2026年 春 六花 1

春には、ほころぶ。


固く閉じていた蕾も木の芽も、日陰で氷のように融け残った雪も、春が来たというそれだけで何やら呆気ないほどにくずくずとほぐれる。図書館の庭の金魚さえ春の気配をちゃんと感じ取って泳ぎが俊敏になるのだ。




桜はそろそろ散りかけて、開け放たれた館内の窓から風に乗って時折花弁が舞い込んでくる。

その日、六花は月一の館内整理日で出勤していた。貸し出し状況と在架を照らし合わせてチェックする。白川町記念図書館のいつもと変わらぬ業務である。観光課の予定通りに事が進んでいたら、今頃は図書館の改変がすっかり終わり、色々と変わっていた頃なのかも知れない。

図書館の方針変更の計画は全て中止される事になったと、朝のミーティングで正式に館長から知らされたのは二日前のことだった。

二重チェックを頼まれたデータの確認が終わった旨を金木さんに伝えるとき、六花は彼女に切り出した。

「あのとき、図書館ここを守ってくださって、ありがとうございました」

いっときは図書館も果穂子の守っていたものも死に絶えてしまうと思っていた。でも、実際は声を上げた彼女のお陰でこうして守るべきものは無事守られて、変わらず古き良き図書館のままでいる。必要事項以外の話題を自分から振ったことのない六花が話し掛けたので、金木さんは何事かと物珍しそうな顔でこちらを見る。

「あの──格好良いなと思ったんです。館長がここを変えるって言い出したとき、あんな風にきっぱりと発言されて。大事なものを守れるって格好良いなって」

「やだ」

そわそわしながら六花が付け足した言葉に、金木さんは顔をくしゃりと崩した幼い笑い顔になった。

「私だけじゃないよ。皆ちゃんとフォローしてくれたでしょ。私、実はあの後言い過ぎたなって反省して、館長に謝ったの」

「そうなんですか」

思いがけない返答に驚く。

「守りたい本があるんだ、どうしても」

「守りたい本? 」

「うん。相当古い本で、真っ先に処分されると思ったら止まらなくて。きっと他の人にとっても同じような思い入れのある古い本ってあるよなあって。だから、守れて良かった」

図書館は森。司書はその番人で管理人。穏やかに「守れて良かった」と言う金木さんの、けれど“守りたい本”がなんなのか、結局聞けず仕舞いだった。


在架チェックに続いて、傷んだ本の修繕作業を行った。特に破損しやすいあたま側の背表紙を透明接着フィルムでくるんだり、外れた頁を接着剤で簡易補修したりする。

──守りたいもの。

作業をしながら果穂子の生涯について考えていた。

あれからずっと留根千代のことも、金魚邸で見た赤い記憶のことも分からない。気に掛かってはいるものの手掛かりが掴めず、少し焦りも混じり始めていた。果穂子のことを曖昧で分からないままに終わらせたくはなかった。果穂子にとってはきっと留根千代こそが “守りたいもの”だから。

どうして留根千代なのだろう。

時折そんな疑問が浮かぶ。実際果穂子のことを想ってくれている人物は他にもいた。けれど、結局果穂子が最後の最後に頼ったのは留根千代だった。家族でも親友でもなく、得体の知れない留根千代に。

果穂子の仕掛けは、留根千代と深く繋がっているのかも知れない。


──どうしてこの図書館がいつまでも美しいままなのか教えて差し上げるわね。

──このお邸の住んでいた美しい娘さんが、美しい仕掛けを拵えたからなのよ。


仕掛けは今でも、待っているのだろうか。この建物のどこかでひっそりと、誰かに見つけてもらうのを。

遠目に見える、天板に日光を受けて柔らかく反射するあの大机の裏に、果穂子の想いを託した日記が一面に記されていることを、六花以外の職員の誰も知らない。誰も知らないまま様々な人がそこで読書をしたり調べ物や書き物をしたりしているのを見ると少し不思議な心持ちになる。

あの机自体──裏に何も書かれていないとしても──なんとも言えない雰囲気がある。美しい飴色の照りに、縁にまで意匠が凝らされた特別感。きっと高級品なのだろう。金魚邸の蔵で見たときはもっとずっと広く大きなイメージだったのは、それを見たのが体の小さい幼年期であったせいか。

──赤い、何か。

なぜかあの大机を見ると、正体の知れない赤い記憶のことを思い出す。そう、六花はあのとき見上げて。そうして赤い何かを見た。出来る限りあの頃見た記憶を手繰り寄せようとする。机と共に蔵内で見た、目に刺さるような印象の強い赤。色だけはあんなに強烈に思い出すのに、どうしてそこから先を忘れてしまっているのだろうか。あの記憶はもしかすると留根千代と密接に関係しているのかも知れないのに。


補修作業が大方終わりに近づいて来た頃、隣で作業していた金木さんが話しかけて来た。

「柳さん、それ終わったらでいいんだけど」

言いながらやたら年季の入った古めかしいデザインの本を数冊積み上げる。

「これ、保管室まで持って行ってくれないかな」

私の作業はもう少しかかりそうだから──そういう金木さんの傍には、なるほどまだ随分と本が積んである。けれど、それよりも“保管室”という言葉が六花の興味を引いた。

「保管室、なんてあるんですか」

この四年間勤めてきて、初めて聞いた。金木さんは察したらしく軽く頷いて説明してくれた。

「私も二、三回しか行った事ないんだけどね。廊下の途中をパーテーションで仕切られてるから目に付かないし。東の階段の三階の、ちょうど会議室の反対方向にあるから。確かあの辺りはリノベーションされていなくて、当時のままなんだよね。ちょっと面白いところだから、一回行ってみるといいよ」

そう言ってエプロンのポケットを探り、随分古そうなデザインの鍵を渡してきた。

保管室に行けばもしかすると留根千代に関わる何かが分かるかも知れない。取り敢えず今している作業を片付けようと、六花はいた。


そこかしこの窓が開け放たれて、吹き込んでくる春風が心地良い。そのうち風に混じって小学生の澄んだコーラスが聞こえてきた。

はじめは何気なく聴きながら作業していたけれど、六花はふと気がつきはたと手を止めた。

──この歌。

何だろう。なぜか懐かしい。旋律を聴く限り、六花自身は学生時代歌ったことはないと思う。どこかで聴いたのだろうか、思い出せない。

「ああ、この歌。懐かしいなあ」

隣で作業していた金木さんが独り言のように呟いた。

「え? 」

「小学生の頃毎年歌ってた歌だったから。春になるとこの曲歌うの、南小学校の伝統だったんだよね。統合されても残ってるんだ」

──南小学校。

聞き覚えのある名称だった。次の瞬間思い当たり、思わず声が大きくなる。

「南小学校って、中ノ原駅の近くの、今は食品工場になってる場所にあった、あの南小学校のことですか」

金魚邸の向かいにあったあの小学校跡。あそこは確か南小学校という名称だった。六花の勢いに気圧されて、金木さんはそうだけど、と戸惑うように頷いた。

「私の母校。ここの小学校と統合されたの、知らなかった? 」


金木さんによると、子供たちが歌っているのは「雨」という曲だった。



雨の音が聞こえる

雨が降っていたのだ


雨の音が聞こえる

雨が降っていたのだ


あの音のように そっと世のために働いていよう


雨があがるように 静かに死んでいこう



詞には覚えがある。八木重吉の作だった。





胸が高鳴る。六花は本を両手で抱えてゆっくりと絨毯の敷き詰められた階段を上る。はっきりと思い出していた。六花が金魚邸跡で聞いたピアノの旋律と歌声は、間違いなくこの曲であった。あのとき、幼い六花はこの曲に導かれるようにして蔵に入り込んだのだ。

階段を上りながらも唱歌は繰り返し歌われ、まだ続いて辺りに響いている。印象的な歌詞と相まって、六花はなにやら不思議な感覚に陥る。

春には、綻ぶ。

頑なに正体を隠した、自分ではどうにも辿り着けなかった留根千代が、今になってあちらからひとりでにふらりと現われる予感がする。

子どもの頃と同じ、響く歌声に導かれるような奇妙な心地に陥りながら、六花は更に階段を一段一段踏みしめる。

六花を導いているのは果穂子か留根千代か、はたまた八木重吉か。


パーテーションを退けると、金木さんの言っていたように突き当たりに古く重々しいドアがあった。普段は閉じられているそこに辿り着き、ポケットから鍵を取り出す。

躊躇うことなく真っ直ぐ鍵を差し入れくるりと回し、触れたことのない取手を回す。錆びかけた金属の丸みが、何故か掌にしっくりと落ち着く。




娘よ、覚めよ、覚めよ、



光を放て



錠を解け



歌うたいの子らは洋琴に合わせ口ずさぶ



ご覧、おまえは美しい





ご覧、おまえは美しい






──軋んだ音を立てながら、扉はゆっくりと開いた。















春のあかるい陽気が、閉め切ったままのカーテンの隙間から射し込んでいた。


長いこと誰の出入りもなかったその部屋は、六花が扉を開けて風を入れた瞬間、封印を解かれでもしたようにわっと生気めいたように感じた。



ひんやりと薄暗い部屋の床板にそっと一歩を踏み入れる。一面に薄く積もった埃が途端にくるくる舞い上がる。細かな埃が細く射し込む陽光に当たって、まるで貴いもののように煌めくのを、多分六花はずっと前から予感していた。

どこか古ぼけた印象のその部屋は、いつも勤めている図書館の同じ建物内にある世界とはまるで断絶されている。いつまでも続く唱歌や見慣れない部屋の風景のせいか、なんだか現実感がない。

本を抱えたまま薄暗い室内を窓に向かって進む。六花は自分が何をすべきか、不思議と分かっていた。

厚い織地のカーテンを開けると、光が一気に部屋全体へと行き渡った。それだけの動作でも埃はわらわらと舞い、むせ返るようなスノードームの世界となる。続けてネジ鍵式の木枠の窓を盛大に軋ませながら開けると、微かに洩れ聴こえていた子どもたちの歌声はクリアにこちらに届いた。

ここに至って六花は改めて明るくなった室内を顧みた。

六花のいる窓に近い側の壁一面は備え付けの本棚になっており、収納にはまだ幾分余裕がある。持たされた本はここに置けということなのだろう。本棚まわりは何に使うのやら大きなクロスや幾つかの段ボール箱が重ね置きされている。それから、昔風の背の低い箪笥やら長持やら、用途の分からぬ不思議な道具がちらほら。

──あの大机と、他に二、三の調度品は別荘から持ってきたんだと。

昨夏、館長がそう言っていたのを不意に思い出す。あれは、ここにしまい込まれていたのだったか。だったらこの部屋は半ば、取り壊された金魚邸の蔵の再現だ。道理で妙な既視感があるはずだ。

部屋で一番面積を取って中央に陣取っている大机に目を遣ったとき、六花は目を疑った。

その机は、色味やサイズ、側面に施された彫り飾りに至るまで、大閲覧室の大机と全く同じデザインのものだったのだ。

──同じものが、ふたつ。

そうか、と心に落ちる。机があんなに大きく見えたのは、単に幼かったからだけではなかったのだ。二台あったこの大机は、元々はあの蔵で横並びに繋げて置かれていたのではなかったか。

そう気づいた途端はっとする。六花はつかつかと歩み寄り、司書らしからぬ乱暴さで抱えていた本を机上に投げ出す。

あのとき。

あのとき見たものが、ここにある。

心臓がぞくぞくと騒いだ。懐かしい旋律のピアノと歌声が更にそれを助長する。そうして怖いほど鮮明に思い出す。

六花は、知っている。机の裏に何があるのか。

屈み込んで潜った記憶がないのは、単にそうする必要がなかったから。四つだった六花は、ちょっと首を傾げるだけで難なく机の下に入り込めるほど低身長だったのだ。あのとき六花はほとんど立ったまま歩いてそこに入り、そして見上げた。あの赤を。

六花ははやる胸を押さえて大机の下に潜り込み、躊躇無く埃の積もる床板に仰向けに寝転んだ。

果たして、それはあった。

天板の裏一面に大きく大きく。



──金魚。



目に焼きつくほど赤く鮮やかな素赤の細長い和金が、絵とは思えぬ説得力を伴って緻密に美しく描かれているのだった。









子どもたちの歌声を聴きながら、六花はその場で寝転んだまましばらく惚けていた。絵の中の金魚をしばし下から見下ろす。照り輝く鱗、見えるか見えないかの黒い目、うねった背に沿ってひらめく極薄の背鰭。溶けて消えてしまいそうなふうわりとした胸鰭や腹鰭、それに優雅に長い尾鰭。たった一匹、油絵の具で丹念に丹念に描かれたそれは淡く濁ったような色彩の水の中、上見姿で机の天板という池を赤い色を見せびらかしながら悠々と泳いでいた。

子どもの頃を思い出していた。あの時の六花もこの絵に強烈に魅せられたのだった。そして埃まみれになるのも構わず、今しているように仰向けでうっとりと眺めた。作者は十中八九果穂子だろう。果穂子は大机の一方に日記を、もう一方に絵を描いていたのだ。当時ろくに字も読めなかった六花は、目立たぬ毛筆書きの日記の文字列より、ぱっと見て印象に残る絵の方だけが記憶に残ったのだろう。その後金魚邸から二台の大机が運び込まれて、どういう訳か日記の書かれた方の一台だけが閲覧室で使われた。絵の描かれたもう一方はここに置き去りになっていたのか。

何の変哲もない素赤の和金を、ここまで美しいと思ったのは初めてだった。

──果穂子姉様が特に目を掛けていたお気に入りの金魚というのが、あまり見栄えのしない、小さな素赤の細長い和金だったそうでね。

ここに描かれているこれが、果穂子のお気に入りの金魚なのだろうか。

六花は訝る。これを描くのにはかなりの体力を要したのではないだろうか。しかも独特のにおいが付き物の油絵だ。果穂子はこの絵のおかげで幾分か命を縮めはしなかったろうか。そこまでしてどうしても描きたいほど、この金魚の絵──この金魚は果穂子にとって重要だったのか。しかも日記と対になるように、大机の天板の裏に描いて誰にも見つからないように。

──果穂子が異常なほどに縋ったもの。

思い至ったちょうどその時、絵の端にサインのようなものが書いてあるのが目に入った。近寄って見るとやはりそうで、見慣れた果穂子の筆跡で黒い色を使って記してあった。


その内容に、茫然自失となる。






『一九二六年 留根千代 佐伯果穂子 画』






──留根千代。


これが。


留根千代。


──あなたが残るなら、果穂子は百年も千年も、永遠にまでいきませう。


果穂子が晩年あんなに縋った留根千代は、ただの一匹の金魚に過ぎなかった。




不思議と六花の頭の中でするすると以前に読んだ日記の内容の不可解さが解れて繋がり、ひとつになっていった。まるで果穂子と長い間共に濃密な時を過ごした錯覚に陥る。


──絵はひとより永くのこるだらう カンヴァスが朽ちても詩はのこるだらう


──のこすことはとこしなへのみちではないとしりつつも できるかぎりうつくしくけふをうたわせたまへ


ああと腑に落ちる。


──美しい仕掛け。


これは、仕掛けだ。

果穂子はずっとここに居た。二台の大机の裏の『果穂子』が佐伯家の人々の目を免れて、自分の痕跡に気づいて探し、心を通わすことのできる人物が現れるまで。留根千代に全てを託して。


それまで果穂子は百年も、千年も、永遠にまで生き続ける。


決して卓越している訳でも模範的な訳でもなかった臆病な生身の女の子の、精一杯の生きた証。そしてなんと不器用で美しい仕掛けだろう。

いつの間に、六花は泣いていた。意味も分からぬ涙が止まらず、只管悠々と泳ぐ艶やかな鱗の留根千代から目が離せなかった。






折しもそれは、果穂子が亡くなってからちょうど百年後の春のことだった。


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