宵街に浮かび上がるましろの景色

 那須塩原駅のホームに舞い落ちる白い綿毛のような何か。よく見るとそれは雪だった。郡山を抜け、福島を過ぎたあたりから、それははっきりとした輪郭を伴ってくる。車窓は夜なのに、光を反射する雪のアスファルトは少し明るい。外の空気は冷たいのだろうけど、白い雪の地面が街灯をぼうっと反射する宵街の景色は、少しだけ暖かく映る。それはたぶん錯覚なのだろうけど……。


 盛岡を過ぎると秋田新幹線こまちは田沢湖線、奥羽本線を走る。だから厳密にはこの区間は新幹線ではない。在来線を走る"こまち"の車窓からは踏切が見えたりするんだ。雪は横殴り。強風にあおられ、僕が搭乗した"こまち"は40分ほど遅れて秋田駅に到着した。もう日付も変わろうとしていたころだ。


 秋田には薬についての講演会でお話をするために訪れた。僕が話すテーマはおおよそ決まっている。「薬は死ぬまで飲むのか?」という問いに対する向き合い方について。高血圧や糖尿病など、長期にわたり薬を服用し続ける人は多い。そして残念ながら多くの方が死ぬ間際まで薬を飲んでいる。(もしくは処方されている)


 かといって、「もう薬を飲まなくてもよいでしょう」という言葉には、なんとなく患者を見放すような価値を含んでいたりするから難しい。治療に対する期待と過剰治療。しかし、無駄で過剰な治療とは、一体だれにとって無駄なのか。このテーマは僕がここ数年追い続けているテーマであるけど、いまだ答えなんて掴めやしない。


 健康サポート、認知症予防の取り組み、なんていうと聞こえが良い。医療者としてまさに積極的に取り組むべきテーマであるような気もする。でもなんだろう。そもそも健康って。認知症の予防って……。


 健康ってたぶん誰も見たことがない。それに健康ってそれ自体が絶対的なものではないでしょ? 僕が尊敬している医師は、薬の効果について、こんなふうに問いかけるんだ。


『ここに90%の確率で確実に病気が治る薬があります。でも10%の確率で死んでしまいます。あなたはこの薬を飲むかどうか、少し考えてください。 風邪をひいたら飲みますか? 糖尿病なら飲みますか? 脳卒中で寝たきりになってしまったら飲みますか? 末期がんで余命1ヶ月だったら飲みますか?』


 90%確実に治るけど10%は死んでしまうという薬。風邪やインフルエンザくらいで飲もうとは思わないだろう。糖尿病だとどうだろう。でも10%の確率で死んでしまうならやはり飲まないかな。寝たきりが治るのなら90%にかけてみたい気もする。余命1ヶ月なら飲んでみてもいい。


 どうだろう。おんなじ薬剤効果なのに、薬の効果に対して抱く価値がこんなにも違う。


 「薬の効果は残念ながら絶対的なものじゃありません。それは文脈依存的なんです」


 檀上に立って講義をしていると、どうしても尊敬する先生と同じような口調になっている自分がいたりする。何かあこがれのようなものがあるんだ。


 健康って何だろう、という問いについて、同じように考えてみたらいい。例えば、手足がなんだか少しびれるけど、日常生活には全く問題なく、そして他に気になる健康問題もない。そんな状態を考えてみる。この状態はオリンピック選手のようなトップアスリートにとって健康といえるだろうか。あるいは80代の高齢者にとって健康といえるだろうか。


 "こまち"は大曲駅でスイッチバックする。進行方向が変わるんだ。突然後ろ向きに進みだす新幹線なんてびっくりなんだけど、それも情緒。


 世の中には当たり前のように使われている概念があるけど、それって本当に絶対的に実在するようなものなのだろうか。進行方向をちょっと逆向きにすると、もしかしたら、いろんな文脈が見えてくるかもしれない。

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