(3)噂の種
「戻りました」
その日、ラーディスの帰宅は予定より遅く、家にいた者達は彼の帰りを待たずに夕食を食べ始めていた。それで食堂に顔を出した彼に、フィーネがすまなそうに声をかける。
「お帰りなさい、ラーディス。先に食べていたわ」
「ああ、それは構わない。ちょっと寄り道をしていたから、帰るのが遅くなった」
「どこに寄っていたんですか?」
「……ちょっとな」
エリオットが不思議そうに問いかけたがラーディスは言葉を濁し、他の者は多少不審に思ったものの、問い詰めるまでも無いと判断してそれまで通り食べ進めた。
(義兄様ったら、本当にどうしたのかしら? この前のクレアさんへの態度といい、機嫌が悪いと言うわけでも無さそうだけど……)
セレナはどうにもすっきりしない思いを抱えながら注意深く彼を観察してみたが、特に異常は感じられず、気を取り直して世間話に花を咲かせた。
その後無事に夕食も終わり、後は寝るだけという時間帯になったところで、クレアの私室のドアが叩かれた。それにクレアがすかさず椅子から立ち上がり、ドアに歩み寄って全く警戒せずにそれを開ける。
「はい。どなたですか?」
「遅い時間に悪いな」
「いえ、構いません。どうかしましたか? それにその荷物は……」
ラーディスが私室を訪れた事は初めてで、それに関して意外に思いながらも、彼女の関心は彼が左腕で抱えている荷物に向けられた。その戸惑いはラーディスも理解しており、余計な話は抜きで、かなりの量の布の塊の間から取り出した布袋を彼女に差し出す。
「まずはこれだ」
「……何でしょう?」
反射的に受け取りながらも怪訝な視線を向けてきたクレアに、ラーディスが淡々と説明を加える。
「中に傷薬と保湿剤を入れた容器が入っている。用途は蓋に書いてあるから。手が荒れているみたいだから、既に何か付けているかもしれないが、ちょっとこれを試してみてくれ。良く効くと巷で評判の物らしい」
「ありがとうございます。早速、試してみます」
笑顔で礼を述べたクレアから、ラーディスは一瞬視線を逸らしてから、続けて大量の布地を彼女に押し付けた。
「それからこれもだ」
「あの、この布は……」
「これで普段着用の服、と言うか、作業用の服を作れば良い」
「え?」
クレアの顔は(服なら充分あるのに何故?)と困惑も露になったが、対するラーディスは(やはり分かっていなかったか)と溜め息を吐いてから説明を続けた。
「今、屋敷内で着ている服。確かに地味な色の無地で簡素なデザインの服を縫っているが、庶民から見れば間違っても手が出ない、高級品の生地ばかり使っているぞ? とは言っても後宮で手配するとなったら、そのレベルが当然だったのは理解できるが」
その説明を聞いたクレアは、すぐに彼の言わんとしている事を悟った。
「あの……、それは要するに、地味ではあるけれど、見る人が見れば庶民が普段着にする筈のない生地であるのが容易に分かって、不自然極まりないと?」
「そういう事だ。この屋敷内で生活するならともかく、今手元にある服を着て街を歩いたら、違和感を感じる人間は少なからず存在するだろう」
「そうでしたか……。正直、そこまでは考えていませんでした。ご指摘、ありがとうございます」
確かに迂闊だったかもしれないとクレアは素直に頭を下げ、ラーディスは困惑しながら言葉を継いだ。
「屋敷の皆は、あんたの元々の素性を知っているから違和感も無かったし、特に指摘する必要性を感じなかったと思うが……。そんな上質の生地で作った服を着て炊事や洗濯とか、はっきり言って常識的に有り得ない」
「なるほど。良く分かりました」
「そういうわけだから、取り敢えず縫い上がるまでは今手元にある服を着る事にして、良ければそれを仕立てて着てくれ。話はそれだけだ」
そう言ってあっさり踵を返して自分の部屋へ引き上げようとしたラーディスだったが、今まで誰からも指摘されなかった事実を思い返したクレアが、慌てて確認を入れてきた。
「ちょっと待ってください! まさかこれは伯爵家で購入したのでは無くて、ラーディスが個人的に用立ててくれたのですか!?」
その声にラーディスは足を止めて振り返り、一瞬困った顔になりながらも、淡々と用意しておいた台詞を口にする。
「お世話になっているのだからと、これまで家に騎士団の俸給を入れようとしても、亡くなった義父上が頑として受け取ってくれなくて、これまでの物が殆ど手付かずだからな。気にしなくて良い」
「いえ、そういう問題では無いのですが!」
尚も言い募ろうとしたクレアだったが、隣の部屋のドアから話し声を耳にしたゼナが出てきて不思議そうに声をかけてくる。
「クレア様、どうかなさいましたか?」
「あ、ゼナ。それが……」
「じゃあ、失礼する」
「あの……」
クレアがゼナに気を取られた瞬間、ラーディスはすかさずその場を立ち去り、その場には大量の布地や糸や小物を纏めた袋を抱えたクレアが取り残された。
「……良いのかしら?」
「クレア様?」
戸惑っている自分を見て、ゼナが心配そうに問いかけてきた為、クレアは先程のラーディスとのやり取りを離して聞かせた。するとゼナが納得した顔つきで、深く頷く。
「クレア様のお召し物の生地が、上質な事は確かですね。私もうっかりしておりました。ラーディス殿が気を利かせてわざわざご用意して下さったのですから、ご好意を無にするのは失礼でしょう。この際、ありがたく頂く事にしてはどうですか?」
「そうね。明日の朝、改めてきちんとお礼を言う事にするわ」
「それが宜しいでしょうね」
ゼナの勧めにクレアは頷き、二人は微笑み合ってから自らの部屋に戻って行った。先程からの一部始終を密かに目撃していたティナは、そこまで見届けてから足音を立てないように注意深く移動し、セレナの部屋に駆け込んだ。
「セレナ様! 私、さっき廊下で、見ちゃったんですけど! ええ、偶然ですとも! 誓って大きな荷物を抱えて、廊下をうろうろしている挙動不審なラーディス様を、監視したりしておりませんわ!」
「ティナ……。何があったの? 随分、面白い顔になっているけど」
「それがですね!」
ニヤニヤと笑いながら注進にやって来たティナを、セレナは何事かと目を丸くして出迎えたが、彼女の話を聞き終わると同時に、同様の表情になった。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはよう、ラーディス、クレアさん」
翌朝、偶々出入り口でかち合ったラーディスとクレアが一緒に食堂に入ると、何故か家族全員が微妙に違和感を感じる笑みを浮かべていた。
「……どうしたんだ? 皆、朝から機嫌が良いな」
着席しながらラーディスが怪訝な顔で尋ねると、弟妹達が笑みを深めながら言葉を返してくる。
「いえ、機嫌が良いと言うより、楽しみなんです」
「というか、これから面白くなりそうだというか」
「何がだ?」
「大した事では無いから、気にしないで?」
「ええ、本当に何でもありませんから」
「そうか?」
詳しい事は語らないまま笑顔で食べ始めたセレナとエリオットを見て、ラーディスは不思議に思ったものの、自身の出勤時間が迫っており食事を始めた。
(なんなんだ? ちょっと気味が悪いが)
同様にクレアも疑問を感じていたものの、特に追及する事はせず、いつも通りの一日の始まりとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます