一九二四年 十月八日 果穂子

《お邸のまん中のクルクルとした階段がおほきくて、目がまはりさうだつた。

わたくしのお父様だと云はれるその方は、けれどわたくしを御覧になつてもチットモ嬉しさうでは無かつた。お目々のあひだの皺が深くて、お肌がゴツゴツしてお出でで、おぢいさんみたゐだつた── 》







金魚は美しい。


金魚というのは熟熟つくづく不思議な生き物だと、果穂子は思う。

食用でもなければ、生産物を生み出すでもない。おおよそ人間の生活に必要な存在とは思えない。それどころか、金魚は人の助けがなければ生存し得ないのだ。なのに何百年も昔からずっと人々に愛でられている──純粋な観賞用としての、魚。金魚はもう、魚としての枠を超えてしまっているのかも知れない。巧緻なつくりの芸術品として。

金魚は、人の美意識のためだけに創られた存在。あの、あでやかな赤も、優美な尾も、蘭鋳なんかは背びれさえも奪われて、ただ見た目の美しさのみを求められている魚。

確かに。果穂子はもういちど思う。

金魚は美しい。

薄昏い水の中に居たって、水面に浮上すればたちまちその華が際立つ。さながら水中花のようにぱっと咲く尾。あでやかな色。

それでも主張もせず文句も云わず、ぬらりぬらりと煌めくから。

でも──そう。

そうしていられるのは、自分の処遇を知らないから。

金魚を人の助けなくしては生きられないようにしたのは他でもない、人なのだ。恵まれているのかそうでないのか、よくわからない。

人と共に生きてきた金魚は鯉と同じで物怖じしない。池のほとりにそっとしゃがんで待っていれば、滑らかな鏡のような水面みなもが徐々に乱れ始めて波紋を描き、その気配を感じ取ることができる。しばらくすると点々と紅い色が染みてくる。餌が投げ入れられるのを期待して金魚が上がってくるのだ。体全体が粘膜で出来た金魚はやはり粘膜性の透明感のある口を円くあけて、現実感のない眼で (たぶん)こちらを見ている。行動はほぼ鯉と同じなのだけれど、金魚はその全てがこぢんまりとしている。

「金魚の可愛らしいところは、小さいところではなくて 」

昱子はよくそのように云う。果穂子も同感だ。華や美しさなら、豪華絢爛でどっしりとした鯉に軍配が上がるかも知れない。けれど、果穂子たちの感覚にしっくりくるのは、この金魚のようなちんまりとした可愛らしさも兼ねた美なのである。あんなにも華やかなものが、こんなにも小さい。そこに真価があるのである。


此処に来てから池を覗かない日はない。

最初のうちはただこの池全体に全部の金魚が一緒になって泳いでいるさまを愉しんでいたけれど、見ているうちにどうも一緒に泳がせておかない方が良い組み合わせがあることに気が付いた。金魚と言えども性格がちゃんとあるようなのだ。華美な外見のものはその分泳ぎがぎこちなく、性格もおっとりしているように見える。そういう種は撒かれた餌を素早い動きの種に横取りされがちだったり、水泡眼や出目などはその特殊な膨らみに傷をつけられてしまうことがある。だから、手ごろな板を池に沈めて仕切りとし、ゆるやかに分離した。

父の、珍しいものを集めるだけ集めてその世話の仕方に疎いところは尊敬し難いと、果穂子は思っている。本邸にいる選り抜きの金魚は詳しい方が手を掛けてくださるから問題ないのだけれど。父はただ、金魚の優雅さや美しさだけが好きなのだ。美しいものを愛でる気持ちは結構だけれど、その個々の性質や弱さなどはまるっきり知る気もないのだろう。

──かあさまの扱いと同じね。

母は美しいひとだった。もう果穂子が六つの時に亡くなって終われたけれど。おっとりとしていて穏やかで、微笑むときはいつも、困ったような笑顔だった。父は母のそんなところが好きだったのだろう。亡くなられた時もまだとてもお若かったように思う。あの時の母は一体お幾つだったのだろうか。

父を恨むつもりはない。母が亡くなったのは父のせいではないのだと分かっていた。むしろ、それまで果穂子と母に不自由ない暮らしをさせてくれた。母亡き後は果穂子を引き取って下さったことにも感謝している。

六つの歳に初めて連れて来られたお邸は、信じられないほどの広さだった。果穂子はそれまで話に聞くだけで一度も対面した事のなかった父に『果穂子』と呼ばれることに違和感ばかりを感じていた。

赤い色のふかふかした素材の布が一面に敷き詰められた、履物を脱がないお家。三層吹き抜けの階段ホールに圧倒され、その天井の高さは果てしなく心細く思えた。子ども用とは思えない立派な部屋を充てがわれ、萎縮している果穂子に父は云った。

「困ったことがあったら何時いつでも云っておいで」

つねに眉間に皺を刻んでいた父だけれど、その言動から察するに元来は優しい人なのだろう。けれど何処からともなく湧いてくる申し訳なさで、とうとう父に何かを相談すると云うことも無いままにこちらへ来てしまった。

──彼処あそこに十年も居たのね。

佐伯邸の洋風の暮らしにも慣れ、やがて果穂子は邸の造りの美しさを愛おしむようになった。離れて一年と経っていないのに、宝石みたいな大広間のシャンデリアや優美な張出窓の曲線美の懐かしいこと。そこから見下ろす街並の清清しいこと。でも、戻りたいとは思わない。此処で暮らす日々の方がずっと心穏やかだ。此処の造りは日本式だし、かあさまと二人で暮らしていたお家に雰囲気が似ている。忙しなくいろいろな人が出入りする慌ただしさも、父の仕事関係のパーティも無い。

それに、果穂子が本邸を出たのは特にたまき様にとってとても良かったと思う。

池の中の橙色の背びれが滑らかにうねる。果穂子はその素赤の小さい金魚を目線で追いながら思い起こす。



「一体如何どうしてあの子にそんなに固執なさるのですか。うちには秋彦がいるのに。もう二歳になるのですよ」

此処に移るひと月程前、最後に聞いた父に訴える環様の言葉。

あの方が果穂子の事を良く思っていないのは知っていた。父や果穂子に面と向かって云うことは無かったが、周りにどんな風に話しているのかは自然と耳に入ってきた。邸の空気と云うのは大抵立場ある者の醸し出す雰囲気に感化される。当主の妻という立場であれば、その影響力は絶大だった。

──だってほら、あそこの娘はお妾さんの子供でしょうに。

──孤児なのですって。

何処からともなく囁き聞こえてくる果穂子の評判。意味は分からずとも、子供心に良い事を云われているのではないのは知れた。女で、しかも正式な妻の子ではない果穂子に家を継がせるなどと父が言い出して果穂子を引き取ったものだから、環様は夫に裏切られたような心持ちになったのだろう。あの方がその話題を持ち出すたびに父は不機嫌な顔をして黙り込む。あまり何度も言われると、

──お前に子供がないのだから仕方ないだろう。

環様が一番傷つく言葉だと知っていてそれを持ち出し、黙らせる。

そのやり取りを偶々耳にしてしまうと居た堪れなかった。自分は此処にいてはいけないのではないかという思いが発端となって、いや、そもそも何処にいてもいけないのだ、果穂子を愛する人物なんてもう何処にもいないのだからと思考の黒々とした沼に嵌っていく。

かあさまに会いたい。お膝の上に乗って、頭を撫ぜて貰いたい。

堪らず果穂子は庭の池に駆けてゆく。本邸でも此処でも、相変わらず果穂子の居場所は金魚池の辺りだ。どんなに豪奢な部屋を与えられて、魅力的な御本や素敵なシャンデリアが有っても、果穂子の居場所は如何どうしてもそこだけなのだ。

あそこはたしかに美しい。美しいけれど、息苦しいところだった。

感情が波立つほどの苦しさというわけではない。そうではなくて、あの苦しさは水の中に零れてぼんやりと全体に拡がってしまった絵具、そんな状態とよく似ていた。果穂子の存在そのものが、なんだかぼんやり苦しかった。泣けもせず、ただへらへらと笑っている子供だったように思う。



池に揺らめく薄紙のような尾がついと沈んで果穂子はその行方を見失う。身を乗り出したとき、くすくすと鈴の鳴るような笑い声がした。

「ねえ、わたくし、玄関へ向かうより先にお庭を先ず覗くのが習慣になってしまったわ」

ごきげんよう、と昱子が今日も銀木犀の陰から現れた。

「ごきげんよう」

果穂子も思わず笑いながら立ち上がる。

「だって」

「だってなあに」

なんでも有りません、と済まして云って再び二人で笑う。昱子はまるでお日様のようだ。真っ直ぐで、明るくて、暖かい。こんなに瞬時に場の空気を華やかにしてしまうのはもはや才能ではないかと思う。

「あなたのその帯、初めて見るわ。素敵ね」

「ありがとう。テイさんが用意してくだすったの」

「あなたのお好きな金魚と同じ赤なのね」

昱子は帯に不意に触れて、何事か思い出したように指を滑らせた。

「お邸住まいの頃も、果穂子さん、よく池にいらしったわね」

いつも飽きもせず無表情にお池をジッと見詰めているの──、昱子が急にそんな事を言い出すので果穂子は面食らう。

「昱子姉様? 」

「果穂子さんはお強いわ」

わたくしね、本当は悔しいの、昱子の声は殊の外低かった。

「果穂子さんから身分を奪って、こんな処へ追いやって、学校へも行けなくさせて。もう半年よ。あなたみたいに穏やかでいられない。今にも佐伯のおじさまと環様を憎んでしまいそう」

「昱子姉様」

「環様なんてあなたの──」

「ねえ、昱子姉様、きいて」

昱子は固く結んだ唇を噛んだ。

「わたくしね、実を云うと、お邸にいた頃より今の方が幸せなの。屹度わたくしは馬鹿なのね。環様に疎まれる悲しさよりも昱子姉様がわたくしを想ってくだすっている事の方がずっと伝わって来て嬉しいんですもの。こうして毎日お喋り出来るのも楽しいし、それにお邸でのわたくしの立場なんてそもそもあってないようなものだったの」

昱子姉様はお日様。純粋で真っ直ぐ。だから果穂子は、あなたに魅かれる。

わたくしが悔しいのは果穂子さんを大事に守る役目の人がまるっきりそうしていないと云う事よ、と昱子は切なげに訴える。

「いいの。環様だってお父様だって苦しいと思うもの。本当に芯から悪い人なんてきっとそうそういないもの。大抵の方はどこかしら葛藤しているものよ。それはあの方達だって同じ」

だからって、昱子は一瞬気色ばんで、それから一気に力が抜けたように目線を下に落とした。

「果穂子さんはそうやっていつも許して、優し過ぎるのよ」

「昱子姉様の方がずっとお優しいわ」

昱子姉様は人を愛せるから人を憎める。きっと誰かを愛するとか、ましてや憎めるほど果穂子の情緒は育っていないのだろう。昱子姉様は果穂子のことを優しすぎると仰るけれど、その解釈は根本的に間違っている。嫌いな人がいないのは優しいからなのではない、情がないのだ。いつまでも相手が“他所様よそさま”で、『そうね、他所様だもの、わたくしの内面が分からなくても仕様がないわ』と、もうこちらで切ってしまうのである。

本当の果穂子は冷たい。人にそこまで興味が持てない。それとも人に興味を持つのが怖いのか。いつもそうなのだ。結局のところ自分にしか興味を持てないような、そんな薄情な娘なのだ。

唯一愛しても許される存在は、すでに喪くした。その愛情が奇妙な対象に傾いてしまう異常さは、自覚している。


「ねえ、わたくしのために怒ってくださって、ありがとう」

この十年間、昱子が居たからやって来れたのかも知れない。ことある毎に果穂子に人間らしさを教えてくれた。昱子は、そうでしょう、あなたの代わりに怒ってあげているのよ、とにやりとする。

「あなたももっと非道い事を云えば良いのよ」

「申しません」

笑い乍らかぶりを振る。

「ずっと環様のお顔の黒子ほくろのこと、食べ残しか何かだと思っていましたって、子どもの頃みたいに云ったら良いのよ」

「そんなこと申しません! 」





二人でひとしきり笑いあった後、

「そうね、そうね。 果穂子さんがそう仰るのなら、そうなのでしょう」


昱子は共犯者めいた笑みを浮かべた。

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