プロローグ3

ライトスパー開始を報せるブザーが鳴る、熊谷は先のマススパーで身体が温まったのか、ステップワークの速さが増していた。軽やかに左へ左へと回り込み、久島の死角や隙を狙おうとしている。


これだ、これが怖いと久島はしっかりと顔面を覆うように腕を上げて防御体勢を取りながら、熊谷を注視する。


死角を見つけた瞬間、一気に突進して崩し、倒しにかかるのが熊谷幹也の戦法。一発入った瞬間、力強く早いラッシュで突き崩される。その全てがKOに繋がるのが、プロキックボクサー熊谷のパンチなのだ。


そして、こうなれば久島は下手に手出しは出来ない。熊谷の一撃と、暴風雨の如きラッシュが、何かの拍子に始まるのだ。何度もスパーをしたが故、下手な攻撃を出した瞬間に一気に来るのが、久島にはしっかり分かっていた。


シッ、と短い息を吐きながら久島は右のローを放つ。下から素早く放つ、擦り上げるローキックは、蹴りで放つジャブであり牽制。ともかく熊谷を踏み込ませないのが、久島が出来る事であった。


熊谷はそのローを前足となる左足を上げてカット、少し後ろへ下がって久島の目を見ながら、左右にステップワークで撹乱させようと動きを早めた。


ここで久島は動いた。


「ッァアシッ!」


「ぬ!?」


左のすね当てが、熊谷の動きを止めた。サンドバッグを揺らす左のミドルキック、蹴りは強めでいいと言われ、久島は遠慮しなかった。が、全力ではない、精々六割程度ではあるが、熊谷の左右の動きを止めた。


もう一発、動きが止まった隙を見て久島の左足は再び上がった。左ミドルのダブル、ムエタイ選手が見せる連続ミドルを久島は仕掛けた。


「ッシャアイィア!」


仕掛けたのだが、熊谷はタイミングを見極めていた。熊谷の力強い右ストレートが、久島の顔面に叩きつけられた。カウンターである、久島の左ミドルに熊谷が右ストレートを合わせ、見事叩き潰したのだ。


「っがふ!?」


バスンッと16オンスグローブが、久島のヘッドギアから露出した顔面に吸いこまれた。左ミドルを放って片足の不安定な状態で食らったならば、無論久島は倒れるしかなかった。


尻もちをついて、久島は熊谷を見上げた。


「試合でも出せねぇわ、今のカウンター……やれるかーい、久島君?」


「だ、大丈夫です、時間までやれます!」


久島は素早く立ち上がれば、熊谷は再び構えて距離を取る。倒されたからか、久島に熱が入りだし、ベタついたままの足が軽くステップを刻み出した。


久島のステップに、熊谷は笑みを浮かべて迎え撃つ。ジリジリと距離が近づいた瞬間、久島の左ジャブが放たれ。


「っぐ!?」


熊谷の顔に当たった、乾いた弾く音が久島のグローブから聞こえた、クリーンヒットしたのだ。熊谷は顔をさすりつつ、ステップを刻み久島との距離を取るが、そこを久島は見逃さなかった。


再び放たれた左ジャブ、これを熊谷は背を軽くそらしながら後ろへステップして回避、続いて右ストレートが久島より放たれた。基本のワン・ツー、ストレートに反応して熊谷が下がり……。


ロープに背が当たった。熊谷は、向かってきた右ストレートを両腕で顔面を覆い隠してガード、軽い衝撃が腕を伝った……刹那。


「ッァアシッ!」


右側に、横殴りの衝撃を受けて熊谷の身体が左へと揺れた。久島の左脛が、熊谷の右腕上部、肩あたりにめり込んだ。ワン・ツーから、スイッチして左ミドル。対角線の三連コンビネーション、これまた基本である。


熊谷の身体がよろめいた、久島はさらに詰め寄り熊谷へ追撃を仕掛けにかかる。しかし、熊谷は既に攻撃の体勢に入っていた。


思い切り振られた左腕が見えた久島は、右腕で頭をかばう。右腕に来たのは、凄まじく思い衝撃、そして耳に響くは破裂するような音。


続き様に腹部に突き上げる衝撃が来て、久島は息を吐き出して足をよろめかせた矢先、ボスボスと空気の抜けたような音と共に、身体中に軽い感触を感じた。


「ほらほら久島君、逃げるか返さな?」


ボディで止まった久島に、熊谷が手打ちのパンチでラッシュをしていた。練習のため本気でないにせよ、久島はパンチのラッシュで体を揺らして後退してしまう。


「久島君ロープ!ダウン取られるぞ!」


遂にはロープに追い込まれ、熊谷の手打ちで早いラッシュで久島はロープを背負い、釘付けにされてしまった。ダウン取られると、姫路会長が大声で叱咤し、久島はボディのダメージでくの字に曲がってしまった身体を、無理矢理に胸を張って起こす。


「っがっはぁああ!!」


「うおっ、とあっ!?」


両腕を伸ばして、久島は熊谷の後頭部を両手で引き寄せた。そしてそこからだった、熊谷の身体が揺れ、リングに倒れたのだ。


後頭部を両手で引き寄せながら、久島はそのまま左へ踏み出しつつ、熊谷を振り回すかのような動きを見せたのだ。ただ引き倒したよりか、まるで柔道のように、綺麗に熊谷を崩して倒したのだ。


「おー!久島君ナイスーッ、ムエタイルールならポイント入ってるよー!」


「っとぉ、首相撲上手いなぁ久島……」


姫路会長は久島の動きを褒め、熊谷が立ち上がったところでブザーは鳴った。


「はい、ナイスガッツ久島君」


「う、は、はひ……」


ボディの気持ち悪さが残る久島は、腹を押さえながら熊谷が差し出す左のグローブのナックルに右のグローブを合わせた。そして足を引きずりながら、リングから降りた。


「久島君、首相撲と左が強いなぁ〜熊谷君と普通に戦っとるやん」


「か、会長……」


姫路会長は朗らかな笑みで、腹を押さえる久島の背中を撫で、大丈夫かと声をかけながらジムの隅にあるベンチへと誘導した。はぁ、と大きく息を吐いて背筋を伸ばせば、左脇腹に軽く痛みが走った。


「お疲れさん、あ、それでな久島君さぁ……試合とか、出ない?」


疲れ果てた所に、突然の誘いが来て久島は思考が追いつかず、ゼェゼェ荒い呼吸を繰り返しながら、姫路会長の言葉を理解する。そして久島はゆっくりと答えた。


「あ、あの?姫路会長……っは、僕は、体力作りで来ただけで、っは……試合とかは……」


あくまで、運動不足解消の為に始めたキックボクシング、エクササイズ程度にしか考えていなかった久島は、何故自分が試合に出るのか、何故に姫路会長が試合に誘ったのか理解できなかった。


「うん、知っとる……知っとるけどな〜……正直に言うてな、久島君を試合に出したいんよね、このまま体力作りで終わらしたくないんよ」


「何で、ですか?」


「強いもん、久島君」


そして、その理由は単純であった。強いから、試合に出したい。だから誘ったと、姫路会長は笑いながら言った。


「えーと……四月一日は過ぎましたよ?」


「おもろいなぁ久島君、でも嘘じゃない、本当強いよ久島君は、マジだから」


しかし、突然言われた久島は、悪い冗談だと軽く苦笑いを浮かべた。ただの体力作りで来ただけの人間が強い?


周りのプロを目指す練習生より、ましてや熊谷さんのような、真面目に練習しているプロより、エクササイズとしか考えず参加している自分が?


到底信じられないと、ぼーっと意識が抜け落ちたように上の空な久島だった。


「プロ相手にあんだけ戦える君が、弱くはないだろう久島君?」


そんな久島を呼び戻したのは、先程まで久島がスパーリングの相手をした、プロキックボクサー、熊谷の声だった。


「つーか、姫路会長……久島君ってアマ戦績ないの?確かジムで、アマキックやグローブ空手の参加できましたよね?」


「いいやぁ、中学で入門してからずっと出てないんよ、律儀に体力作りでランニングと基本、サンドバッグとか、熊谷君やらとスパーしかしてないんよ、戦績0勝0敗」


「嘘、最近は高一でプロとか、ユース枠で興行出よるような子が居るのに?」


久島を余所に、話し始めるプロ熊谷と、姫路会長。それを傍目に眺めながら、久島傍目にふと考える。試合に出るだとか、思ってもいなかったと。


ジムにいる以上は、必ずや耳に入る試合の話。熊谷さんや、他のプロの試合や、練習生のアマチュアカップ参加など様々だ。中学からずっと通いつつも、久島忠秀は試合に関しては全く触れていなかった。


自分はあくまで体力作り、エクササイズの人間、そもそも試合の話なんか無いだろうし、そんな中途半端な考えでリングに上がっては、失礼になるのではと考えていた。


「ま、それでなぁ?久島君にこれ、見せようと思うたんよ」


そう言って熊谷と話を区切り、姫路会長は一枚のビラチラシを久島に見せた。久島は、それをじっくりと見て、ゆっくりと表情を変える。


「い、いやいやいやいや、BOFとかいきなり過ぎでしょう!?」


そのチラシの広告を理解するや、久島は首をブンブンと横に振って、それは無いだろうと否定した。




キックボクシングと言っても、日本国内には様々な団体がある。さらに、これが世界となると各国に無数の団体があり、無数の世界チャンピオンのベルトが制定されている。


国内団体でも、メジャーマイナーを集めれば十数団体、アマチュアカップならそれよりも多いし、地下格闘技すら含めればさらに数も増える。


そして、その団体ですらキックボクシングルールやらムエタイルールで分類され、特色がある。そんな様々な団体があるキックボクシングで、強さを証明するならば、幾つか方法がある。


代表的な方法の一つは、タイ王国の国技『ムエタイ』の二大スタジアム。『ラジャダムナン』と『ルンピニー』スタジアムで王者になる事だ。そもそも、キックボクシング自体が、打倒ムエタイを志したフルコンタクト空手の選手が、ムエタイ戦士に敗れ去った事が始まりの歴史であり、因縁深き相手なのである。


そしてもう一つは、世界的メジャー団体でチャンピオンになる事。キックボクシング団体は世界から見ればいくつもの団体、いくつもの世界チャンピオンベルトが制定されている、統一感の無い格闘技である。ボクシングならばWBA、WBC、WBO、IBFと、代表的な団体が挙げられるが、キックボクシングにはそのような連盟、協会があまりにも多すぎるのだ。


そんな世界チャンピオンやら、強豪にオファーを送り、大きな団体で戦わせて本当のチャンピオンを決める大会が、日本にはあった。それが『BOF』という興行団体であった。


『Brave Of Fist』ブレイブオブフィストと言う団体は、日本の格闘技黄金期に立ち上がった興行団体で、あるフルコンタクト空手団体の館長が始めた興行だった。


初期は、世界中の様々な格闘家を日本に集めて、キックボクシングで戦わせると言う単純なものであったが、徐々にルール整備、スターダム選手の登場等と人気に拍車がかかり、今や格闘家にとって『BOF』に出場するという事は、一つの夢、目標であり基準でもあった。


そんな日本から発信した、世界的団体『BOF』のチラシを姫路会長は、久島に見せたのだ。そのチラシの内容と言うのが……。


『BOFジャパンユーストーナメント、地区選抜大会』と言うチラシだったのだ。


元々、日本で始まったBOFと言う団体。しかし、世界の壁は分厚く、様々な日本人キックボクサーが涙を飲み、挫折している。欧州の強豪、ムエタイ戦士の参加などから、日本人の活躍自体がBOFでは難しいのだ。

そんな事から、BOFは新たな才能発掘の為に始めたのが『BOFジャパンユーストーナメント』であった。全国の高校格闘家を集め、トーナメントで実力を測り、新たな日本人スターダム選手の発掘を兼ねた大会のチラシを、姫路会長は久島に見せたのだった。


「そもそも!BOFに出場する人って、アマチュアキックとかで優勝したり、現役プロとしても出てる人が出場してるんですよね!?何もキャリア無いのに出れないでしょう姫路会長!」


故に動揺するわけである、そもそもがBOF自体が世界的団体であり、ユースの出場選手もレベルが高いのは久島も知っていた。そんな大会に、キャリア0の自分が出れるわけがないと、姫路会長に話す。


「いや、地区選抜自体は誰でも出れるよ、ジムに入りさえすればね?」


「そ、それでも……ですねぇ……」


しかし姫路会長は笑みを崩さない、地区選抜大会はキャリア不問で参加できると、チラシの出場可能選手の規約に指をなぞりながら姫路会長は説明した。


「久島君、まぁ……勝ち負けは別に出てみたらどうだい?久島君もジムに通う人間なら、試合の経験は積んでもいいと思うよ?」


「熊谷さん……」


グローブを外しながら、狼狽える久島を諭す熊谷。久島は姫路会長の持つ広告を見つめながら、深く深く悩むのだった。



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