貴色

真夜中 緒

遺勅

 知らせは密やかに風に乗ってもたらされた。

 源氏の君がついに京を落ちたという。

 貴子は目を瞑り、深い息をもらした。

 とりあえずはこれでいい。

 これで故院の遺志を源氏が台無しにしてしまう可能性はかなり低くなった。

 我が子である今上を動かして、源氏の殿上の札を削らせたのは貴子だ。渋る今上を動かすのは本当に大変だった。

 源氏の罪名は公表されてはいないが、今上が寵愛する尚侍に通じたことは誰でも知っている。

 源氏の殿上の札を削るよう迫る貴子に、抵抗する今上が口走った言葉を、貴子は忘れる事ができない。

 「光は私の弟です。尚侍が光の子を産んだとて天孫の血筋の御子であることに違いはありますまい。」

 目眩がした。

 故院と同じ事を言うので。

 天孫の直系の血筋に宿る力のことを、貴子ほど知り尽くした者は少ないだろう。知り尽くしてその尊さ、得難さを痛感してもいる。

 源氏の力は確かに素晴らしい。

 天孫の力を体現したような、あらゆるものを惹き付ける力だ。それはいうなれば世界に愛される能力だと言える。天孫の力故に帝位を継いでいるのだという理屈から言えば、光の血を帝室に残すことには大義があるのかもしれない。

 しかし、人の世に共通するする倫というものも、あるはずだと貴子は思う。

 思って、いつも自分を嘲笑する。

 それでも、その倫に背く故院の遺志を、淡々と果たそうとする自分が思うことではないと。


 「東宮につつがなく帝位を踏ませよ。」

 それが貴子に対する故院の遺勅だった。

 故院、前帝、貴子の背の君。

 貴子は故院に寄り添って生きてきた。

 寄り添うようにではなく、本当に寄り添って。

  貴子の一番古い記憶は、故院が生まれた時のものだ。

 鮮やかに空を彩った五色の光。

 同じ邸内にいた幼い貴子には、それが喜ばしいものなのだとすぐにわかった。

 祖父に連れられて生まれたばかりの故院にお目にかかったのがその次の日。父の妹である生母の女御はまだ床についておられたが、貴子を見て微笑まれた。

 「ごらん、この皇子様がお前の背の君じゃ。心を尽くしてお仕えするのじゃぞ。」

 祖父は年をとっていた。

 長く子供に恵まれず、結局一男一女しか得なかった。それが貴子の父と故院の御母女御だ。

 父の大姫である貴子は、叔母の女御がそうであるように后がねとして育てられた。

 いや、それは違う。

 后がねたる娘だからこそ、貴子が大姫なのだ。

 権門の御曹司である父の通い所は多い。

 その中で特に身分が高いわけでもない貴子の母が、祖父もいる本邸に引き取られたのは、貴子を産んだからだ。

 貴子は見鬼だ。

 それも単にあやかしを見るという程度ではない強力な見鬼。

 祖父は幼い貴子に様々な術の手ほどきをした。

 身分の高い家であれば見鬼は珍しいものではないが、その力を意図的に使う術を学ぶ者は少ない。物の怪を祓うようなことは陰陽師や僧都の領分だと考えられているからだ。

 その点、祖父の考えは違った。

 自分でできることは自分でやったほうが確実だというのだ。誰かに命じてやらせるのにも、自分に知識がなければ結果を精査することができないと。

 后がねである貴子は徹底的に鍛えられた。

 背の君たる故院が生まれてからは一層。

 貴子もまたそれにこたえた。

 そして当たり前のように、故院の添臥になった。

 

 京が泣いている。

 源氏の君が去ってしまうので。

 世は荒れるだろうと、貴子はひそかに覚悟する。

 貴子の産んだ今上には、源氏ほどの力はない。東宮の力は強いが幼過ぎる。

 なまじ源氏がいたゆえに抑えられていたものが、一度に吹き出して来ることだろう。

 なんとか、切り抜けなければならない。

 全ての条件が整うまで、貴子が支えるより他にないのだから。

 貴子は見鬼だ。

 なまじの陰陽師よりも強い術を操りもする。

 それでも、天孫の血の魅惑を代行することなどできようはずもない。

 貴子の最初の記憶である、空を彩る五色の光。

 貴子はその後何度もその光景を目にしたが、故院を超えるほどの光を目にすることは中々なかった。貴子の産んだ一人目の皇女はそれなりの光に包まれて生まれてきたが、二人目に産んだ今上の光は弱かった。

 そして源氏の君が生まれた。

 

 目もくらむような眩い光。

 世界が生まれてくる生命を喜んでいる。

 貴子は一人、唇を噛んだ。

 どうして、と思う。

 どうしてこの御子がこれほどの力に溢れているのだろう。

 その時、出産のために里に下がっていたのは更衣だ。父は既に亡く、母も権門の出というわけではない。これという後ろ盾を持たない更衣、珠子。

 帝室が帝室足り得るのは、天孫の力ゆえだ。だから天孫の力の強い帝が喜ばれる。

 それは確かにそうなのだけど、それだけというわけでもない。

 人の世のしがらみもまた強い力を持っているのだ。

 もっとも威勢ある貴子の産んだ皇子の力が弱く、後ろ盾のない珠子の生む子に強い力があるとなれば、なによりも帝の心が揺れるだろう。そうすれば朝廷も揺れる。

 せめて皇女であってくれればと祈ったが、生まれたのは皇子だった。

 源氏の母であった珠子に、貴子はあまり強い印象を持たない。わずか持っている印象は、美しい影のような娘、だった。故院が「水面の月」と呼んで寵愛しているということに、妙に納得したものだ。

 故院の後宮は華やかだった。

 女御更衣がひしめくように寵愛を競っていた。故院の添臥をつとめた貴子は、次々と現れる新しい女君に慣れていて、それだけではもうどうとも思わない。珠子の前にも寵姫はいたし、皇女を産んだ更衣もいた。正直に言えばこだわってなどいられない。すでに第一王子を産んでいる、権門出身の女御ゆえの余裕もあった。

 立后こそまだではあっても、貴子こそが故院の正室という空気がすでに存在していたということもある。

 そして他に寵姫と呼ばれる女がいても、帝は必ず貴子のことも召すのだった。実際に貴子の産んだ第三皇女は、第二皇子である源氏の妹に当たる。

 だが、第二皇子を産んだ珠子への故院の寵はやがて常軌を逸しはじめた。

 見鬼というものはどうしてもあやかしに近いところがあるようで、あやかしがそうであるように天孫の力に惹きつけられる。それが帝室を守る貴族たちに見鬼が多く生まれる理由でもあった。

 そして帝は天孫の子孫だが、大抵は同時に見鬼でもある。自身よりも強い力には魅了されずにはいられない。

 故院もまた、我が子である源氏に魅了された。その魅了は源氏の生母である珠子への狂おしいほどの寵愛へと姿を変え、ついには珠子に清涼殿に近い局を賜るために、他の更衣の一人を里に戻すという事態になった。

 これで恨まれないはずはない。

 ただでさえ、あやかしの跳梁する後宮だ。

 天孫の力をもってしても、闇に巣食う影のすべてを祓うことはできず、夜ともなればそこここに影が立つ。

 妬み、嫉み、恨み。

 人の心が抱える暗い部分は、驚くほど容易にあやかしを生む。力のある人間であればあるほどいっそうに。そして影は時に人の生命さえも削る。

 案の定、珠子は病みがちになり、何年も経たずに身罷った。

 恋というのは厄介なものだ。

 恋は必ず執着を生み、執着は人の目を曇らせる。曇って見えていないから、傷つける必要のないものを傷つける。

 そして恋を失えば、時にひどく損なわれる。

 珠子を失った故院もまた、損なわれたのだと思う。

 損なわれて、間違いをおかした。

 故院の叔父である前帝の、内親王を一人、強引に後宮におさめた。

 憎むというなら珠子などよりも、たぶんこの輝子内親王のほうがずっと憎い。

 だって輝子は立后したのだ。

 東宮の御母女御とだけ呼ばれて、長い年月足踏みした貴子をやすやすと追い抜いて。

 結局貴子は我が子の即位の折に、太后として立后した。

 でも、貴子には輝子を憎むこともできなかった。

 力のある者は簡単に誰かを憎んではいけない。

 憎んで、自分の心の手綱を手放せば、憎しみはたちまちあやかしに変じる。力が強ければ強いほど、手強いあやかしを生む。

 それに。

 憎むには輝子はあまりに哀れだった。

 輝子が後宮に迎えられたのは、珠子によく似ていたからだ。実際、彼女をみた女官女房たちは口々に「まるで甦られたような。」などという。

 貴子はそうは思わない。

 輝子はむしろ源氏の君に似ているのだ。

 輝子を、あの珠子の形代にするというのは、日輪を月の形代にするようなものだ。

 案の定、輝子をは幸せそうには見えなかった。輝子が源氏を通わせているらしいと気づいた時、どうにかしてさり気なく後宮を辞させれば、案外その方が幸せになれるのではないかとも思った。

 けれど、故院の考えは違った。


 「それはなりませぬ。あまりに倫に外れましょう。同じ女人を父子が共に寵愛するなど。」

 「なぜ?」

 恐ろしい事に故院には、その何がいけないのかが本当にわかっていないようだった。

 「源氏は臣下に下してしまったけれど、まごうことなく天孫の力を継ぐ我が子。輝子が光の子を産めば、光の血を帝室に戻すことができるではないか。」

 なんという酷いことを考えるのだろう。

 調べてみれば輝子は、決して積極的に源氏に通じているのではなかった。おそらく手寵め同然に関係がはじまったのではないかと貴子は思う。だとすれば、父帝の寵姫の身で、その子に組み敷かれる輝子の心境の修羅は、察してあまりあった。

 輝子もまた見鬼だ。

 そして天孫の裔でもある。

 源氏の強い力に魅入られないわけではなくても、簡単に倫を踏み外すほどに魅了されたとも思えない。

 本当に恐ろしいことに、故院の輝子に対する寵愛はいささかも衰えなかった。

 誰よりも多く輝子は清涼殿に招かれ、そこで夜を過ごした。

 彼女が里下がりがちになったのも、無理のないことだと思う。

 けれど里にいればどうしても、源氏が通ってこようとするようだった。

 哀れだった。

 どこにも安らいで身のおける場所などなかったろう。

 そして輝子は源氏の御子を産んだ。

 よりにもよって男御子を。

 その日空を彩った五色の鮮やかさは、源氏に迫るほどだった。

 故院は狂喜し、輝子の立后を決めた。


 源氏がいなくなった京に雨が降った。

 京中が暗く垂れ込めている。

 密やかなささやきが走るような事もほとんどない。

 まるで無言の抗議を受けているようだと貴子は思う。息をつめ、腫れ物に触るように貴子の気配に耳を澄ませているのがわかる。

 貴子は源氏を憎んでいると、世人は固く信じているようだ。

 別に、それで構わない。

 むしろ望むところだ。

 そう信じている限り、誰も貴子の真意に気づきはしないだろう。

 「東宮につつがなく帝位を踏ませよ。」

 その遺勅を成就させる事だけが、今や貴子の生きる理由だった。

 東宮は輝子の生み参らせた第十皇子。実際には源氏の御子。

 この御子に帝位を踏ませるためだけに、帝は輝子の立后を決めたのだ。貴子の誇りを粉々に砕いてまでも。

 砕かれ、踏みにじられた誇りをかき集め、貴子が自分の最期の仕事と思い定めた遺勅が、結局その東宮の即位のことなのだから笑うしかない。

 それでも、貴子にとって故院の望みは絶対なのだ。

 一番古い記憶に残る、五色の空を見上げたあの日から。

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