2025年 晩秋 六花 4

母の夢を見た。

三十代くらいに若返った母がいる。何をしているのか、他愛もない日常風景でよく覚えていない。夢の中の六花はいつも思い通りに動けない。もどかしくて、それでいてなぜか酷く傷ついていて、どういう経緯でそうなったのか、最後は錯乱しながら母に暴力を振るっている。叩いても叩いても、その手は空を打つようで少しも相手にダメージを与えない。母は何が何だかわからない様子でただおろおろするばかりだ。


寝覚めは最悪だった。快復のために眠ったのに、そのせいで却って疲れが酷くなったように思う。目を開けようとすると瞼が大量の目やにでしっかり糊付けされていて開かない。いつの間に泣いたのか、頰には乾いた涙の跡があった。人はときにこういう形で無意識に泣いてしまうこともあるらしい。

鏡を見ると、いつもより目の影が深いような気がした。のろのろと、六花は出勤の支度を始めた。


「ちょっと、柳さん疲れてるんじゃない? 」

案の定顔の不調は周囲にうまく誤魔化せなかったらしく、朝のミーティングの後瀬川さんが肘をつついてきた。

「すみません。多分、寝不足です」

こんな事なら伊達眼鏡でもかけてきた方が幾分ましだったかと後悔する。

「駄目だよー。若いからって無理したら」

気を付けます、と笑って応じるが、同僚に見抜かれてしまうと何となく居心地悪く恥ずかしい。瀬川さんは六花の背中を軽く叩いてカウンターの方へ歩いて行ってしまった。

──亜莉亜があんな事を言うからだ。

前日分の新聞をファイリングしながら溜め息をつく。いつも以上に仕事に身が入らないのは切実に困る。せっかく穏やかに整えてきた日常を、亜莉亜はどうしてこうも滅茶苦茶に引っ掻き回すのだろう。掻き回すだけしておいて、自分は早々に帰ってしまうのも勝手だと思う。一旦呼び覚まされた苦しい記憶は誘い水になって連鎖し、強力な牽引力で六花を引きずって離さない。これを恐れていたからこそ、記憶を奥深くにしまい込んでいたことを亜莉亜は知っていただろうか。

──六花は同じじゃん。

──果穂子と、同じじゃん。

包み隠しのない亜莉亜の発言。彼女はおそらく怒っているのだ。本当は傷を抱えていながら、誤魔化し誤魔化し逃げている六花に。

確かにそうなのかも知れない。亜莉亜が六花に踏み込んだのは確実に善意なのだろう。

でも、だったら、じゃあ。

あの頃、六花が全力で寄りかかることの出来る相手はいただろうか。いない。世界中どこを探したって、一人もいない。だとしたら、自分独りでどうにか対処する他なかったのではないだろうか。

子ども時代、自分が何に傷付いていたのか正確には言い表せない。家族を疎む理由が、虐待だとか育児放棄だとかはっきりとした理由があるのなら却って他人に説明しやすくすっきりするのだろう。けれども六花には明確な言い訳はないのだ。全ては六花の我儘で、六花の感じ方の問題だ。実際家族側は娘は我儘で帰って来ないと思っている。

亜莉亜はなぜだか幼い時からそういう所に目敏くて、なんとも説明し難い六花の傷心と居心地悪さに気付いていた。昨日彼女が言っていた目つきや親への態度も含め恐らく浮いていたのだろう。だからこそ亜莉亜はよく六花を遊びに誘ってくれた。当の六花は癒される余裕さえなかったけれど、確かに亜莉亜といる時間は本の世界に没頭するのと同様に、一息つくことが出来る数少ない憩いだったように思う。


癒せる、と亜莉亜は言った。そして、六花自身で癒そうとしているとも。




果音は連休中の小旅行以来、亜莉亜にすっかり懐いたようだった。今度会えるのはいつ、としきりにせっついてくる。あれから一週間ほど経ったので、六花の方も受けたダメージから大方立ち直りつつあった。留根千代の謎に関しては全く手付かずだったので、今週から少しずつ絞り込みを進めはている。またいつもの日常が戻ってきた。


亜莉亜が言っていたように、留根千代が架空の人物である可能性は決して低くはない。けれどそれを言ってしまえば元も子もない。取り敢えず可能性の一つとして留めて、他の方向でも探ってみることにした。まずは“留根千代”という名は二人の間だけで通ずる渾名であったと仮定して、再三日記を読み直し果穂子と関わりのある人物を洗い出す。

前提として昱子とテイ、父善彦と義母環の四人は留根千代候補から除外。根拠は、『テイさんにも、昱子姉様にさへわたくしと留根千代の関係は打ち明けはしなかつた』という果穂子の日記の一文だ。昱子とテイは明確に留根千代とは別人物として書かれている。父と義母については『昱子もテイも知らなかった関係』という点で外れる。

義弟の秋彦については微妙なところだ。環は果穂子と秋彦を姉弟として認めていなかったようなので『知らない関係』と表現しても差し支えないかも知れない。ただ、当時秋彦が四歳か五歳、果穂子も肺病持ちだった事からすると、接触するチャンスは極めて低かっただろう。もしかすると果穂子が日記の中だけで一方的な想いを綴っただけなのかも知れない。

比較的可能性が高いのは本邸の女中や書生、金魚邸の庭で登校時挨拶を交わしていたという中学生辺りだろうか。

女中や書生は本邸に住み込みだったのだろうし、果穂子が金魚邸に移る前に親しくなる時間は充分にあっただろう。中学生とは挨拶を交わすうち近しくなったのかも知れない。いずれの場合も直接会ったり長々と話すことは難しくても、文通という形で通じ合っていたとしたら昱子やテイも気付かなかったのではないか。留根千代に想いを馳せる時の果穂子の文章表現は何となく対象が同い年か年下、自分より下の立場の者に向けられている印象を受ける。その辺も足掛かりになりそうだった。

「果音ちゃんは、るねちよって誰だと思う? 」

薄暗い細道を並んで歩きながら何気なく果音に問うてみた。投げかけられた質問に、果音は一人前に眉間に皺寄せて黙り込む。唇を尖らせる癖は年相応で、そこはなんだか愛らしい。

「分かんないけど、」

果音はその顔のまま歩き続けてまた考える。

「たぶん、新しい人じゃないと思う。果穂子は、たぶん」

「──たぶん? 」

「果穂子はきっとそういう人じゃないから」

果音は矢張りこういうところに鋭い。彼女の言わんとするところは何となく分かるような気がした。

果穂子は八方美人なところがあるから。誰にでも朗らかに接しはするけれど、本当に心を許している人物はごく限られているから。

そんな彼女が出会って比較的日の浅い人物にあんな風に縋るとは思えない。昱子以上の関係になれるとも思えない。それに、留根千代という名が出現し始めた時期も気になるところだ。死期の間際に、あんなに唐突に頻繁に留根千代について書きだしたのは何らかの意味があったように思える。

そう、果音のように理屈や可能性を除外して言えば、女中や書生や中学生に入れ込むのは果穂子らしくないのだ。

──なんとなく、果穂子らしくない。

「そっか。そうだね」

きっと果穂子は六花よりずっと器用な娘だったろう。けれど、根本の部分では矢張り自分と通ずるものがある。金魚邸跡に行った際、亜莉亜が果穂子のことを知りたくなったとやけに真面目なトーンで言ったことが不意に思い出された。










その月の蔵書整理は通常より早めに切り上げられた。館長から職員全員に報告があるのだという。普段は使わない会議室にわざわざ集められる仰々しさに、階段を上りながら何事かと職員たちもざわつく。嫌な予感がした。金木さんが「噂程度だけど」と前置きして懸念していた件を思い出したからだ。


全員が席に着くと、館長は「蔵書整理お疲れ様です」とだけ前置きし、いつもの様によく通る気楽な声ですぐに本題に入った。

「ここのところ観光課で議題に出ていた件なんですが、来年度から図書館のスペースを縮小しようという計画が持ち上がってます。空いたスペースにカフェを入れて、まぁ観光の方達に立ち寄ってもらいやすくするっていう──」

そこまで聞いて、六花は慄然りつぜんとした。あまりのことに固まっている間にも館長の言葉はさらに続く。

若い人の集客効果も狙ってパソコン室や談話室も設けること。映画上映を定期的に行うこと。コミックやライトノベル、話題の芸能人の本のラインナップを増やすこと。「まあ、お堅くて近づき難いイメージを払拭したいんですわ」骨張った手の中の資料を確認しながら館長は明るくそう言う。

「──それで、今より充実した施設にするために、さっき言ったようにスペースも限られてくるんで蔵書を半分くらいに縮小させる必要が出てきます。その作業を皆さんにやって貰いたいんです。貸し出しのあまり多くない、古い書籍から削っていけばそれほど弊害もないと思いますし」

──何言ってるんだろう。

胸に苦いものが満ちていた。もし、その計画通りに改変されたらそれは図書館ではない。図書館とは名ばかりの、ただの娯楽施設だ。

そうしたら、ここは死ぬ。ここに息づいている果穂子ももう一度死ぬ。

別に、カフェもパソコンや談話室も、映画上映も悪くはない。話題のものだってそれなりの美点はある。けれど、優先順位が違う。

徐々に状況が飲み込めて来ると、苦いものはふつふつと怒りに変わった。この人はそれが一体どういう事か本当に分かっているのだろうか。

周りを見回すと、他の職員たちの表情も硬かった。六花と同じく信じられないという気持ちなのだろう。

金木さんは、どうだろう。金木さんは以前、ここが下手に変わるのは嫌だと思っていると六花に明かしてくれた。目だけ動かして彼女の姿を探していたとき、とつとして今まで黙っていた職員の誰かが立ち上がって口を開いた。

「それは」

もう決定した事なんですか──済んだ若い声で発言したのは、金木さんだった。

「その計画に司書の意見は取り入れられているんですか」

館長は面食らったような顔をした。反対意見が出ることすら念頭に置いていなかったようだ。その表情から察するに、司書に意見を聞くという思考ははなからなかったのだと知れた。六花もまた館長とは別の意味で衝撃を受けた。普段物静かで淡々としている彼女がこんな風に大勢の前で口火を切るというのが意外だったのだ。金木さんはそのまま毅然と続けた。

「充実って何ですか。今の図書スペースを削って、よりによって司書に蔵書を処分させて、それで充実ですか。私は館長の言う『充実』の基準が理解出来ません」

古いから大して価値がないなんて、命懸けで執筆した作者への侮辱です──語気を強めて主張する金木さんが、六花には眩しく映った。普段は落ち着いている彼女がこんなに強い熱を潜ませていたなんて知らなかった。

彼女の発言を皮切りに、他の職員たちも金木さんにぽつりぽつり賛同しだす。いつの間にか会議室は騒がしい熱気で溢れていた。

「館長」

やや興奮状態の皆を制して、職員の中では割と年長に当たる瀬川さんが諭すように呼び掛けた。

「なんていうか、図書館は森みたいな性質のものなんですよ。古くても価値のある大切なものを守って後世へ繋げていく。今さえ良ければ良いってスタンスのレジャー施設とは根本的に違います。活性化がどうとか、儲かるとか儲からないとか、司書はそんな基準で物を考えたら駄目なんです。五十年後とか百年後とか、もっと広い視野で見ないといけないんです。本当に実行すべきかどうか、もう一度観光課の方で話し合って貰えませんかね」

館長は思いがけぬ反論に大分圧倒されているようだったが、何が何でもワンマンに権力で押し通す人ではない。話が全く通じないほど頭が固い訳でもない。暫く考えるようにして頷いて、観光課で再考してみると約束してくれた。

六花の目の前にあるのは信じられないような光景だった。ほぼ決定事項のようになっていたものが覆された。声を上げること。真摯に伝えようとすること。勇気を持ってそれを行うことによって、ときに未来が変わる。

必要な時に不必要に黙する必要はない。自分の大切なものは遠慮なく守って良い。



職員用のドアから出ると、果音がクリーム色の外壁に寄りかかって待っていた。先程の一件で、結局いつもの蔵書点検日より出るのが遅くになってしまった。

「ごめんね! 」

駆け寄るとこちらを見上げた果音の小さな鼻先が赤かった。

「あのね」

果音は上着のポケットを何やらごそごそ探りだす。やがて抜き出した手を閉じたまま差し出しながら、手ぇ出して、と少しはにかんだ。

六花の手のひらに乗せられたのは細長く艶のある小さなどんぐりだった。

「校庭にいっぱい落ちてるの」

「くれるの? 」

やはり照れた顔のまま口を尖らせて頷く果音を愛おしく思う。

果音は可愛い。この子はこんなに素直で優しい子だけれど、その良さを彼女を取りまく人々のうち幾人が理解しているだろうかと心配になることもある。学校や家庭で、果音はどんな存在として扱われているのだろう。

館長は、古くはあっても魅力溢れる本たちの価値を理解していなかった。それらの本は一見しただけでは真価が分かりにくい存在だからだ。金木さんが声を上げてくれなければ、間違いなく処分されるか他所の図書館の閉架へ移されるかのどちらかだったろう。

「ありがとう」

貰ったどんぐりは縞の入った帽子付きだった。

「どんぐりの帽子ってちゃんとした言い方だと何て言うのかな」

分かんないと果音は首を傾げる。

「あと、もっとまるい感じで帽子がもさもさしてるのもあるよね。図書館で図鑑とか調べたら分かるかな」

「あるよ」

唐突に果音は元気よく声を出す。

「え? 」

一瞬図鑑の話かと思ったが、果音は弾ませた声のまま続ける。

「まるっこいどんぐり、うちの近くの公園にある! 」


そのまま二人でやって来た公園には、果音の言う通りずんぐりとしたどんぐりが幾つも落ちていた。物も言わず夢中で拾いだす果音の隣で、六花も倣って拾ってみる。ぐるりを桜の木で囲まれた中規模な公園で、置いてあるのはベンチが二つと鉄棒だけの質素な様相だけれど、桜の他にも銀杏や桂など数種類の木が植わっているし、すぐ裏手がささやかな雑木林になっているので様々な色合いが楽しめて心地良い場所だ。どんぐりは雑木林の方から転がってきているらしかった。

やがてポケットだけでは対応しきれない程の数を集めた果音は、それを一旦ベンチにあけて几帳面に選別し出した。

「綺麗なの選んでるの? 」

「うん」

気難しげな顔のままどんぐりから目を逸らしもせずに果音は答えた。

「お母さんの」

果音は大きさや虫食い穴の有無を慎重にチェックしながら続ける。

「お花は枯れちゃうからだって言うけど、どんぐりは飾ってくれるから」

果音はまったく真剣に、神様に献上する品を吟味するような恭しさでひとつひとつを手のひらに乗せ摘んでは帽子の隙間まで確かめてゆく。

──果音ちゃん、聞き分け良すぎない? 親離れも出来過ぎてる。

不意にあのときの亜莉亜の言葉が思い出された。

花は枯れて嫌だと言うから、どんぐりにする。夜まで家は閉まっているから、外で時間を潰す。六花とするような他愛ないお喋りも碌に出来ない。

寂しくない訳がない。

それでも母親を慕って自分の物の中で一番良いものを選ぶ。

もしかしたらこの子、相当頑張ってるんじゃないだろうかと六花は居た堪れなくなり、思わずその横顔に呼びかけようとした。ちょうどその時果音は選別したどんぐりだけポケットに入れてぱっと立ち上がった。

「ちょっと家に行ってもいい? 」

「え? 」

声を掛けるタイミングを失った六花は妙な声を出す。果音はベンチに大量に集められたどんぐりを指差した。

「全部持って帰れないから、外にあるバケツ取って来る」



砂遊び用の果音の赤いバケツは、アパート階段下の共用スペースに置いてありすぐに分かった。明るい内にここに来るのは久し振りだった。暗いときに来るのとは僅かに雰囲気が違う。

原田家の部屋の中に、六花は入ったことがない。ここで親子三人どんな風に暮らしているのか殆ど知らない。想像するだけだ。

もし今のような生活状態で果音が外で耐え難いような辛い目にあった時、彼女は一体それを誰に話せるだろう。誰に助けを求められるだろう。いや、もしかしたら今だって。今までだって。

こんなのがいつまでも続くはずがない。果音の従順さは彼女自身の能力を超えているのではないかと思う。

いつか何かが、こわれる。

真っ赤なバケツをひょいと果音が取ったとき、不意にかしゃりと原田家の玄関ドアが開く音がした。驚いて顔を向ける。

「果音」

どきりとするような鋭い声だった。ドアから出てきたスーツ姿の女性は、綺麗にウェーブした髪を束ねた清潔感のある人だった。果音から動線を辿って、やがてその人は隣の六花に気付いて目を丸くした。

「柳さん、ですか」

──果音ちゃんとよく似てる。

果音の母親と会うのは初めてだった。目立ちはしないが可愛らしい顔立ちで、想像していたより随分若く見える。六花は慌てて頭を下げた。

「初めまして。いつも果音ちゃんと仲良くさせていただいてます」

「いえ、こちらこそ。母の美貴です。果音がいつもお世話になっています」

訳もなくどぎまぎして、今日はお帰りが早かったんですねと繕うと、美貴は残念ですけど違うんですよ、と聞き取りやすい声で答えた。

「ちょっとものを取りに戻っただけで、仕事はまだ残ってるんです」

そうは言うが、それほど急ぎの仕事のように見えない。子供がいると言って早く上がらせてもらう事は出来ないのだろうか。

六花のそんな様子を察したと見えてにこやかな笑顔で美貴は切り出した。

「私シングルマザーでしょ」

「はあ」

何だろう。笑顔なのに有無を言わせぬような強引さを感じる。

「昔よりは良くなったのかも知れないですけど、世間はひとり親にまだまだ偏見があるから。これだからシングルマザーはって言われたくないんです」

子供が理由で早く帰ったりしたら社会では結局舐められるんです──美貴は得意げな様子で滑らかに喋り続ける。

「別れた旦那を見返したいっていうのもあるし、それに、子供たちにとってもかっこいいママでいたいなって」

六花は曖昧に相槌を打ちながらも違和感を感じずにはいられなかった。

美貴が主張することも全く分からないでもない。実際、たった一人で二人の子供を養っていくというのは並大抵のことではないだろう。働くのが厳しいというのも、殊に不器用な六花にはよく分かる。でも。

──自分の望むやり方を、子どもを理由に正当化してるんだ。

何というか、聞けば聞くほど美貴が考慮に入れているのは自分だけの視点だ。『仕事を優先するかっこいいママでいて欲しい』なんて、果音がいつ望んだのだろう。六花自身さえ蔑ろにされたようなこの感覚は一体何なのだろう。

ふと果音に目を向けると、果音は下を向いて所在なさげに立っていた。六花の視線に気が付いて、美貴も果音に目を移す。

「いつもごめんなさいね。この子難しい子でしょ」

難しい子でしょ。


──難しい子でねえ。


美貴が何の気なしに使った言葉に、六花は固まった。何の返答も出来なかった。

「なんかあるとすぐ睨むの。無口だから何考えてるのかもはっきりしないし。お兄ちゃんとは全然違くて」

世間話の延長のように笑顔のままそう言う美貴に、果音は弁明も口答えもしなかった。ただ、諦念を含んだ暗い瞳できっと唇を結んでいる。六花は果音が右手で強く掴んだ上着のポケットの中の選り抜きのどんぐりの事を思った。

「──果音ちゃんは、良い子ですよ」

今日の金木さんに見倣って、六花は毅然とした調子になるよう気を付けて声を出した。黙って美貴の意見に賛同したままでいたくなかった。

「それ、睨んでるんじゃなく緊張してるだけなんじゃないでしょうか。果音ちゃん、お母さんのこと大好きですよ。“難しい子”だなんて、本人の前で簡単に言わないであげて下さい」

美貴は不意を突かれたように目を丸くした。

「お願いです。もう少しだけゆっくり果音ちゃんの話を聞いてあげて下さい。お母さんに認められないというのは誰にも認められないのと殆ど変わらないんです。いつでも自分のことを上手く説明出来なくても、それは当たり前じゃないでしょうか。子どもなんですから」

言いたいことは沢山ある。でも滑らかには出て来ない。六花はあまりに無力だ。そして経験不足だ。

「結局」

美貴は落ちかけたバッグを肩にかけ直しながら苛立ちを抑えるような声を出した。

「結局責められるのはいつも私なんですね。どんなに頑張っても手薄なところを狙って責められるの。私は超人でも何でもないのに」

子育てをした事もないような人にまでそんな事を言われるなんて思ってもいませんでした──そう言った美貴は失礼します、と一礼して足早に立ち去ってしまった。



「──ごめん。お母さんのこと、怒らせちゃった。私が馬鹿だね」

果音は視線を合わせず首だけ横振りした。しばらく二人して呆然と立ち尽くした。

美貴自身が言ったように、多分六花には子育てに意見する資格などなかったのだろう。きっと的外れで、生意気で、理想主義。けれど実際は六花とは逆に碌に深く考えもせず親になる人は世の中にごまんといて、多分そういう人の方が圧倒的に多くて、六花はそれが悔しい。きっと的外れなのだろうけれど。美貴の苦しい立場をもっと思い遣るべきだったのだろうけれど。

──難しい子でねえ。

その言葉は、六花自身も子供時代母親によく言われた言葉だった。母が周りにそう言う時いつも困ったものだった。母の横で六花は一体どんな顔をして立っていれば良かったのだろう。どうしたら難しい子でなくなるのだろう。自分が“難しい子”であるのが悲しくて、いつか見捨てられてしまうのが怖かった。

そうだ。六花は家族が恐ろしかったのだ。

そして家族を諦めた。成長してゆくにつれいつしか怒りに変わった。傷付きだけはそのまま抱えて。

「果音ちゃん」

加減が分からず、蹲み込んだ六花は果音の頭を恐る恐る撫ぜた。北風に晒された彼女の髪は重く乾いた冷たさだった。

結局、あの人が果音にとって一番良いお母さん。六花よりずっと良いお母さん。種類の異なる栄養成分のように、ある栄養は他人から受け取れても、母親からしか受け取れない栄養素があるのだ。六花にあの人の代わりを務めることなど出来はしない。

子供というのはなんて不幸なんだと思う。自分の身も心も上手く守ることができない。自分の環境を変えることもほとんど出来ない。ただじっと、置かれた環境にひたすら慣れて耐えるしかない。六花のように逃げることも叶わない。

「かわいそうにね」

それは正しくない言葉だったのかも知れない。本当は言っては駄目な言葉だったのかも知れない。でも、自分が果音の立場だったらそう言ってもらって安心したかったように思う。

「かわいそうにね」

まだ幼い果音のパーツは何もかもが瑞々しくやわらかい。その唇を固く引き結んで、いっそう睨むような目つきになって耐えていた果音は物も言わず唐突に涙を溢れさせた。ぽろぽろと止まらない涙を拭いもせず、ひたすら歯を食いしばって睨むようにどこか一点を見ていた。


私たちには課題がある。若くても幼くても、生きにくさに繋がる性質があってもそれは免除されず、息も絶え絶えにその課題に立ち向かって日々を生きていく。どうしても生きていく。













美貴からはあれから特に何のアクションもなく、六花は変わらず果音との友情関係を続け、一緒に帰宅し休館日には共に時を過ごした。果音が涙を見せたのはあの日きりだった。図書館の縮小計画も一旦中断したらしく、今までと変わらない比較的穏やかな日々に戻った。

留根千代についても、日記を何度読み返しても決め手となるような記述は発見出来ず、果穂子を充分知ることのないまま時だけがだらだらと過ぎて行った。

もしかすると、ずっと核心に迫れぬまま六花は果穂子の事も段々に忘れてゆくのかもしれない。他の大切なことも、時間に希釈されてそうやって薄れていくのかも知れない。




秋が終わり、冬が過ぎ、やがて春が来ようとしていた。

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