起伏なき、今にある日常

雨天紅雨

朝霧芽衣

幼少期編

第1話 雪が落ちる空の隙間から

 2050年、二月――。

 空を見上げれば今にも雨が降り出しそうな曇天。木木きぎの隙間を吹き抜ける風の冷たさをひとたび感じれば、雨ではなく雪かとすぐに気付く。

 ――だから?

 だからどうした。

 ばくばくと跳ね上がった心臓が、とっとと酸素を送り込めと要求してくるのを構わず、意識だけでそれを抑え込んで口を開かず、鼻呼吸を繰り返す。だが勢いをつけてはいけない、ゆっくりと静かに、周囲の空気と同じ速度で。

 ――狩られる側の鹿のように。

 自然の隙間を縫うよう、不自然な吐息を一つ。周囲を照らさない雪明りを待つくらいならば、この暗闇の中を動いた方がよっぽどマシだ。

 朝霧あさぎり芽衣めいはこの状況の中、自分が狩られる側であることを自覚していた。

 不利か?

 ああ、不利だろう。追われる側はいつだって不利だ。気付かれないように隠れて、張り巡らされた罠へと誘導される。わかっていても回避する手段がなく、こうして背中に木を預けてとどまっていることさえ、罠の内だ。

 どうして?

 追われる側はいつだって警戒をしなくてはならない。三十二秒を過ぎた今、休んでいるように見えてしかし、芽衣の体力はじわりじわりと減っている。視線は足元に落ちていても、警戒は広範囲――だが、広範囲にしながらも、相手に気付かれては本末転倒、であるのならば可能な限り静かに、隠れるように、ああ――なんて矛盾。

 それを許容した時の疲労度は、体力だけでなく精神にも及ぼす。だがそんなもの、彼女にとってはここのところ日常になりつつある。

 日常でなくたって。

 こんな状況が十九時間を超えれば、否応なく順応せざるを得ない。


 ふらりと、芽衣が動いた。


 最初に見えたのは会釈のような動き、そのまま斜面を下るのかと思えば、くるりと反対側へ回り、背中を木から離さない。

 その直後だ、芽衣の頭があった位置に一センチほどの穴が三つ空いたのは。

 ――そこにいるのは、わかっている。

 相手の意図は伝わってくるが、芽衣は態度を一切変えない。位置が変わっただけ、山頂を臨むような位置になったが――ああ、そうだな、相手はそれをやりたかったんだろうな。

 寒さなど感じない、感じるわけもない。だってこれほどにも、躰は熱くなっている。

「――」

 さあ、始めよう。

 いや、続きをしよう。

 ぞくりと背筋を走った悪寒がうなじで消える。その〝意味〟に気付くよりも早く、両手を地面に当てて伏せた。

 〝切断スライス〟の術式が地面を這うように飛来する。しかも下から上へ、つまり背後から――ゆえに芽衣が伏せた判断は裏目、すぐ跳ね上がるようにして両足を、空へ。

 否だ、空ではない。倒れようとする木を一瞬だけ支えるような重心移動、そこからは山を駆け降りるよう大木を走り、右手にナイフを組み立てる。

 一本の木が倒された、これが影響するものは?

 まず第一に、視界が開けた――遠距離攻撃の成功率が上がる。

「――」

 先ほどまでは禁じていた鋭い呼吸を繰り返しながら、背中へとめがけて降り注ぐを避け続ける。右、左、一旦地面に降りてから再び木へ。

 正面、木が終わる場所に立ちふさがる女が一人、小難しい顔をしながら投擲専用スローイングとも思えるほど小さなナイフを持っている――ああ。

 詰みだ、そう朝霧芽衣は思う。将棋であるのならばここで、参りましたと頭を下げる場面だ――が、戦場にそんなものは通用しない。

 前進するために出した右足で思い切り木を叩けば、急制動と共に足元の木が爆ぜるようにして壊れ、まず芽衣がやったのは己の右側への発砲である。左手で狙いを定めて三発、そしてしゃがみ込み、赤色の大剣を避けると、敵の女を蹴り飛ばしつつ、その手首を切断する。

 だが、同じ女が上空から飛来、ぽんと背後に降り立った僅かな音だけが気配。その手法はで見ている。

 まったく――同じ女が三人だ。二人は〝残影シェイド〟で一人は〝影複具現トリニティマーブル〟ともなれば、もう高位魔術のオンパレード。ここはどこのデパートだと毒づきたくもなる。

 そんな暇も、ないか。

 本物はどこに? はは、ばかばかしい。


 ――全員殺れ。


 戦場に詰みがあったとすればそれは、死んだ時だけだ。右足が動くならば前へ、指が動くなら銃を、腕が動くならばナイフを。

 己の殺意と敵の殺意が入り交じり、呼吸すら困難なほどの瘴気しょうきの中、それを飲み込みながらの極限の戦闘において、芽衣の口元は笑みの形に変わっていた。

 二人目の額に二発の弾丸を撃ち込んだ瞬間、腕の隙間からすり抜けるようにしたナイフ、その気配には気付けなかった。ただ銀光が僅かに見えただけ――どこから? それはどうして光を見せた?

 わかっている、それが罠であり、詰みであることなどわかっていた。

 殺意の向き、銀光が消えた先の軌跡、そのどれもが頸動脈をさっくりと切断する動きであり、避けることが間に合わないことまで芽衣は既に現実として受け入れている。

 ――はは、なんの冗談だ?

 一瞬の硬直が自分にはあり、確実に間に合わないことに自覚的でありながらも、現実を受け入れる? 馬鹿な、くだらない。

 負傷など、とっくに覚悟していた。

 音はない。だが、皮膚に刃物が突き刺さるのは――知っているからこそ、反吐が出るような嫌悪感がある。

 芽衣は前進を選択した。右手に持っていたナイフが敵の首を跳ねるのと引き換えに、ナイフの切っ先は顎の下から頬にかけて深い裂傷を生んだ。

 笑みは消えない。

 このまま五分以上も戦闘を続ければ、間違いなく出血死するというのに、なんの躊躇もなく――ああ。


 ――故に、躊躇なく。


 一欠けらも笑いの気配すらなく、振り下ろそうとしたナイフはしかし、ぴたりとうなじに触れる前に止まった。


 ――故に、躊躇なく。


 笑いの気配を持ったまま、背後へと銃口を向けた朝霧芽衣は、ほぼ同時にトリガーにかけた指を、停止させた。


 闇夜の静寂を切り裂くよう、無粋なまでの電子音が芽衣の左腕から響く――時計の設定したアラーム。

「――、時間ね」

「そのようだ」

 殺意が霧散し、今までの殺し合いが何だったのかと思うほど、二人は装備をしまって汚れた服を手で払う。黒色の外套を羽織った少女、鷺城さぎしろ鷺花さぎかは一度空を見上げた。

「雪ね」

「うむ」

 お互いに九歳。恨みもなければ憤りもなく、ただ、殺し合いと呼ばれる正真正銘の命の取り合い、そう呼ばれる〝訓練〟を二十時間で終えた。

 これが初めてではない。

 最長では三十六時間、こうした訓練はたびたび行われている。つまり負傷も、今回に限った話ではないのだ。

「ああいかん、頸動脈を締めるわけにもいかないな……」

「はいはい」

 仕方がない、そんな様子で鷺花は襟首を掴み、一歩。それだけで空間転移ステップの術式が発動し、別荘の庭にまで移動は完了した。

えつ、起きてる? 急患。あと――どんくらい?」

「この出血量だとあと……ふむ、私の根性を試す気ならば、今から五分は待たないとな」

「馬鹿」

 呆れたように言った鷺花は、岩で作った椅子に腰を下ろして足を組む。傍にあるテントから、のそりと顔を見せたのはやはり少女であり、白衣を肩にかけて――。

「起きていたか悦、なんだ貴様、珍しくブス顔になっているな」

「珍しく?」

「そうでもな――いっ、耳を引っ張るな!」

「まず傷を見せなさい」

 耳を引っ張り、傷口を見た吹雪ふぶきえつは、そのまま指先を傷口に突っ込んだ。

「――っ⁉」

「ん、縫合するから寝てて」

「っ、――、……い、今の一工程、必要か……⁉」

「我慢しなさいよ朝霧、このサディストが間抜けな顔してるってことは、死なないってことだから」

「ああ、そういえば貴様が重体になった時も、このクソ女は嬉しそうに施術していたな……」

「あんたもね」

 まだ医師の証明書も持っていない、同じく九歳の少女は、テントの中から医療器具を引っ張り出し、コンマ001ミリの糸を取り出し、床に腰を下ろした芽衣の頬に手を乗せるようにして、素早い縫合を開始する。

 事実、指を突っ込んだのも痛みを与えるためではなく、内部の損傷具合を精査し、外部だけではなく切り裂かれた傷跡全てを、精密なまでに縫合するための作業だ。決して、サディストだからでは――いや、だけではない、と称するべきか。

 縫合作業はおおよそ三分。最後にガーゼのようなもので拭えば、頬からそれ以上の血は垂れない。ただし、顎から喉にかけてはまだ、血の跡がついたままだ。

「四時間でくっつくから、乱暴なことはしない。そして、今から寝る私を起こさない。いいね? ――わかったら返事!」

「うむ、ご苦労」

「はいはい」

「まったくもう、あんたたちが遊んでる最中、仮眠しか取れない私の気持ちを、もうちょっと汲み取って欲しいんだけど」

「だから胸が小さいままだと言われても返事に困る」

「そうよね、身長が伸びないって相談されても困るわ」

「……眠い」

 右から左へと聞き流し、のそのそとテントに戻ってしまう悦から視線を逸らした二人は、お互いに小さく肩を竦めた。

 先ほどまで、死を間近にしていて、そして芽衣に至っては治療があと五分以上遅ければ、致命傷になりうる可能性まで孕んでいたというのに、この雰囲気。酒でもあれば飲み始めるような気楽な状況を、たかが九歳の少女たちが作っているだなんて。


 ――どうか、してる。


 だってそうだろう? 彼女たちは軍人でもなければ、敵に包囲された戦場にいるわけではないのだ。あくまでも、訓練として殺し合いをしているだけの話で――ああ、その話がすでに、おかしいか。

 そして二人は、いつものように、話を始めた。着替えるのでも、躰を洗うのでもなく、先ほどまで殺し合っていた姿のまま、なんのわだかまりも持たずに。

 やるのはいつだって、反省会だ。

「〝残影シェイド〟の創造限界が二名ということもないだろうに」

「あんたも魔術知識がようやく追いついてきたわよね」

「それなりに貴様とは戦闘をしているからな。こう言っては何だが、同一存在を作ることの困難さはいまいち理解していないが――錬度が落ちていないか?」

「それ矛盾してるってわかって言ってる? そもそも同一存在である以上、その錬度は同一でなくてはならない。残影の術式は自己存在の複製を行うけれど、違いはたった一つ、安全装置の有無」

「ふむ」

 立ち上がった芽衣は、傍にある納屋に似た小屋の中から水のボトルを取り出し、そのうちの一本を鷺花へ向けて放り投げた。水が飲みたかったのと、思考時間を稼いだのだ。

世界の法則ルールオブワールドにおいて、同一存在は認められない。たとえ術式であっても、法則を書き換えることは不可能だ。何故? それは貴様が教えてくれた――技とは、法の内にある。故に、技術とは、法に至ることはないと。まあ自明の理だ、故に魔術でもある。この場合?」

「同一存在の危険性は?」

「それを問うたつもりだが、つまり複製した同一存在が〝本物〟であると?」

「法を変えることはできなくとも、誤魔化すことはできる。限定条件つき、簡単に言えば時間制限ね。一応、私は私だから。けどそこらの調整が相互干渉してね」

「ではあの〝影複具現シャドリニティ〟はどうだ。魂魄の複写であることは聞いていたが、あれはややぎこちない。武装そのものは脅威だったがな。なんだあの赤色の剣は、また貴様は山を消し飛ばすつもりか?」

「さすがに威力制限はしてたわよ。ただ影複具現の方も、本来は魂のカタチ、なんていうか西洋の甲冑騎士みたいなのが基本形なのね」

「どうしてそれが基本なんだ?」

「それはこの魔術を作ったおっさんに聞くべきね。そこに上手く私自身の姿を上乗せしてみたんだけど、さすがに一朝一夕で完成するものじゃないわね……」

「なるほどな、そこらの実験か」

「一撃貰った癖に偉そうなこと言うわねえ」

「ああこれか? ふむ、いささか三人も四人も、鷺城の相手をしていると、こうなんか妙に楽しくなってきてな! 詰みだとわかっている方向に足を動かしてしまった」

「知ってるわよ、ばーか」

「貴様ほどじゃない、そう褒めるな」

「本当に馬鹿ね。だいたい、あんた途中から術式使ってなかったでしょ」

「ふむ?」

「こっちの残影にせよ影複具現にせよ、朝霧の術式なら強制解除もできたでしょうに」

「それは何か? そこらの対処が無駄になった喪失感と、それを実際にやられていた際には上手く実験結果が取れなかったことへの忸怩じくじが含まれていて、つまり私が素晴らしいと、そういうことか?」

「あーはいはい」

「貴様も詰まらんな……」

「どう?」

「実際、できただろうな。だがまあ、私の想定では〝一撃〟で済むとは思っていなかったのでなあ?」

「へ、へえ? それはなに、つまり私の戦闘レベルが低かったって言いたいわけ?」

「ほう? 貴様は実験だとか言いながらも、今回のことは戦闘をしているつもりだったと、そういうことだな?」

「…………一撃食らって治療まで受けたクソ女がよく言うわね?」

「ん? 今、一撃しか食らわせられなかったクソ女がなにか言ったか?」

 じわりと、足元から殺意に似た黒色の気配が、夜の世界に侵食を始める。

「しかも術式を使わなかった私にだ。おっとこれは面白い話になりそうだが、そろそろ今夜の記録をつけて保存しておくべきか?」

 空気が張り詰め、周囲にあった僅かな虫の音どころか、風の動きすらその空間では停止する。

 鷺城鷺花は表情を作らず、朝霧芽衣は笑っていて――。

「――うるさい寝れないクソモルモット余所よそでやれ!」

 吹雪快がものすごく怒っていた。勢いよく閉じられるテントの出入り口が、ぱたんと音を立てる。

「おい鷺城」

「ええ、ついに本音が出たわね……モルモットって。どうなの」

 空気が霧散したのはいいが、まあこんな日日がだいぶ続いている。毎度のことだ。

 ――いつから、それが毎度になったのか。

 しばらく、時間を巻き戻そう。それは朝霧芽衣が、一人の男に拾われた時から始まった物語なのだから。



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