第11話 子供にやってはいけないこと
覚醒した意識が捉えたのは、テンポの良い足音だ。近づいてきて、遠のいて行くその音に朝の走り込みかと、壁から背を離して立ち上がると、ソファに転がったジニーに一瞥を投げる。規則正しい寝息だが、意識が起きているのもわかっていて、無視した。
膝を片方だけ立てて、壁を背中にした状態でも睡眠は問題ない。かつては刀を抱えていたものだが、それがなくても同じことだ。
顔を洗って、歯を磨いてから外に出る。昨夜はだいぶ飲んだが、翌日に引きずるような下手は打たない――が、それにしても久しぶりの良い酒だったのは確かだ。
いや、いつだってそうか。
友人との酒ほど美味いものはない――過去を思い出せば、苦みもあるが、それすら楽しみにするものだ。
庭をぐるりと見れば、道路の脇に水のボトルが二本、タオルと一緒に置いてある。時計を見れば五時半、しばらくすると足音がまた聞こえてくる。
「――む、おはようアキラ」
「おはようさん」
立ち止まり、ふうと吐息を落として水のボトルを手に取った。アキラは知らないが、今の芽衣はキャップを自分で開けられる。
「朝は走り込みか。普段のスケジュールはどうなってる?」
「決まっているのは、朝の走り込みと昼食後のかくとう訓練だけだ。だいたい午前中は畑仕事、午後からはてきとうに遊びながら、夕方からは読書、そんな感じだ」
「格闘訓練はどのくらいやってるんだ?」
「まだ二ヶ月……くらいだろう。げんみつには、きそをやっていたので、あまり」
「――ああ、基礎って重心とかそういうの」
「うむ。ほかにあるのか?」
「ほかっつーか……実際にジニーとやり合うとか、そういうのはどうした」
「最近はやっているとも」
「へえ? ものは試しだ朝霧、ちょっと打ち込みを一発やってみろ」
「いいとも」
軽く掌を出せば、芽衣の右拳が放たれて吸い込まれ、やや乾いた音が一つ。速くはないにせよ、足腰がしっかりしており、踏み込みも充分。その上で体重が乗った一撃だ。
「なるほど、確かに基礎はできてるってところか」
「そうか?」
「できているが、攻撃にはなってない――それが現時点での、俺の判断だ」
「……しゃくだが、ししょうには一発も当ててない。いつもぼうせんばかりだ」
まずは防御から、というのは悪い教え方ではない。しかし、後手を踏んでからの切り替えをどうするか、更には防御することを攻撃の視点に移すタイミングが難しい。はっきり言ってしまえば、おそらくジニーも認めるだろうけれど、この点においては誰よりもアキラが得意とする領分だ。
体術、そう呼ばれるものにおいて、アキラはおそらく、世界中を見渡しても五本の指に入るほどの技術を有している――何故ならば彼は、生粋の武術家だからだ。
日本にある武術家の中において、あらゆる得物を扱いながらも、一つの得物だけを追い求めた武術家をはるかに凌駕する、
もっとも、妻を失ってからはしばらく、本気で武術家としての戦闘はしていないが。
「力が止まってる」
「――どういうことだ?」
「どうやらジニーは、こと重心移動に関しては、徹底して教えたらしい。お前は今の一発に関して、体重移動と共に存在する、力の移動まで感じられているだろう?」
「ああ、そもそも重さは力になると教わっているし、感覚でつかめとも言われた。今のだと、左足のふみこみから、こしのひねり、それらの力を肩、肘を伝わってこぶしへとつなげて、そちらへ届かせた。ちがうか?」
「合ってるよ、それは俺にも見えた」
「見えるのか……?」
「そりゃそうだ。だがな、お前の力はそこで終わってる。意識を向けてみろ朝霧、拳が当たった時点でその〝力〟はどうなる?」
「どう……伝わるんじゃないのか?」
「仮に、水の中で同じ動作をした時、お前の拳は水を押し出すだけで、その先に何も伝えちゃいない」
というか、こういうのを教えるためにジニーは呼んだんだなと、半ば確信を抱きつつ、まあ弟子ってわけでもなし、遊び程度に教えるのならいいかと、そんな軽い判断もあって。
「叩くんだよ朝霧。殴るとはまず、対象の表面に衝撃を与えることだ」
ゆっくりと、それこそ三秒かけて右足が軽く浮き、踏み込みまでに六秒をかけて、いざ作られた拳が正面に突き出されるまで、ゆうに十秒は要して、まるで見世物だなと芽衣は思っていたが――しかし。
拳の先で、ぱんっと空気が破裂したような音を立てた。
「――、なにをした⁉」
「言ったろ、叩いたんだよ。空気の表面に衝撃を与えたんだ。肩から肘、拳へと繋げた力を、その先にある〝対象〟の、空気へと伝えた。この場合、点ではなく面として意識すると、少しわかりやすくなる」
「面……」
「押すんじゃなく、叩く。これが攻撃――基本四種と呼ばれる中の、一番ありふれた〝
「……木の表面をけずるようなものか?」
「ああ、その通り」
「四つもあるのか」
「しょうがねえな……」
興味深げな視線を向けられれば、相手が子供ということもあって、どうしたって教えたくなる。ただ、できるかどうかは疑問であるし、あくまでも武術家としての基本だ――徹底して教えるわけにはいかない。
といってもこのくらい、ジニーは〝経験〟によって会得している。アキラのように、基礎として叩き込まれたものではない。いずれにせよ至るのならば、今教えても問題はないのだろう。
「肩から肘、そして拳に力が動くのなら、その先も行けるだろうって考えを持てば、障害物そのものを使って、その向こう側へと力を伝えることもできる。それが〝
「ん――」
掌を軽く、ぽんと芽衣の腹部に当てれば、先ほどと同じ空気が破裂する音が、芽衣の背中側で発生した。
「うしろ⁉」
「お前の躰を通り抜けて、反対側に徹した」
「つまり、これはあれか、わたし自身を〝肘〟にしたようなものか!」
「そうそう、そんな感じだ。まずはこの二つを覚えたら、今度は二つを一緒にやる。つまり、手前と奥、両方に力を与える。それが〝
「ガードごと体にも、両方に力が加わるのか……」
「まあな。で、力そのものを一点集中させ、対象を内側から破裂させるのが〝
「待て」
小さく手を上げてから、癖なのだろう、芽衣は腕を組み。
「それらが基本だったとして、きさまらは、せんとうの最中に、相手の
「どうしてそう思う」
「一発を食らえばそれで終わり、それがせんとうだと、言われている。しかし、かいひだけでなく、守りも必要だ。トオシというのは、あれだ、遠当てだろう? えんきょりになる。わからなければそこで終わりだ」
「まあ――そうだな。通じるかどうかはわからんが、俺なんかだと攻撃の意図を感じた時点で、種類に当てをつける。だが安心しろ、仮にお前が基本四種を使えるようになれば――それらを、どうやって防御するかもわかる。衝撃用法とは、放たれた衝撃そのものに、どう衝撃を与えれば相殺できるか、そこまで含めるからな」
「安心はできんが」
「あまり急がなくてもいいんだけどな……力の移動を理解したら、今度は制御、その先に把握だ」
「気に入らんが、そこを見越して、ししょうはわたしを育てていると?」
「ま、そういうことだな」
「あいつは一回なぐらないとだめだな!」
「お前は弟子としてよくやってるよ……まったく。走り込みはいいのか?」
「今日はこのくらいだ。追い込みは毎日やるなと言われている」
「……、軍人に興味があるって?」
「ん? まあ、親がそうだったからな、どんなもんかと思っているくらいなものだ」
「軍人として生きたいわけじゃないんだな?」
「それは先の話だ、わからん。まったく、年寄りはすぐに人生かんを持ち出すからな。付き合うわたしのことを少しは考えて、同情してくれ」
「いつになるかわからんが、俺に連絡を入れろ。手配してやるよ」
「ならばしゅうしょくの心配はいらんな! ところでししょうはどうした、朝めしをどうするか聞いていないぞ」
「もう起きてるから問題はない」
「――どうしてわかる?」
「不思議か?」
「ししょうもよく、似たようなことをする。何を感じ取っている?」
「まず第一に、人の気配ってのは消しようがない。隠し、誤魔化し、紛れても、存在自体が消えるわけではないからだ。だが、人によって気配は違う」
「それもよくわからん」
「そこから動くな朝霧、もうちょい距離を取る。ったく、こいつもジニーの仕事だろうが」
「ただめしを食えるなら、そのぶんははたらいて返せ!」
「偉そうに……ま、んじゃわかりやすくやるか。行くぞ朝霧、たとえば戦闘態勢になると、こういう気配を見せるやつが多い」
「――」
タオルに首をかけた芽衣は、その気配にすぐ腰を落とした。
空気が張り詰め、温度が下がったような気配がある。胸中に浮かんだのは恐怖の二文字、笑っているアキラから今すぐでも目を逸らして逃げたいくらいだ。
――だが。
逃げるだなんて、ありえない。しかも理由が怖いから、だなんて、許せるはずもなかった。
故に。
半歩、アキラが踏み出した瞬間に芽衣は前へと動いた。離れ過ぎている、芽衣の歩幅では踏み込みが遅くなるからと、一気に躰を瞬発させる。
「――と、まあ、瞬発力を使うだろうとわかってりゃ、対応できる」
「ぬう……」
瞬発を使った踏み込みは、甘さが一欠けらでもあれば、自身の移動速度を把握できない。しかも、ほぼ直線移動になるため、通り過ぎた芽衣の背後から襟首を掴み上げるくらい、簡単なものだ。
「だが、前を選んだのは良いことだ。気配の違いはわかったか?」
「おろしてくれ」
「ああ悪い」
襟首を離して下ろせば、すぐに芽衣は腕を組む。
「しかし、気配がちがったら合図にならないか? オールレンジアクティブもそうだ」
「じゃ、お前は五人が同じ気配を持っている中に、平然と当たり前のまま踏み入って、目立たないと思うか?」
「ぬ……」
「まあジニーや俺は、仕事なら何も変わらない状態で現場入りするんだけどな」
「きさまらはばかだからな!」
「それが効果的な状況もあるってことだ。話を戻すが――そういう気配を掴むんだよ。熟練者になればなるほど、その差異が小さい」
「だが、ちがいがある?」
「違いを作らないようにもできるし、それが馴染んでいても、ほどほどに変えないと生活にならないからな。ま、単純に寝てる時と動いてる時じゃ、空気の動きの量が違う。何をしているかまでは探りを入れないとわからないがな」
「探れるのか?」
「入れた瞬間にジニーが〝対応〟するだろ?」
「いたちごっこじゃないか……」
「戦闘の効率化や高速化に対応できるようになるまで、時間がかかりそうだな。残念ながら、そいつがわかった頃に俺とやることはない」
「きさまも老いているからな……安心しろ、わたしは年寄りにやさしいぞ」
「その割には、キリタニが妙に変な顔をしてたぞ?」
「それはあいつがまだ若いからだ」
「ふん。ほれ、まだ時間はある、かかってこい朝霧。遊んでやるよ。ジニーが相手じゃ防戦一方、回避に専念するくらいなもんだろ? 俺は手を出さない、存分に攻めろ」
「――いいだろう」
防御と攻撃では、どう考えても攻撃の方が困難だ。たとえば〝武道〟において、型と呼ばれるものがあり、それは攻防の両方が存在するものとして、比較的最初に覚えることもあるだろう。だが武術との違いは一点――それが現実に通用するかどうかだ。
通用は、あるいはするかもしれない。けれど生き残ることと直結するはずもない。何故? だって、武道は戦場での利用を前提としていないから。
一度でも命のやり取りを行った者に言わせれば、攻撃の難しさは筆舌に尽くしがたいだろう。まず一つ目、――攻撃を回避された時の疲労は大きい。
誰だとて攻撃など、最初から当てるつもりでいる。どれほど虚実を混ぜても、当てなければ攻撃ではない。フェイクを散らせて狙った本命を、ひらりと避けられた時の喪失感は心労も重なる。
ゆえにまず、アキラは徹底して回避した。ひらりひらりと、あえて芽衣の姿勢が崩れるように誘導しているのだが、もちろん本人は気付かない。
「どうした朝霧、もう重心がズレてきてるぞ?」
「くっ……!」
まずは接近するだけ、その選択は正しい。だが、当たると確信を得た場合にのみ攻撃をする方法だからこそ、それを避けられる。
ではどうすればいい?
方法はいくつかあるが、それを教えても今の芽衣に実践はできない。基礎を費やし、場数を踏まなくては。
――だが。
「根性があるな、お前」
「ひにくか⁉」
そうではない。これだけ当たらないのに攻撃を続けた結果、アキラの足元、地面が削れている。それだけの回数、攻撃を仕掛けてきているのだ。
まったく、本当に根性がある。
「――おい芽衣、朝飯だ。シャワー浴びてこい、終わりにしとけ」
「ししょう! なんだこいつ、なんで一発も当たらないんだ⁉」
「ダンスパーティに誘われたクソ間抜けが、相手の足を踏むことすらできてねえほど、お前はダンスってもんをわかってねえってことだ。いいから汗を流して着替えろ」
「くそう……!」
ジニーの脇をくぐるよう、玄関から入った芽衣に視線を投げてから、やはりジニーもまた、足元に視線を向けて確認した。
「二ヶ月だと?」
「ま、せいぜいそんくらいだ」
「重心を意識させたのはいいな」
「馬鹿言え、――それしかさせてねえよ、今までずっとそうだし、これからもそうだ」
「道理で、大した錬度だと思ったよ……」
「武術家の目から見てどうだ?」
「方向性を〝上〟へやったのは良い判断だ、どっちにも転がれる。ここからどうする?」
「そりゃ、しばらくはずっと基礎だ」
「そうじゃない。将来的な話だ。どう転がす? 拳銃とナイフか?」
その問いに、玄関に背を預けたジニーは、腕を組んで笑みを浮かべたまま、答えない。だが、その態度こそ答えそのもので。
「――冗談だろう」
「俺が生きている限り、俺の知る全てを、あいつに教えると、俺は芽衣に言った。知ってるか? 子供に対して一番やっちゃいけねえのは――嘘をつくことだ」
だから。
「どう転がす? 冗談を言ってるのは、そっちだアキラ」
ここから先など、決まっている。
「――全部だ。何もかも、俺が持っているものは、これから、あいつのものになる。だからせいぜい怖がってろ」
どうしたって、弟子なんてものは。
「師を越えてこそだ。そうだろう?」
「ったく……」
決して、ジニーは自分の痕跡を後に残したいわけではない、それが伝わるくらいの付き合いがある。
ただ、朝霧芽衣という少女に、望むものをすべて与えたいだけだ。
それでてめえがくたばった後は、任せたと言う――クソッタレだ、ああまったく。
「俺の友人は、我がままでいけねェよゥ」
「――はは、今更の話だぜ」
さて、朝食の時間だ。
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