第4話 私の幸せ
その日は久しぶりの晴天だった。庭一面に積もった雪が陽光を照り返し、辺りは白というよりも光そのものに包まれているかのようだ。幸いなことに風もない。そのため粉雪が巻き上げられ、視界が遮られることもなかった。
ただしこの輝かしい世界に慣れていないゼイツにとっては、目を開けていることも苦痛だ。だから少しでも照り返しから逃れようと、建物のすぐ傍にたたずんでいた。
同じように眩しさから逃れたいのか、ウルナも壁に寄り添うように立っている。白い世界へ飛び出しているのはクロミオだけだ。
空気は冷たい。ウルナが言うには、よく晴れた朝の方が冷え込むそうだ。寒さに弱いゼイツにとっては拷問にも近かった。
足の訓練のためと思ってクロミオに付き合おうとしたのは間違いだっただろうか? 今になって後悔している。降り注ぐ日差しなど幻であるかのように、体が芯から凍える。
「ゼイツさん、こっちこっちー!」
庭を走り回っていたクロミオが、雪まみれになりながらゼイツの方を振り返った。いつになく楽しそうだ。もこもことした帽子に分厚いコートを着たクロミオは、無邪気に雪の上で飛び跳ねている。
苦笑したゼイツは、隣に立つウルナを横目で見た。いかにも重そうな大きな布を羽織ったウルナは、薄く微笑んだままクロミオを見守っている。
「ここ! ここ! 大きな穴!」
クロミオは雪の上で跳躍しつつ、嬉々としてゼイツを呼ぶ。なかなかの脚力だ。仕方なくゼイツは、ゆっくりクロミオの方へと近づいていった。せめて小走りで行けたらいいのだが、この雪ではそれもままならない。
ジブルには滅多に雪が降らなかったため、どうもまだ慣れなかった。柔らかい雪を踏んでは埋もれて、その度に転びそうになる。
「もうゼイツさん遅いっ」
「悪い悪い」
「ほら、見てよ。これ、僕が昨日飛び降りてできた穴! そのまま凍ってるの! すごいでしょう」
「すごいなあ。ってクロミオ、一体どこから飛び降りたんだ? しかも昨日って……」
「あっ」
クロミオの指さす方には、大きな雪の山があった。そこに、確かにぼっこり人間一人分くらいの穴があいている。どこからどう飛び込んだらこんなものができるのか?
半眼になったゼイツはやや大きめのコートの襟を手で寄せ、クロミオを見下ろした。「しまった」と言わんばかりに口を開けたクロミオは、ついで乾いた笑い声を漏らす。
「えーっと、や、屋根の上」
「屋根って……教会の? ここまで飛んだのか?」
「い、勢いつけたらどこまで行くかなーって」
ゼイツは後方を振り返った。教会の建物からここまで、それなりに距離がある。白い屋根の上にも雪が積もっているし、そこからここへ飛び込むにはかなりの助走が必要そうだった。
もしも雪のあまりないところへ落ちたら、怪我なしにはすまないだろう。無茶をしてくれる。ゼイツはため息を吐くと、柔らかなクロミオの帽子をぽんと叩いた。
「怪我したらどうする気だったんだ」
「し、しないよー。これでも僕、運動できるんだよ!」
「そういう問題じゃあないだろ。しかも、誰もいない時にとか」
この話はウルナまで届いているのだろうか? 近づいてくる気配のないウルナへと、ゼイツは一瞥をくれた。表情が変わらないところを見ると聞こえていないのか。それともいつものことなのか。後者だとしたら大問題だとゼイツは思う。
「ゼ、ゼイツさんは昔そういうことしなかったの?」
「昔? そうだなー。……木から飛び降りたりはしたな。隣の木に飛び移ろうとしたり」
「ほ、ほら!」
「それで足を挫いて怒られたな。食事抜きになった」
クロミオに言われ、ゼイツも子どもの頃を思い出した。無茶の経験がないわけではない。だが滅多に怒らない母が見せたあの形相は、いまだに彼の記憶に残っている。父は相変わらず表情を崩さなかったが、「反省しなさい」とだけ口にした。庇ってはくれなかった。
そうやってゼイツが過去に浸っていると、あからさまに顔を引き攣らせたクロミオが俯くのが見えた。若干青くなっている。
「そ、そうなんだ」
「まあウルナには言わないでおくから、もうするなよ」
なんとなしに罪悪感を覚え、ゼイツはもう一度クロミオの頭を叩いた。こんなことが知れたら、ウルナはさぞ心配するだろう。
するとクロミオは花が咲いたようにぱっと顔を輝かせ、何度も首を縦に振る。わかりやすくて可愛らしい反応だと、ゼイツは微苦笑を浮かべた。
「ありがとう、ゼイツさん。もうしないよ。あ、でも昨日だって一人じゃあなかったんだよ!」
「へえ、誰が一緒だったんだ? ラディアス?」
「違うよ! えーっと、そう、フェマーさん!」
「は? フェマー?」
言い訳するように声を張り上げたクロミオへ、ゼイツは焦って視線を向ける。思いがけない名前に耳を疑った。
ジブルの使者が何故外に出ているのだろう? この庭はルネテーラの部屋の前まで繋がっているはずだ。何かあったらどうする気なのか。
「うん、そう。だってフェマーさんの部屋には、庭に出る扉もついてるよ? フェマーさんはこれだけ雪が積もってるの見るの初めてなんだってさー。面白がってたよ」
何の疑問もなさそうにクロミオはそう続ける。いつの間にかフェマーとも仲良くなっているのか? 他国の者でも意に介さないらしいクロミオの無邪気な笑い声に、ゼイツはどう返答していいのかわからなかった。疑えとゼイツが言うのもおかしな話ではあるし、かといってこのままでいいとも思えない。
救いを求めるよう、ゼイツはウルナへと双眸を向けた。彼女はそれに気づくと不思議そうに首を傾げた。だが彼の唇からはまともな言葉が出てこない。この状況をどう説明すればいいのか? 違和感をどう表現したらいいのか?
彼は曖昧な表情を浮かべ、もう一度クロミオを見やった。怪訝そうに瞳を瞬かせたクロミオは、彼女と同じように頭を傾ける。
「駄目だった?」
「えっと、いや……」
「あ、偉い人だから? 僕が変なこと言ってないか心配してるの? ひどいよゼイツさん! 僕だってそれくらいはわかってるよー。雪の話しかしてないから大丈夫」
ゼイツの反応から勝手に予測を立てたクロミオは、すぐに満面の笑みを浮かべた。ゼイツは頬を引き攣らせながらもどうにか笑顔を作り、耳の後ろを掻く。頭が痛かった。
ウルナの話では、どうもカーパルとフェマーの話し合いはうまくいっていないようだった。フェマーが何を条件として突きつけてきているのかはわからないが、ニーミナにとって受け入れがたいことなのだろう。
そんな状況でフェマーが呑気に雪景色を楽しんでいるとも思えない。取り越し苦労であればと願うばかりだ。
「何かあったの?」
ゼイツたちの様子がおかしいためか、ウルナがゆっくりと近づいてきた。寒空の下、彼女の声が響く。
ゼイツとクロミオはほぼ同時に振り返った。悠然とした歩調でやってくる彼女を見て、クロミオはあからさまに動揺した素振りを見せる。屋根から飛び降りたことがばれると考えているのか。ゼイツはいつもより細めがちな瞳を伏せて、強ばりそうになる口角をどうにか上げた。
「どうかしたの? ゼイツ、クロミオ」
「いや、あのねお姉ちゃんっ」
クロミオは手足をぱたぱたと揺らしている。必死に言い繕おうとしているようだ。ゼイツは一瞬だけ眉根を寄せると、できる限り爽やかな微笑を心がけた。そしてクロミオの帽子を軽く撫でつつ、近寄ってくるウルナと向き合う。
「何か異変でも?」
「いや、クロミオがフェマーと会ったって聞いたから、ウルナは知ってるのかなと思って」
「フェマー? あのジブルの使者と?」
ゼイツが端的に説明すると、ウルナは喫驚して眼を見開いた。やはり把握していなかったらしい。ウルナの右の瞳がクロミオへと向けられた。狼狽えていたクロミオはフェマーの件しか出てこなかったことに安堵したのか、半笑いを浮かべている。
「本当なの? クロミオ」
「あ、えっと、昨日、たまたまっ」
「ひどい天気だったのに庭へ出たの? 外へ行く時はせめて私に伝えなさいと何度も言ったでしょう?」
物憂げに嘆息したウルナは肩を落とした。しょぼくれたクロミオはもごもごと口を動かした後、「ごめんなさい」と囁く。言い訳は口にしない。素直なのがクロミオのいいところだった。
ゼイツは頬を緩め、対照的な様子の二人を交互に見た。肩を落としたウルナは、うなだれたクロミオの帽子を正す。
「次はちゃんと守ってちょうだいね。お願いよ。それで、フェマーさんとは何を話したの?」
「雪の話だけだよ。変なことは言ってないよ」
「そう。他には何も聞かれなかった?」
「他に? ううん、何も。この庭が広いとかそんな話くらいかなー」
ウルナの手が離れると、クロミオは首を捻った。ゼイツは何となく嫌な予感を覚え、顔をしかめる。
あのフェマーのことだ、何気ないやりとりから情報を集めていたとしてもおかしくはない。子どもだって利用しかねなかった。クロミオがフェマーと接触しないように注意を払う必要があるだろう。ゼイツは拳を握り、視線をやや下げた。
「ほとんど天気の話だったよ」
「それならいいんだけど。――ああクロミオ、最近夢の方はどう?」
しばしウルナは考え込んだ後、話題を変えた。クロミオは一瞬きょとりと頭を傾け、それからポンと手を叩く。軽やかな音はすぐに寒空に吸い込まれた。
夢とは例の女神の話だろうかと、ゼイツは先日のことを思い出す。クロミオを慰めてくれているという女神の話だ。
「ああ、女神様のこと? 昨日も会ったよ。何だか僕たちのこと心配してたみたい」
「そう言っていたの?」
「ううん、女神様はほとんど話さないよ。一言、二言くらい。僕の話を聞いてくれるだけなんだ」
クロミオは頭を振った。相変わらず曖昧な話だと、ゼイツは眉根を寄せる。それだけでどうして女神だと思い込めるのだろう? その方がゼイツには不思議だった。
女神の容姿については、実はほとんどわかっていないらしい。断片的に残されている情報を合わせても、白い服を纏った黒髪の女性、ということくらいしか定かではないという。西の棟に残されている像の髪は肩ほどであるため、それくらいの髪の長さではないかと言われているが。
「そうなの……」
「うん、そうなの。辛いのは僕じゃないのに。お姉ちゃんや、たぶん女神様なのに」
クロミオの声がわずかに萎む。思わぬ言葉を口にされたためか、ウルナが右眼を見開くのがゼイツにも見えた。
しばし、沈黙が辺りに満ちた。風もないため本当に静かだ。あらゆる音が全て雪に吸い込まれてしまったかのような錯覚に陥る。
ゼイツが言葉を差し挟めずに黙していると、突然クロミオがぱっと顔を上げた。それからぴょんと一度飛び跳ね、帽子を深く被り直す。
「そうだっ! こんなに晴れてるんだから、雪人形を作らなきゃ! 姫様に見せる約束なんだ。お姉ちゃん、それならいいでしょう!?」
クロミオの行動は素早かった。ゼイツたちの応えを待つことなく駆け出し、右手の吹きだまりへと突撃する。よく跳ねる球のような動きだった。
ゼイツは唖然としつつも、瞳を細めてその姿を見送る。目映い陽光に照らされた世界で、クロミオの背中はやけに色濃く見えた。
「クロミオ」
ぽつりと、ウルナが呟くのがゼイツの耳に届いた。その声音には複雑な感情が滲んでいた。クロミオは単に遊びに夢中になっているわけではないだろう。この空気を壊したかっただけだろう。子どもながら彼は過敏だ。いや、子どもだからと言うべきなのか。ゼイツはため息を吐くのを堪え、歯噛みした。腑の底が重くなる。
「姫様の幸せこそが、私の幸せ。クロミオの幸せこそが、私の幸せ」
ゼイツの横で、ウルナがぼんやりと独りごちるのが聞こえる。呪文のような囁きは儚さを匂わせつつ、しかし以前のような力強さを持ち得ていなかった。先ほどのクロミオの言葉はそれほどまで彼女に衝撃を与えたのか?
ゼイツはどう反応したらいいのかわからず眉をひそめた。彼女の気配がまた薄くなったように感じられ、気持ちが波立つ。
このウルナの危うさを、当のクロミオはどう感じているのだろう? ますます小さくなったクロミオの背中を、ゼイツは目で追った。クロミオもウルナを失うことをひどく恐れていたように思える。残された唯一の家族であることを考えたら、当然とも思えるが。
「――ん?」
その時、後ろから雪を踏みしめる音が聞こえた。恐る恐る柔らかい雪へ足を踏み入れる、慣れない者が奏でる靴音だ。歩調もぎこちなく、一定ではない。ニーミナの人間のものとは思えない。
ゼイツは慌てて肩越しに振り返った。分厚いコートが翻り、彼の太腿を撫でる。音の主はすぐに見つかった。煌びやかな庭の中、高く積まれた雪の向こうから、のそのそと一人の男が顔を出すのが見える。
「フェマー!」
予想通り、それはフェマーだった。一見友好的な笑みをたたえつつ、フェマーは覚束ない足取りで近づいてくる。重たげな白いコートを身につけているため、彼の赤茶色の髪はやけに目立った。
ゼイツはウルナへ一瞥をくれると、フェマーへと向かって一歩進み出る。
「何か用……ですか?」
「これはこれはお二人さん、お揃いで」
よたよたしながらやってきたフェマーは、ゼイツたちから数歩離れたところで立ち止まった。ウルナが一礼するのを視界の端に収め、ゼイツは「はあ」と気のない声を漏らす。
鼻の頭を赤くしたフェマーは目尻をさらに下げた。ゼイツから見ると、何か企んでいるようにしか思えない表情だ。
「今日はいい天気ですね」
いかにも機嫌良さそうという風に微笑んだフェマーは、瞳を細めて空を見上げた。ゼイツもなんとなしに頭上を仰ぐ。フェマーの言う通りに見事な青空だが、ジブルで見たより幾分か薄く思えるのは気のせいだろうか?
ニーミナで色鮮やかな場所は限られている。ルネテーラの部屋と、聖堂だ。あとは無慈悲に茶色い世界が広がっているか、緑が広がっているか、このように白に埋め尽くされているかだった。
全てに共通するのはとにかく温かみを感じないことだ。フェマーもゼイツのように思っているかどうかはわからないが。
「そう、ですね。よく晴れています」
ゼイツは適当に応えながら頭を働かせる。これは偶然なのかそうではないのか。たまたまだとしたら、まさかフェマーは毎日庭へ出ているのだろうか?
何より気になるのは、フェマーが話を立ち聞きしていたのかどうかだ。フェマーが現れた位置を考えると、距離からしてクロミオの声くらいしか聞こえなかったはずだ。しかし疑念は拭いきれない。
ゼイツは空から視線を離すと、再びフェマーへ双眸を向けた。既にフェマーはゼイツたちを見据えていた。怪しげな光がその瞳に見えた気がして、ゼイツは息を呑む。
「そんなに怖い顔をしないでください。私がいてはお邪魔ですか?」
「邪魔って……」
「ほら、お若い二人でしょうから」
くつくつと笑うフェマーに、ゼイツはどう反応してやるのが正解なのかわからなくなった。隣ではウルナも困惑気味な表情を浮かべている。揺さぶりの一種ではあるのだろうが、いい迷惑だ。趣味が悪い。嘆息したゼイツは首の後ろを掻いた。
「そもそも、どうしてあなたがこんな所に?」
仕方がなく、ゼイツは当たり障りのない疑問から口にする。彼が怪訝な顔を向けると、フェマーは楽しげに口角を上げた。それから足先、辺りへと順に視線を巡らせる。厚みのあるコートが重たげな音を立てた。
「もちろん、興味深いからです。これだけの量の雪を見たのは初めてですから。クロミオ君は昨日、晴れたら雪人形を見せてくれると言っていましたしね」
そう説明するフェマーの表情には、確かに好奇心も見て取れた。どうやらクロミオはフェマーとも約束していたらしい。落ち着きなく辺りを眺めるフェマーの様子は、一見すると雪にはしゃぐ若者のようにも思えた。物珍しいというのは嘘ではないのだろう。
確かにジブルでは雪はほとんど降らない。降ったとしてもすぐに溶けてしまう。これだけ積もっているところを見るのはゼイツも初めてのことだった。
しかし、それだけの理由でジブルの使者が浮き足立つなどとは考えにくい。幼く見られるのを嫌がっていたフェマーならなおのことだ。外へ出るのは、それ以外の理由もあるのだろう。
「クロミオったら」
それまで黙っていたウルナが苦笑混じりに呟いた。ゼイツは彼女の横顔をちらりと見て、そこに不安の色を感じ取る。晴れやかな空の下、やや伏せられた黒い瞳には戸惑いの気配があった。
彼女が何を案じているのか彼にはわからないが、よくない兆候だとは思う。彼女の動揺は、様々なところへ影響を与える。
沈黙が生じると、フェマーはゼイツの方を見た。肩口で切り揃えられた赤茶の髪が、冷たい空気を含んで艶やかに揺れる。どこか探るように見えるフェマーの垂れた目を、ゼイツは黙って見返した。フェマーと対峙するのはどうも苦手だ。一方のフェマーは余裕すらうかがえるたおやかさで頭を傾ける。
「それで、クロミオ君は?」
尋ねられたのはこの流れではごく自然なことで。それでも素直には答えたくない気分になりながら、ゼイツは一つ間を置き、振り返った。クロミオが飛び込んだ吹きだまりは陽光を反射して輝いている。
「クロミオならほら、あそこ。雪人形を作るそうだ」
「あんなところに! 眩しくて気がつきませんでした。それではちょうどいい、見せてもらいます」
フェマーはぎこちない足取りでゼイツの方へと近づいてきた。ゼイツはフェマーには目を向けず、しゃがみ込んでいるクロミオの後ろ姿を眺める。こちらの騒動には気づいていないらしい。雪人形に夢中なのだろうか。
フェマーは覚束ない足取りでゼイツの横を通り抜け、クロミオの方へと近づいていく。先ほどの口調や態度が嘘のように頼りない歩き方だ。
小さくなっていくフェマーの背中を、ゼイツは複雑な思いで見守った。二人の接近を止める方法を探したが、いい案は得られなかった。
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