悲剣 一刀両段

泊瀬光延(はつせ こうえん)

第1話 目録

 その年、塚本大祐(つかもとだいすけ)は沼田城下の新陰流の師範、辻茂吉から目録を得た。目録とはその流儀を一通り納めた者に与えられる書状である。


 茂吉の父、茂右衛門は天下の御指南役、柳生宗矩の高弟で、厩橋(まやばし)藩の酒井家の剣術指南役であった。その子の茂吉は酒井家に縁がある沼田藩主、真田信利(のぶとし)に請われこの沼田城下に十年前に来た。馬廻り役と兵法指南役を仰せつかった。


 しかし、真田信利という男は移り気で放埒な性格で、藩主になったばかりの時は善政を行っていたが、次第に政治に興味を無くして重臣達に任せきりにするようになった。

 その昔、真田藩祖の信之(のぶゆき)は、徳川家康から安堵された旧領を松代藩七万石と沼田藩二万五千石に分けた。

 信利は信之の孫で沼田藩三代目である。直系だという矜持と野心もあって、いつしか真田家を再び一つにまとめ、そこに君臨する夢を見ていた。

 信利は松代藩主で叔父の信政が死んだ時、幕府に松代藩の家督を継ぐ権利があることを訴えた。だが、信政は自分の庶子である幸道を遺言で、次代の藩主に指定していた。

 松代藩の家督をめぐって、直系の信利と正室の子でない幼い信政の子との争いになったのだ。


 信利の性格とその家臣団を知る本家の家臣達は、信利を受け入れなかった。信利は幕府に訴えて係争になった。幸道の家臣達は、信利が松代藩主になれば全員切腹する、という連判状を幕府に提出した。

 結局、信利は敗訴し、松代藩を手に入れられなかった。信利はますます自分の世界に耽り、剣術などに目もくれなくなった。よって茂吉の役目は城中では殆ど無く、道場での門下生の育成に携わっていた。



 信利は虚栄心を充たすために、沼田城の改築や寺社の建立、江戸屋敷の改修など財政を顧みずに金を使うようになった。そのため、閣僚達は度重なる重税を百姓に課していた。三万石ほどしかない石高なのに虚偽の検地を行い、十三万石を宣言した。狂気の沙汰である。

 何故このような事が可能だったのだろうか。信利は領民の怨嗟の声を無視し、言う事を聞く家臣のみを身近に置き、彼らに権力を与えていたのだ。

 遠ざけられた家臣達は黙して忍耐の時に入っていた。


 天和元年(1681)の夏、沼田領は特に暑く、暗鬱とした雰囲気が満ちていた。



 大祐の父、塚本舎人(つかもととねり)は、高々三百石の家臣であったが、信利の信頼を得て側近中の筆頭となった。その盟友である普請奉行の麻田権兵衛、御金奉行の宮下七太夫の三人で、一千石以上のの五人の家老を押しのけ、執政をしていると言っても過言ではなかった。

 大祐の幼い頃は皆が機嫌を取ってくるのでこんなものかと思っていたが、財政が破綻し領内が殺伐としてくると憎しみの目で見る者が出てきた。父と外を歩いている時、斬りかかられたことがあった。その時は大事は無かったが、大祐は父を守ろうという子供らしい義侠心で新陰流の門を叩き、剣術に没頭した。

 だが修行を重ねるうちに武道の神髄の匂いを嗅ぎ、当初の目的よりは自身の心の修養に傾いていった。もし大祐が義の心を知らなかったら、この物語を語る理由はなかった。



 二十歳(はたち)の大祐は、目録を得た達成感はあったが、心底から喜ぶことは出来なかった。日に日に悪くなる父の評判に、気が重かった。

 今の父は昔の優しかった父ではなかった。城中の評議で、幕府に納めなければならないケヤキの大木三十本をどうするのかと、日夜怒鳴り散らしているようだ。八月に納めなければならないのにまだ八本しか伐採出来ていないという。


 これは去年、関東地方を襲った長雨で倒壊した江戸の両国橋の掛け替えを行うために、幕府の御用商人、大和屋久右ヱ門と三千両で契約したものだった。条件は末口二尺七寸(約80センチ)以上、長さ九間(約18メートル)のケヤキの大木であった。

 森林の豊富な沼田領であったが、信利の散在を支えるために、良木はとっくに刈られていた。条件のケヤキが簡単に伐採出来ると考えたのは、現実を知らない官僚の落ち度だった。

 大和屋から金を前金で受け取ったが、それは直ぐに今までの放埒財政の負債の返済に消えた。後は農民を駆りだし、馬車馬のように働かせるしかない。

 戦国時代の勇、真田昌幸以来の善政の記憶は領民の頭から失せようとしていた。



 大祐は六尺近くの体躯で寡黙な男であり、近寄りがたいところがあったが、父の威を借りるような暗愚ではなかった。幸いにも、権力を持つ他の二人の重臣の息子達も聡明であった。

 幼なじみでお互い気の置けない親友となっていた彼らはある時、領内を旅して周り、その農民の苦しみを知った。


 はじめは遊興の温泉廻りの筈だった。各地の温泉は森林の伐採地の近くにある。そこでは代官の命令で、奴隷の様に働かされている農民がいた。彼らの侍を見る目は憎しみに満ちていた。

 旅の後、彼らは危機的な状況が来る事を予感した。


 大祐の父を暗殺する計画もあるという。だが、藩主の信利自身があの調子だから、父が死んでもどうにもならないだろう。

 どんなに悪臣であると言われても父は父だ。父がいなくなって信利に歯止めがさらに掛からなくなったら最悪ではないか。

 大祐は剣を以て父を守ろうと考えた。


 一心に修行したお陰で、人の心が多少読めるようになったと大祐は思った。父を守るために常に気を張っていたことは、天賦もあったのだろうが、大祐を一代の剣士にしたようだ。

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