはこれ以上、クレイウォル卿について書けそうにない」

「えっ?」

「私では殺してしまうんだよ、彼を」


 想定外の答えに、リダの頭は一時真っ白になる。

 物事を知り、そして書き記すこと自体を生業とする『記述者』が書けないと弱音を吐くなんて、教授ですら思い浮かばないのではなかろうか、と思われた。

 それにも増して不可思議なのは、死者を殺してしまうという言葉。

 それは一体どういうことか?

 一方、キュリオーネは少し苦しげな表情となり、その声はだんだんと弱々しいものになっていく。


「なんとも具体的には言いづらいが、上手く書けないんだ、私では。日誌を読みこめば読みこむほど、この奇妙なご先祖様について痛いくらいによくわかってくる。なのに、いざ書く段になると駄目なんだ。書けば書くほどに、違和感が酷くなってくる。こんなのではいけないと、私の中で誰かが責め苛むんだ」

「駄目ということはないでしょう。貴女は立派な『記述者』だ。この狭界での学位がないとはいえ、教養人として十分に巧みな文章を書くじゃないですか。うちの教授だって、それを認めるくらいに」


 リダは、幾度も繰り返し読んだキュリオーネの文章を思い起こす。少々回りくどくなる筆癖はあるものの、名の知れた学識人のそれと比べても遜色ない水準だという印象が、彼の頭には強く刻み込まれている。それなのに、彼女はいけないというのだ。


「それじゃ、駄目なんだ」キュリオーネは、そんなリダの慰めにも苛立ちを隠さず、頭を振る。「記録の中の彼は、――『欠地伯』ハゼム・クレイウォルは、実に面白い人物だ。真剣さのあまり滑稽に見える時もあれば、揺るぎのない信念を垣間見せることもある。格好良くもあり、可愛らしくもあるし、あるいはまた小憎たらしく思う時さえある。でも、私が彼のそんな生き様を描写しようとすると、彼はたちまち生気を失ってしまうんだ」


 これも同じだよ、と。キュリオーネは机の上の、書きかけの原稿を忌々しげに一瞥した。

 彼女はもう一度、かみしめるように繰り返した。


「私の書き方では、どうしても彼を殺してしまう。それが悔しくてならない」


 リダの目の前で、書きかけの原稿が彼女の手のひらの中でグシャリと潰れる。念入りに念入りに、力を込めて丸められ、それは机の下に落ちていった。

 床中に散らかる紙くずが、みな書きかけて捨てられた原稿用紙なのだと、彼はその時ようやく気がついた。

 そして、その光景に、彼は既視感があった。


「いっそのこと。こんなことは辞めて、とっととこの街を出て行けと。そういうことなのかもしれないね」


 キュリオーネの憔悴した声音を耳にしながら、リダは自然、手近に転がっている丸められた原稿用紙に手を伸ばしていた。そして、それらを破れないように開いていき、ランプの灯のもとで、キュリオーネが「生気を失っている」と称した文章に目を通した。書いては消されが繰り返されたそれはひどく読みにくかったが、内容は確かに彼女が評した通りであった。

 それから続けざまに、先ほど預かっていたキュリオーネ手製のクレイウォル欠地伯の資料も広げた。分厚く大判のそれを、彼が胡坐座りになって、ページを繰っていった。

 そうしていくほどに、彼の中で既視感は確信へと変わる。

 どうして彼女ほどの人物がこのことに気が付かないのか。その点は依然奇妙なほどであったが、ともかく彼女が書けないと言い出した理由が、リダにはあっさりと分かってしまった。


「――キュリオーネさん。編集見習いとして、僭越ながら言わせてもらってもいいですか?」

「ああ、何だい。キミのご意見、ぜひぜひ拝聴したいところだ」

「そんな大げさなことでなく、ごくごく簡単な話です。――領域ジャンル違いですよ、コレ」

「へ?」


 キュリオーネの素っ頓狂な声に、思わずリダは吹き出してしまった。

 きっと、今の彼女には色々と足りていなかったのだろう。十分な食事とか、十分な睡眠とか、十分な日光とか。代わりに、埃と誇りにまみれた十二分の書物に埋もれていていたがために。

 そんなことを彼は思った。


「キュリオーネさんは、今までずっとクレイウォル卿を『記録』として書かれています。先ほどの手稿にざっと目を通した限りの感想ですが、おそらく、これまでは数少ない史料を丹念に調べ上げて来られたのでしょう。その段階では良かったんです、それで。しかし今回、幸か不幸か、生々しい一次史料群が尋常ではない分量出てきた。キュリオーネさんほどのお人が、情報の消化不良を起こしてしまうほどに」

「情報の消化不良……、ここに散らかっている紙屑のことかな」

「目に見える形でいえば、そうです。『記述者』として、知りえた情報を『記録』として残そうとした結果、齟齬をきたしたわけです」

「それがキミがさっき言った、領域ジャンル違いにつながってくると?」

「はい、そうです。クレイウォル卿は『記録』では描き切れない人物であると、それはキュリオーネさん自身がよくお分かりになったことでしょう。だからこそ――」


 その瞬間である。

 リダの脳裏に、数刻前に聞いた言葉が蘇った。


「自前で書ける人間を引っ張ってくればいい」

「貪欲で金払いのいい読者を満足させること」


 彼の口元には自然と笑みが浮かぶ。疲れ切っていたはずの頭の中が、突如として明晰さを、あるいは熱量を取り戻す。そうして、現時点での根拠の構築など置き去りにして、夢のような未来図が彼の脳裏には描かれ始めていた。これは、遅れてきた酒精アルコールの効用であろうか。

 その発想が、打算的であることに違いはなかった。加えていえば、利己主義的でもあり、極度に楽観主義的でもある。しかし、それ以上に魅惑的な思いつきでもあった。彼の心は、目の前で訝しげに自分を見つめる女性に、せめて提案だけでもしてみようという方向へと傾く。

 彼はさも簡単げに、彼女にこう言ってみせた。


「――だからこそ、これは『物語』として書いてみるべきだと思うのですが、どうでしょう?」

「『物語』? いや、しかし」キュリオーネは一旦ハッとした表情を浮かべた。が、すぐに考え込む。「それは事実に、脚色つくりごとを加えるということじゃないか?」

「いいえ、そんなことはありません。そもそも、クレイウォル卿が今までのやり方ではとても描き切れないと言われたのはキュリオーネさん自身ですよ。それに脚色もやり方次第では、真実を覆い隠すだけの無用な装飾ではなく、クレイウォル卿の真実の姿を読者に伝えるための、有用な潤滑剤にもなり得ます。なぜなら、キュリオーネさん自身も、クレイウォル卿の史料を読み進められたとき、彼が旅した情景を心に思い描いて魅力を感じたはずなんです。過去の記述と読む者の想像力と、それが組み合わさって『物語』は生まれるんです。けれども、それは形式ばった『記録』の形では表現することはできない」


 リダは内心、下心を隠したままの後ろめたさに苛まれていた。だのに、彼の口はかえって滑らかに巧みな言葉を並べ立てていく。


「それに、面白い物語であれば、金を払ってでも読みたがる人は世界中に大勢います。とりわけ、この街に住む余暇がある人々は、食べ物の代わりに娯楽に飢えている。クレイウォル卿の物語であれば、きっとそんな人々のお眼鏡にかなう。僕はまだ未熟者ですが、その成功に確信を持たずにはいられないんです」

「ちょっと待ってくれ、リダ君。キミは私に物語を書かせて、しかもそれを売り出そうという魂胆なのかい?」

「はい。これでも出版人の端くれですから。でも、これはキュリオーネさんのためでもあるんです」困惑するキュリオーネに、リダは切々と説くように言葉を継ぐ。「たとえば、このままのやり方で書いていくとしましょう。その間の生活はどうするんですか。現状のままアンネラットさんがここに置いてくれれば、とりあえず住むところは確保できるでしょう。でも食べるもの着るものはどうするんです? それもこの部屋と同じように頼るんですか。それにアンネラットさんに頼れる内はまだいい方です。高等学問所の事務局に貴女のことが知れたら、そのときには彼女も流石にかばいきれなくなりますよ。そんな事態にならないためには、生活の糧を得ながら書き続けられるようになる必要があるんです」


 リダは、そこで説得を続けるのをやめた。キュリオーネは表情にまだ困惑の色を残していたが、それでも「物語、か」と呟きつつ考え込み始めたからである。無理に急かす意味は、もうない。

 やがて、彼女は顔を上げた。


「どうするか、少し考える時間をくれないかな」

「……わかりました」その言葉を、1人になりたいという合図と彼は解した。「今日のことは、教授にはどう伝えておきましょう」

「大変な失礼をしてしまったが、やはりしばらくはこの街にとどまることに決めた、と。折を見て、研究室にも直接行くことにする」

「では、そのように伝えます」


 別れの挨拶を済ませ、手記を借り受ける礼を言って、リダは席を立つ。ランプの燃料が切れかかっていたが、既に2人の目は暗闇に慣れていた。

 彼が扉の前まで来た時、「リダ君」と声がかかった。


「はい、何でしょう」

「今日は来てくれてありがとう。たまには人と話してみるものだな。少し頭の中の靄が晴れたような気がする」

「お役に立てたのであれば、幸いです」

「じゃあ、また今度」

「はい、それでは」


 彼はこうして、キュリオーネの部屋を後にした。

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