2025年 晩夏 六花



娘よ、覚めよ、覚めよ

光を放て

錠を解け

歌うたいの子らは洋琴に合わせ口ずさぶ

ご覧、おまえは美しい

ご覧、おまえは美しい





これから百年のち、今ある一体どれくらいのものが変わらず残っているのだろう。

科学や常識や風習がどんどん変化していく世の中で、変わった方が良いものと、変わらず残すべきものと、どうやって仕分けしたら良いのだろう。携帯端末のディスプレイに指を滑らせながらそんな事を思った。

果穂子の日記は彼女が別荘に移ったごく初期から記されていた。最初の記述は大正十三年四月四日から始まっている。

『ひら、ひらりと揺れる。金魚が泳ぐ。水はどこまでも透明なのに多くの人は水を絵に描くとき、何故青ひ色を使ふのか。水の冷たひ清浄さが寒色のブルーと重なるのか。金魚はその冷たさに抵抗してゐる。燃へるやうな赤い色を纏つてひら、と花のやうな尾をゆらめかせ、水を発熱させやうとしてゐる。』

随分詩的な内容だと感じたけれど、日によってはその日の出来事を淡々と綴っているものもあり、中々に変化に富んでいる。日記は毎日欠かさず記されているわけではなく飛び飛びで、果穂子が何か書きたい衝動に駆られたときにだけ記されているようだった。

果穂子の日記をちゃんと読もうと決意してから、六花は思案した。一体どうやったらあの日記を精読することができるだろうか。

一日中図書館に居られる立場ではあっても、六花は職員だ。ある程度自由が利くにしても、さすがに大机の裏まで覗き込むようなことは出来ない。最初のうちは施錠当番の閉館後に携帯端末のライトを照らして読むのはどうかと試してみた。けれど、思ったよりも時間は取れないし読みにくいし気は急くしでちっとも内容が把握できない。そんなとき、果音が助け船を出してきた。施錠の準備をしている隙に日記の部分を写真に撮ってくれるというのである。一瞬、また果音の集中力を削ぐことになりはしまいかと思わず言葉を濁したら彼女はたいそう不服そうな顔をした。出来るだけ自分も秘密を探ることに関わりたいらしい。

「大丈夫だから」

果音は声を張って主張した。

「だって、図書館が閉まるまでに宿題を終わらせたらぜんぜん問題ないよ。できるよ」

果音は今や六花の優秀なパートナーだった。早速その日の閉館直後、人がいなくなった僅かな隙をついて一番古い記述の部分、大机の右端からきっちり三枚写真を撮ってくれた。そのようにして果音が少しづつ撮り貯めていってくれた日記を読み進めていくうち、果穂子がどんな生活をしていたか、どんな事を考えていたかが徐々に分かってきた。

『今日は女学校ぢよがくかうが半休なのに合はせてわたくしと昱子姉様とテイさんとで何かを拵へることになった。お彼岸は少し過ぎたけれど、ではおはぎにしませうかと云ふやうに纏まって、三人で泥んこ遊びでもするやうにして拵へた。昱子姉様が洋風の菓子の話などなさるので三人で洋菓子のあんのやうに使ふ白いのは一体どうやつて拵へるのだらうかと考へたが、結局答は出なかった。わたくしはミルクをゆつくり煮詰めるとあのやうになるのだらうかと想像した。』

『満年齢でかぞへて今日で秋彦が四つになつた。四つと云ふと存外ぞんぐわい大きくなつてもその頃の想ひ出が残つていたりする。秋彦はどうしているだらうか。丈夫ぢやうぶで健やかに過ごしているだらうか。わたくしのことは、もう全く覚へてはゐないのかも知れない。』

『昱子姉様にお聞きするところによれば、リボンは学校では依然としてうんと人気なのださふである。けれどもあんまり流行るので先生方は良くは思っておられないらしく、大きく派手なものとか、毎日違うのを付けかへてくる娘には注意ちゆういがいくさふだ。』

はじめのうちは多感な少女らしい記述や、他愛もない日々の出来事が大半を占めていた。けれど、読み進めると段々に様相が変わってきた。夜な夜な写真データと睨めっこしていた六花は自分でも予測していなかった程に日記にのめり込んでいくのを感じていた。

うまく言えない。でも、なんだろう。これはなんだろう。

この感覚には覚えがある。これは、真剣に読まなければならない類のものだ。

改めて疑問に思う。なぜ、日記だったのか。なぜ大机の裏だったのか。











「金魚邸と呼ばれていたの」

みんなそう呼んでいたのよ、と早ゆり婦人は教えてくれた。果音が夏休みなので一緒に撮り溜めていた写真をまとめて、プリントアウトしてから婦人宅に伺った午後のことだった。果音の母親は相変わらずのようで、子供たちが夏休みだからといって自分も合わせて仕事を休むという考えは無いらしかった。

「本邸には見ての通りお庭に大きな池があって、当時はそこに外国から仕入れないと手に入らないような珍しい金魚が沢山いたのね。わざわざ専門の方を雇って世話をさせていたそうよ。で、当主が飽きたり、好みの柄に育たなかったものは別荘行き。別荘にも本邸程ではないけれど割合大きな池があってそこに適当に放っていたのね。近所の人もそれを知っていて、その池があんまり目立つから『金魚邸』って」

そういえば佐伯善彦は熱心な金魚収集家だったと資料に記されていたことを思い出す。果穂子の日記にも、最初の記述から池だとか金魚だとかいう単語がよく出てきていた。果穂子が幼い頃の、実の母親と夏祭りで体験した金魚すくいの思い出も記されていた。それ以後も色々な種類の金魚の記述があったけれど、あの詳しさはそういう事情によるのだったか。

「母が遊びに行くと、余程お好きだったのか果穂子姉様はいつも池にいてじっと金魚を眺めていたそうよ。でも、池には幾らでも華やかで珍しいのが居たのに果穂子姉様が特に目を掛けていたお気に入りの金魚というのが、あまり見栄えのしない、小さな素赤の細長い和金だったそうでね」

「すあかのわきん、ですか? 」

「今の旧佐伯邸の池の金魚のような、どこにでもいる赤くて細長い金魚のことよ。母は自分だったらもっと華やかなのを可愛がるのにと不思議がっていたわ」

学校も行けず外出も滅多に出来ず、来る日も来る日も金魚邸に閉じ込められて池を覗いていた果穂子。その鬱屈した日々が、果穂子に心境の変化をもたらしたのだろうか。

「プリントアウトした日記は、まだ全体の半分程度なんです。日付でいうと最新のものが大正十五年の六月くらいだったと思います。でも、何というか日を追うごとに日記の内容の質が変わってきている気がするんです。上手く言えないんですけど、迫力が増してきているというか」

「そうなの? 」

婦人はひとりごちるように言って両手指をクロスした。

「果穂子姉様は──そうね、あまりご自分の心を打ち明けられないお方のようだったから」

婦人は何かを思い起こすような遠い目をする。

「自分の身に何が起ころうとおっとりと微笑んでいるような方だったらしいけれど、いつだったか母が『果穂子さんは馬鹿よ』と言ったことがあって。驚いたの。果穂子姉様の悪口なんて母の口から聞いたことがなかったから」


──それは昱子の痴呆が大分進んでいた頃の話だという。

昱子は窓辺近くの椅子にちょこんと座って、かなりの間窓の外の景色をじっと眺めていたそうだ。既に夕暮れになった景色を黙って眺め続ける昱子の背に早ゆり婦人は冷えますよ、と声を掛けたのだという。

「果穂子さんは」

出し抜けに昱子はそう口にした。

「果穂子さんは、あの子は、馬鹿よ」

驚いた早ゆり婦人は昱子の顔を覗き込む。

「だってあの子は口では何にも言わないの。人当たり良くにこにこしていらっしゃるけれど、あの子の心の中には誰も居ないの。頑固なのよ」

窓の外を眺める昱子の顔は無表情だった。

「わたくしが必死に手を握っていないと、独りで何処かへ行ってしまおうとするのだもの。あの子の行動ひとつでわたくしが傷付いたりするなんて、知らないのだもの」

自分が誰かにとっての大切な存在だなんて思いもしないのだわ、呂律の回らない舌足らずな口調で昱子は訥々と続ける。一瞬母親が痴呆特有の一時的な正気状態になったのかと早ゆり婦人は訝ったが、どうやら昱子の精神は娘時代に飛び戻っているようだった。

「果穂子さんはね、わたくしのこと、いつも強いと思われているの」

まるでうぶな娘のように昱子が涙ぐむので、婦人は思わず声を掛けた。

「お母さまは、お強いわ」

「あら、早ゆりさんもそんな風に思うの?」

その途端昱子の顔は母親に戻る。

「そんなら、きっとそうなのね。あなたがそう仰るのなら、そうなのでしょう」


──それっきりその話題は終わってしまったけれど、何だか母と果穂子姉様のもどかしい関係を垣間見た気がしてね、と早ゆり婦人は語った。

「母は果穂子姉様が大好きなの。わたくしに彼女の事を呼ぶ際は果穂子“姉様”と付けなさい、と注意したのも母よ。仲は間違いなく良かったと思うわ。でも、お互い伝えられなかった部分は色々あったのでしょうね。そういうデリケートな部分が日記では素直に書き表せたのかもしれないわ」

心して読んでみます、ありがとうね、と婦人は印刷された日記の写真に触れた。

昱子でさえ知ることの出来なかった果穂子の本当の想い。この先の日記を読めば、恐らく六花はその部分に触れることになる。たまたま日記の存在を知って、佐伯果穂子に対面したこともない六花が。そういうのって、どうなんだろう。果穂子の望んだのはそんな形なのだろうか。

「あの子、賢い子ね」

不意に婦人は庭を散策している果音に目を遣った。

「そんなにお喋りな子じゃないけれど、集中力が凄いのね」

本当に、と六花も庭を見て答える。

「色んな事をよく見ているし、細かい変化も目敏く気が付くんです。日記の読み込みだって、果音ちゃんがいなかったら出来なかったですし」

「そういえばあなた『りっかちゃん』って呼ばれているの」

随分慕われているのね、婦人は含み笑いをする。

「私は保護者というより友達みたいなものですから」

「いいえ」

そう思っていたとしても、やっぱり年齢の差はあるわ、婦人は急に真面目な顔になった。

「あなたが気付いていないだけで、彼女はあなたに随分救われているわ。同い年の子が出来ないことも、大人のあなただからしてあげられることもある。どうぞそばにいて、彼女の力になってやってあげてね」











『近ごろは体調たいちやうが思はしくないので大人しく読書に没頭してゐる。なかでも八木重吉といふ人の詩集はなぜか純度の高い、磨かれた水のやうにわたくしの中へすうと入つてぐんぐんしみ込んでいく思ひがする。この人の大体の詩は簡明で素朴だけれど、そこが日常を想起さうきさせやすく良ひところだと思ふ。けれど時々不意打ちのように魂をぐさりとやられるやうなものも混じっているから、少し心構えがなければならない。けれど、白状はくじやうすれば果穂子が一番に欲してゐるのはそのぐさりとやられる感覚なのである。』

相変わらず夜の時間を利用して日記の読み込みは続く。予感通り果穂子の日記は日が進むごとに深く激しく、自分の心の在りどころを探るような内容になっていった。果穂子という娘はその若さに似つかわしくない深い考えを持っていることを窺わせた。佐伯家のこと、昱子との友情、実母との思い出。まるで魂を削り取るようにして書き記されたそこには佐伯果穂子という人物の人生観が丸ごと詰め込まれているようだった。

『もしわたくしが、何も残さずに命を落してしまふならば、それは一体わたくしにとつて世界にとつて何の意味合いがあるのだらう。生きてゐる者には何かしらを残す義務があるのだとわたくしは信じてゐる。』

果穂子は多分、美しく着飾って友人たちと楽しく毎日を過ごせればそれで満足できるような単純な娘ではなかったのだ。それにしても、こんなに内容が「生」に執着していくのは、この頃から自分が結核に感染しているとはっきり分かったからなのだろうか。果穂子はいつ自分が病に侵されていることを知ったのだろう。

日記の下部に、走り書きのようなものがさらさらとした字体で記されていた。こういう字は殊に読みにくい。思わず眉間に皺を寄せながら写真に顔を近づける。


絵はひとより永くのこるだらう カンヴァスが朽ちても詩はのこるだらう

しかしその国語がほろびたら詩ものこりはしまい

のこすことはとこしなへのみちではないとしりつつも できるかぎりうつくしくけふをうたわせたまへ


詩──だろうか。果穂子自作の?

──いや。

六花は小さなメモ帳を千切って『八木重吉』と記し、仕事用の鞄に滑り込ませた。


翌日、仕事中に配架するふりをして911の書棚を覗くと、あった。八木重吉やぎじゅうきちという読みをするらしいその詩人の作品は、室生犀星やら萩原朔太郎やら金子みすゞといった大正から昭和の時代にかけて活動していた詩人と棚を同じくして並んでいた。

八木重吉はたしかに不思議な詩人だった。六花は昼休み毎に窓の外を眺めるのを中断して彼の詩集を読み耽った。こんなものが詩と呼べるのだろうか、と思うものもあれば、あまりにも表現が直接的で不意打ちを食らうものもある。果穂子が彼の作品にのめり込んだのも分かるような気がする。生を求める強さが果穂子と一致するのだ。

──残すことはとこしなえの道ではないと知りつつも、出来る限り美しく今日を詠わせ給え。


午後の配下作業の時間になっても、果穂子の生き方について考え続けてしまう。いつの間にか六花は自分と果穂子を重ねるようになっていった。踏み込んでみれば果穂子と六花の価値観はよく似ていた。

おそらく、果穂子にとって心の一番根底にあるものは“伝えたい”“残したい”なのだ。それが最も重要なことで、その思いは“幸せになりたい”という気持ちさえ上回っている。幸せより残すことを優先させたのだ。

果穂子はそんな生き方しか出来ない不器用な娘で、それは多分、六花自身もそうなのだ。

──果穂子姉様を一番に理解できるのはあなたなんじゃないかって。

早ゆり婦人のあの言葉。伝えることと残すこと。自分の幸せや命より大切なこと。

それに無意識に引き寄せられて、六花は。

不思議な事は何も起こっていない。起こっていない、はず──なのだけれど。

──何だこの、

この。

感覚は。

この誘引力は一体何なのだ。これも果穂子のかけた仕掛けなのか。

この場の空気が何かいっぺんに全く別なものにすり替わってしまった不自然な感覚がして、六花は作業中の手を止めた。

ぞくりと周囲を見回す。

見上げるほどにそびえ立つ本棚の壁。壁。壁。

──そうか。

図書館が、そういう場所の最たるものなのだ。

中にはいかにも商業主義的に出版された本もあるにはある。けれど、その中に混在して大正時代の詩人たちのように命をかけて執筆したような本もあるのだ。本に時間を託して、作者の人生を託して、たとえ自分が死のうとも、本は人より永く残るからと。

そういう人はきっと時間が欲しかったのに違いない。六花のようにたっぷりの時間を求めていたのに違いない。その『手に入れたかった時間』を本の未来に詰め込んだのだ。


不意に合点が行く。六花が図書館に惹かれる理由。そこに飛び込んでしまった理由。『図書館しか拾ってくれないから司書になった』なんて、そんなの嘘だ。




本を持つ手が震えた。

六花は、目覚めさせたのだと思った。揺すり続けて、揺すり続けて、知らず知らずのうちにこの邸に眠っている『果穂子』を。



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