2025年 晩秋 六花 2
果音は律儀に鏡の前の畳にかっちり固まって正座していた。
日曜日、六花の休みに合わせて果音も誘い、亜莉亜は午前中からやって来た果音のヘアアレンジに奮闘していた。
「果音ちゃん動かないでね。コテ熱いから」
緊張のあまり表情が固まり、不機嫌顔になった果音と上機嫌な亜莉亜を見比べて六花はそわそわする。
「果音ちゃん小学生なんだから、コテとかやり過ぎじゃない」
「ちょっとだけ! ちょっと巻くだけでふあっとするから! 」
気が気でなかったが、亜莉亜は言った通り素早い手捌きで作業を終え、果音の髪は本当にふわふわと可愛らしい柔らかさになった。
果音はいたく感動したようで、驚きと嬉しさに何度もぱちぱちと瞬く。
「触っても、いいですか」
「いいよー。あとハーフアップにしよっか」
これまた慣れた手つきで亜莉亜はサイドの髪を捻り始める。果音は黒目をぐるぐる動かしてその指の動きを追う。亜莉亜が美容師になるために学校に行っていることはずっと知っていたが、実際にその技術を目にして初めて彼女が本気で美容師になりたいと願っているのだと、そのためにきちんと努力しているのだと実感する。普段が軽いのでそういうところを見逃していた。
「──名前、何ていうんですか」
「私? 言ってなかったっけ、亜莉亜だよ」
ありあ、と鏡越しの彼女を見ながら果音は呟く。
「キラキラネーム……」
「キラキラネームって言うな! 割と気にしてんの! 」
ふふん、とされるがままになりながら控え目に笑いの息を漏らす果音と、楽しげに彼女の髪をいじる亜莉亜の図は見ていて平和でなんだか可笑しかった。こういう表情を見せたら果音はもう大丈夫だ。亜莉亜が人を自然と和ませる性格で良かったと思う。
*
「別荘っていうか、別宅って感じの使われ方をしてたみたい。少なくとも避暑のための別荘って感じじゃないね。同じ町内だし」
三人横並びで座った電車の中で亜莉亜は金魚邸の細かな事情を説明する。車移動でも良かったが、電車の方が金魚邸周辺の様子を歩きながらくまなく見ることが出来るので果穂子の暮らしを掴みやすいのでは、という事でそうなった。
電車に揺られながら、六花は亜莉亜と読んだ果穂子の日記の内容を思い返していた。
──わたくしの心は誰にも内緒にして。お願いよ。
誰に頼んでいるのか、果穂子はそんな事を書いていた。留根千代か、昱子か、使用人のテイにか。案外独り言なのかも知れない。
『わたくしのこの日記はきつと永く残るでせう。留根千代と一緒に。そうしたらわたくしは本当に、百年までもいきるでせう。それはなんと心おどることでせう。』
感じ取った雰囲気でしかないが、一時狂気を感じるほどだった果穂子の執着心のようなものが少し和らいで、穏やかになっているような気がした。相変わらず留根千代についての記述はあるが、昱子やテイを気遣う様子や、少しだが父善彦や秋彦、継母の環についても触れられていた。果穂子の切羽詰まった心を解すような出来事でもあったのだろうか。少なくとも日記にはそれに関することは触れられていない。けれど、その少ない記録から果穂子の環に対する思いが少しだけ覗けた。果穂子は環を恨んではいなかった。むしろ憐れんでさえいた。同時に、彼女が自分の継母だという意識も薄いようで、悪気はないものの彼女を他人として捉えている節があるように思えた。だからこそ恨むことがなかったのだ。
もしかすると果穂子のそういうところが環の癇に障ったのかも知れない。彼女は本当は果穂子と純粋に家族になりたかったのかも知れない。その思いが変に拗れて、憎んでしまったのではないか。そうなのだとしたら、どちらも気の毒だ。
『心待ちにしていた庭の桜が咲いた。床に居ながらでも開け放つた雨戸からよく見へる。何処の桜よりも此処のが一等綺麗に見へる。』
記述の最後はそんな一文で終わっていた。少し前のあたりからもう日付を記すこともなくなっていたが、内容から察するに四月の初旬であったと思われる。そこには何ら終わりらしい響きはなく、唐突に中断されたような印象を受けた。当然だ。日記は物語ではないのだから。本人に書く意志があるのなら、生き続けている限りずっと「次回へ続く」なのだから。そして、その「次回へ続く」のまま、徐々に弱って果穂子は死んだのか。
金魚邸の跡地の周辺は、今も果穂子が見ていた景色を保っているだろうか。果穂子が愛した日々と共に。
流れる。流れる。電車の窓から見えるこの景色のように、時間の経過には抗うことはできない。たとえ今に至るまで果穂子に
降り立った駅は旧佐伯邸の最寄駅から六つ先だった。白川町一番の繁華街を一つ過ぎた駅だ。果穂子の時代はどうであったのか知らないが、割と洒落た場所であることに驚く。佐伯邸の周辺もある程度栄えているが、こちらの方が幾分賑やかな印象だ。比較的平らな土地だという事も関係しているのだろうか。駅自体は綺麗だけれど中規模で、周辺はカフェや本屋、雑貨屋などがちらほら建っている。やはりここも図書館まわりの環境と同じく観光客を意識した街並みだ。三人で揃って降り立ったその土地は、見慣れなさ故の物珍しさを除けば特に目立って特徴的な印象はなかった。
「歩いて十五分位らしいから。昨日お母さんに地図描いて貰ってきた」
「そうなの? 」
聞けば、昨日六花が仕事で家を空けていた間に近所にある実家に行って金魚邸についての情報を教えてもらったという。
「言っても大した事は分かんなかったんだけどさ。『あそこには昔果穂子っていう病気のお嬢さんが住んでたことがあるらしい』って、本当それだけ。はっきり知れたのは金魚邸の詳しい場所だけ」
果音ちゃん歩くの平気、と声を掛けながら亜莉亜は果音と手を繋いだ。
「ありがとね」
歩き始めながら六花が少し驚きを含ませた声でそう言うと、珍しく亜莉亜は歯切れ悪くうーんと唸った。
「正直、私情も混じってる。あの日記読んだら、私も個人的に果穂子のこと知りたくなっちゃった」
あんな日記を書いたのがどんな女の子なのか、あの子が何を言いたかったのか、興味あるんだよね──、そうさらっと言う亜莉亜の視線は歪な鉛筆書きの地図一点に向けられていてどんな表情をしているのか分からなかった。
十五分で着くはずのその場所に、散々迷って六花たちは三十分ほどの時間を要して辿り着いた。亜莉亜の母親の描く地図があまりに主観的で絵本のような世界観だからこれは仕方ない。金魚邸の跡地だというその場所はそう指摘されなければ全く分からない程現代の住宅地と化していた。
「普通のアパートだね」
拍子抜けして思わずそう漏らした。
「すぐ貸土地にしちゃったからね」
想像していたより幾分広いその土地には、まるで昔からそこにあったかの様に馴染んだ三階建てのクリーム色のアパートが建っていた。金魚邸などなかったみたいに。アパート周りはフェンスと密に葉の茂った生け垣でぐるりと囲ってある。
果穂子の日記にはよく庭の木々や金魚池の記述が出てきたが、それらもみな切られたり埋め立てられたりしてすっかり更地になってしまったのか。考えてみれば当然の事なのだけれど。
「なんか思い出す?──って無理か」
「無理かなあ」
実のないやりとりに果音がくすくす笑った。
「ちょっとこの辺り歩いてみようか。何か思い出すきっかけがあるかも知れない」
六花の意見に二人は賛成して、特に目的地を決めずにふらふらと歩き始めた。
歩きながら六花はもう一度自分の記憶を思い返す。
あのひんやりと肌を覆う暗い部屋の空気感。隅々まで探らずにはいられないような謎めいた魅力。そう、あそこはすっかり埃まみれだったにも拘らず、異国情緒溢れる家具やら見たことのない珍しい道具がひしめき合っていて、美しい古美術展の様な趣があったのだ。物置きの様な場所だったのだろうか。そもそも六花はどうしてあそこに迷い込んだのか。あそこに迷い込んだきっかけは一体何であったのだったか。
「眺めめっちゃいいな! 」
亜莉亜の声で六花は現実に引き戻された。そこは、住宅街や疎らに生えていた木が途切れて、唐突に雑草が斜面全体に生えた見晴らしの良い丘だった。繁華街から一駅分離れただけのこの土地はこんなに標高が高かったのか。
「ほら果音ちゃんバスが動いてるのすごく良く分かるよ」
街が一望できる広々しい丘。果穂子も時折ここへ来てこの景色を眺めたことがあったのだろうか。昱子と共に。誰ともなく三人で腰を下ろす。もうこの季節、雑草は半分枯れた藁みたいな黄色になりかけている。みんな防寒はしっかりしているけれど、それでも吹いてくる風で耳辺りが冷たい。
「知ってる?」
亜莉亜が唐突に切り出した。
「昔──果穂子の時代かな。あそこのショッピングモールになってるとこ、デパートだったんだって」
「そうなの? 」
「バブルが崩壊した時に撤退しちゃったらしいんだけど。白川町にデパートがあったとか驚きだよね」
確かに驚きだった。でも、当時は資産家が沢山いた土地だったというし、きっととても栄えていたのだろう。果穂子が昱子とリボンを買いに行った百貨店というのはそこのことだろうか。いずれにしても昔の話だ。
ふと思う。果穂子や昱子だけではない。六花たちもまた当事者だ。六花たちも、あの時三人でここに来て一緒に景色を眺めたよね、と晩年振り返るときがいつか来るのだ。果音ちゃんなんてまだ小学生だったよね、などと懐かしい顔で語り合うのだろうか。語り合える機会は来るのだろうか。
「寒いね」
亜莉亜は立ち上がる。私達はもう一度金魚邸跡に戻ることにした。
「聞こえた合唱と赤い色の正体のどっちかでもヒントがあれば良かったのにねえ」
ピアノ付きの合唱なんて聞こえて来る機会とか場所とか限られて来るでしょ、と歩きながら亜莉亜は六花に振る。
「でも、所詮記憶だしね。記憶なんていつのまにか足したり消えたりして、曖昧だし」
段々に自信がなくなって来る。赤い色の記憶だって、あそこで見たものではないかも知れない。取り壊す前の金魚邸の池に赤い金魚が泳いでいて、その記憶と混ざったのかも知れない。どうだろう。でも、もっと大きかったような気もする。
金魚邸跡地のアパートの前の広めの道路の交通量はまばらだ。そこにいかにも観光用といったデザインのバスがやって来て、アパートの目の前で止まった。
「あそこにバス停あったんだ」
バスの向かいの横断歩道側で信号待ちをしながら亜莉亜は呟く。
「収穫もなさそうだし、次に来たバスで駅まで戻っちゃおうか。観光用だしすぐ来るでしょ」
果音はそれでいい、ともう適当に呼び捨てにして問いかける。果音は素直に頷いた。
「るねちよの事は全然分かんなかったね」
言われて、亜莉亜と顔を見合わせる。そうだ。留根千代の謎もあった。彼に至っては何から手を付けていいかさえ分からない。
バス停の時刻表によれば次のバスは十分後には来るようだった。駅まで直通だ。一休みするには丁度良い時間かも知れない。まだ昼前で、大した事もしていないのになんだか疲れてしまった。亜莉亜も同じようだ。この土地に着いて彼女の母のメルヘンな地図に迷った三十分で地味に消耗した。娘の名付けのセンスといい、あの人のふんわりとした感じは確実に亜莉亜に遺伝している。果音だけが元気で、バスを待つ間もひたすらうろちょろしていた。と、急にこちらにやって来て六花の腰のあたりをつつく。
「どうしたの? 」
「小学校って書いてあるよ」
果音は唐突にそんなことを言いだす。
「どこに? 」
果音はバス停の立て札を指差す。え、と近付いて停留所名を見て驚く。
──南小学校前。
丸い立て札に太字でそう記されていた。こんな目立つ表記に気が付かなかったなんて。
「小学校って──無いよね」
こちら側にはアパート、向かい側には大きな食品工場があるだけだ。
「でもバス停には小学校前ってあるよね」
「なに話してんの? 」
亜莉亜も二人のやり取りに入ってきた。
「いや、停留所の名前がさ」
六花が言いかけるや否や亜莉亜は目を見開いて、でかした、と叫んだ。
「小学校ならピアノで合唱するじゃん! 」
「だからその小学校がないんだって」
「そんなの! 今ないだけでしょ」
駅に着いたら腹ごしらえするよ、それから聞き込み調査するか──、と亜莉亜はにわかに元気を取り戻して言った。
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