第4話 この国は滅ぶのね

 自覚すればするだけ速度が上がる。古代兵器が見えない距離まで来ると、ゼイツは本格的に駆け出した。固い土を蹴り上げ、無我夢中で前へと進む。少しでも早く戻らなければと、気持ちばかりはやった。

 何度か気が遠くなった。転びそうになった。諦めたくもなった。それでも走り続ければいつかは辿り着くというもので。

 教会の姿がはっきり捉えられるようになったのは、夜も更けた頃だった。空に昇った月の蒼さが、冷え冷えとした空気をいっそう強調しているかのように思える。

 彼の体はとうに限界を超えていた。しかし疲労は感じても、痛みは自覚できなかった。どこかが麻痺してしまったかのように足の重みもない。むしろ軽い高揚感を覚えるくらいだ。

 吹き荒ぶ風が、辺りの草原を撫でる。揺らされた木々の黒い影が、地面の上で不気味な軌跡を描く。その中を彼は駆け続けた。思考はもう正常に働いていない。ただ焦る気持ちだけが胸の内でくすぶり、彼の体を急かしていた。

「どうしようもないな」

 何度目になるかわからない言葉も、きちんと声になっているかどうか怪しい。口の端を上げたゼイツは躓きそうになり、慌てて体勢を立て直した。

 一度転んでしまうと、また走れるかどうかわからない。それどころか二度と起き上がれないかもしれない。注意しなければ。

 そう気を引き締め直した彼の瞳に、ふと何やら異質な影が映った。前方にある丘の上の木、その横にある小さな黒い何かだけが、風に逆らって棒立ちになっている。遠目からでもそれは人の姿のように見えた。瞬きをしても消えない。幻の類でもなさそうだ。

 こんな時間、こんなところに誰がいるのか? 考えながらも足を止めることができず、ゼイツはその人影に向かって真っ直ぐ走っていった。ただの黒い棒のように見えた輪郭が、徐々に鮮明となる。風になびくマントを手で押さえ教会の方を眺める横顔には、ゼイツも見覚えがあった。

「フェマー……?」

 それはジブルの使者フェマーだった。ゼイツの足音に気がついたのか、風に煽られた髪を耳にかけて、フェマーが振り返る。今は闇色にしか見えないフェマーの瞳が、見開かれるのがわかった。

「ゼイツ!?」

 喫驚するフェマーの声が、風に乗りゼイツにも届いた。よほど動揺しているのか、踏み出しかけた一歩も実にぎこちない。風が強い時であれば転んでいてもおかしくなかった。手を離したせいで、押さえつけられていたマントが翻り大きな音を立てる。

「あなた、どうして――!」

 フェマーから数歩離れたところで足を止めたゼイツは、そのことを少しだけ後悔した。どっと疲労が襲いかかり全身が痛みを訴え始める。だが座り込むわけにもいかなかった。

 足の裏に力を込めて、ゼイツはフェマーを見据える。

「一つ、聞きたいことがある」

「どうして戻ってきたんですか!? 姿が見えないという話を耳にして、てっきりもう逃げたのかと」

「聞きたいことがある」

 問いかける自身の声が凍えきっていることに、ゼイツは気づいた。それは怒りを抑えた時の父のものに似ていた。自分にもこのような声が出せるのかと、冷静な部分が妙なところで感心している。フェマーの顔が歪むのが、月明かりの下でもわかった。

「見たのですね」

 突き刺さるようなフェマーの一言に、ゼイツは右の拳を握る。「見た」とは古代兵器のことだろうか。やはりフェマーも知っていたのか。湧き起こる感情に名をつけることができず、ゼイツは瞳をすがめた。

 体中が脈打っている。頭の芯が鈍く重い。肯定する代わりに、ゼイツは乾いた唇を動かした。

「どういうつもりなんだ」

「見たのですね」

 ゼイツが語気強く尋ねても、フェマーはそれには答えず同じ言葉を繰り返す。平行線だ。それでも何を見たのか、ゼイツは口にするつもりはなかった。押さえ込んでいた火が燃え盛ってしまう気がして、声に出す気にならない。

 するとフェマーは諦めたようにゆるゆると首を横に振った。

「どういうもこういうもないです。我々には猶予がない」

 ゼイツが見たと確信したのだろう。だが言い訳するフェマーに悪びれた様子はなかった。それが余計にゼイツの癇に障る。苛立ちが腹の底で温度を上げた。

「証拠もなしに動くほどにか?」

「取り返しのつかないことになる前に、動く必要があるんです。あなたも大人であればわかるでしょう?」

 フェマーの諭すような声に、虫唾が走った。乾ききった喉を、けだるい上体を、重たい脚を、鋭い何かが突き抜けていく。冷え冷えとした感情がゼイツの内側で湧き上がった。自然と口の端がつり上がる。

「大人、ね」

 落ち着けという父の声がどこからか聞こえたような気がした。その通りだと、ゼイツも思う。ここで感情的になるべきではないことは理解していた。こんなところで道を間違えてはいけない。

 しかしそれでも、平静にはなれそうになかった。大体、既に何度も選択を誤っている。今さらその上に妙なものを積み重ねたところで、流れが変わるとも思えなかった。

「そのためなら手順を踏まなくてもいいと?」

 誰に対して、何に対して憤っているのか、ゼイツ自身にも定かではなかった。手段を選んでいる場合ではない時もあるだろうと、理解はしていたつもりだ。どうしようもないことがあることは、わかっていたはずだ。事情があるのかもしれないという可能性を、冷静な部分では認識している。

 それでも納得できない気持ちがあった。腑の底で沸騰する濁った水が、行き場を求めている。

「時間が足りないんです」

 瞳を細め、フェマーはもう一度教会の方を見やる。ゼイツもそれに倣った。月明かりだけが辺りを照らす世界で、白い建物はぼんやりと浮き上がって見える。

 黒く陰る木々の向こうにたたずむその姿は幻想的だ。あそこに女神がいる、と言われたら信じてしまいそうな雰囲気さえ漂わせている。中にいる時は実感がなかったが、確かにあれはニーミナの中心なのだ。

「彼らは私たちを拒絶しました」

 教会を見つめたままフェマーが告げる。緩やかな風に煽られて翻ったマントが、乾いた音を立てた。「拒絶」の意味をゼイツは考えた。ジブルの手をニーミナは拒んだのだろうか? しかし差し出された手に何が握られているのかも、この場合は問題だ。

「我々の提案を拒んだからには、放置するわけにはいきません。このままではまずい」

「それで、攻撃するのか?」

「威嚇は必要なんです。こちらの本気をわかっていただかないと。彼女たちは知らなさすぎる」

 フェマーは大きなため息を吐いた。あれを威嚇と称するのかと、並んでいた古代兵器を頭の中に描き、ゼイツは苦笑を漏らしそうになった。威嚇のためだけにあれだけの物を動かせるのかどうか、子どもにでもわかることだ。

 前時代の遺産を持ち出すなど、戦争でも始めるつもりでなければ不可能だ。

 それは宝であり、研究材料であった。未来へと少しでも繋ぐために、残された数少ない資料だった。各国の研究者たちは、それらを壊さないように調べ、少しでも長持ちするようにと工夫して保存し、その技術の一端を掴もうと必死になっている。

 何もかもを失いかけているこの時代では、過去に縋るしか方法がなかった。このまま放っておけばこの星の人間は滅んでいくだけ。世界と共に緩やかに死に浸かるだけだ。

「そして誰かが死ぬんだな」

 だが、手段を選ばずただ抗えばいいのだと、ゼイツには思えない。研究に失敗したウルナの両親のように。実験に参加した白い鎧の少女のように。古代兵器を動かすようなことになれば、また誰かの命が犠牲となる。それしか道がないのだと言って、見えないところで失われる。過去へ手を伸ばすとはそういう行為だった。

 重たい足で、ゼイツは一歩を踏み出した。かなりの気力を必要としたが、一度動き出してしまえば少しは体が軽くなる。もう一歩前へ進むと、踏まれた草が軋んだような悲鳴を上げた。フェマーの眼が見開かれたのがわかる。

「ちょっと、あなたまさか――」

「俺は教会に戻る」

 力強く宣言すると、今度は心も軽くなった。ゼイツは破顔してゆっくり歩き出す。地の、草の感触を確かめながら慎重に歩を進めると、ひときわ強い風が二人の間を吹き抜けた。傍にある木が騒がしく揺れる。

「彼女たちに知らせる気ですか? そんな馬鹿なことをしてどうするつもりですか!?」

「助けたい奴を助ける。俺にはそれしかできないからな」

「待ちなさいっ」

 横を通り過ぎようとしたゼイツの腕を、フェマーが慌てた様子で掴んだ。見た目にそぐわぬ強い力で引っ張られ、ゼイツはフェマーを見やる。

 蒼い月光のせいなのか、フェマーの顔は幾分か青ざめて見えた。唇もかすかに震えている。

「死んでもらっては困るんです。ニーミナで何が行われていたのか、しっかりと話す義務があなたにはあるんです。それくらいはできるでしょう? 私たちは、どんなに些細なものでも情報を求めている」

「それが俺の仕事だと?」

「そのためにここへ来たのでしょう? 忘れたとは言わせませんよ」

 捨て駒だったゼイツにそこまで言うほど、フェマーは追い詰められているのだろうか? いや、ジブルはと言うべきか。

 一体何が起こっているのか、気にならないわけではなかった。ゼイツの知らないことが、遙か彼方で進んでいる。だが、今はそれよりもウルナたちの方が気にかかる。無事なのかどうか、その方が心配だった。

「忘れてはいないさ。ちゃんと戻る。きっと」

 フェマーの腕を振り払い、ゼイツは強い語調で告げた。そして全力で駆け出した。限界はとうに超えているはずなのに、先ほどまで感じていた疲労が嘘のようだ。

 呆気にとられているだろうフェマーを残して、ゼイツは教会を目指す。ここまでくればあともう少しだった。今まで走ってきた途方もない距離を思えば大したことはない。

「――ゼイツ!」

 後ろでフェマーの叫ぶ声がする。だがゼイツは振り返らなかった。さすがに走って追いかけてくる気はないのか、足音は聞こえてこない。

 となれば、あとは間に合うかどうかだ。もっとも、こんなところにフェマーがまだいることを考えると、威嚇射撃をするにしてももう少し後になるだろう。さすがに使者を巻き込むような馬鹿な真似はするまい。まだ時間はある。

「間に合え」

 念じるように、ゼイツは呟いた。そして奥歯を噛むと、舗装されていないでこぼこの道を踏みしめるようにして走る。ぎりぎりのところで保たれている体は、気を許せば小石にも足を取られそうだった。転んだら終わりなことには変わりない。もう止まってはいけない。

 汗で額に張り付いた金糸を引きちぎりたい衝動と、彼は戦った。全てが鬱陶しくて堪らない。何もかもを投げ出して身軽になりたい。風に揺れている草原に思い切り倒れ込みたい。だがそれでも彼は、前へ前へと進んだ。

 フェマーの必死な言葉を胸中で繰り返す。ジブルは大切な国だ。大事な祖国だ。だがそれでも、ウルナたちを放ってはおけない。矮小な考えしかできないゼイツには、ジブルのためにあらゆるものを犠牲にするなど、そんなことをする自分など許せなかった。

 感情だけが先走って、思考がまとまらない。視界がかすむ。それでも走り続けて気が遠くなりかけた時に、ようやく教会の入り口が目に入った。

 助けを求める人々をいつでも受け入れられるように、西の棟は真夜中でも開かれている。新しく取り付けられたばかりと聞く扉は、今は月光をうっすら反射して鈍く輝いていた。その前へ辿り着くと、彼はゆっくり取っ手を引く。

 誰もいない『本来の教会』を通り抜けて、彼は隠し通路を目指した。奥にある女神像の土台の裏側には、幾つか扉がついている。そのうちの一番小さなものが、奥の棟への入り口だった。

 西の棟にある女神の像は、聖堂にあった物よりも輪郭がはっきりしている。髪の短い女が空を見つめてたたずんでいるような姿だ。だが顔立ちはよくわからないし、ゆったりとした衣服では女とも断定しづらい。ウィスタリアというのが女神を指す名前だと知らなかったら、即答はできなかっただろう。

 彼は隠し通路へ続く階段を下り、曲がりくねった回廊を進み、また階段を上り、奥の棟を目指した。黄ばんだ白い廊下も、夜ともなれば不気味な光を纏っている。明かりはない。けれども薄闇に慣れた夜目のおかげで、速度を落とすことなく進むことができた。足音を立てずに注意深く歩き、彼は奥の棟へと入る。

 ここまで来ればもう大丈夫だ。彼はそのままウルナたちの部屋へと向かった。無論、彼女が戻っていなかったらどうしようという心配はあった。寝ているだろうクロミオに事情を話して伝わるとも思えない。いや、それならラディアスを呼んでもらえばいいか。

 そんなことを考えているうちに、ゼイツは目的の部屋の前へと辿り着いていた。

 深呼吸をしてから、彼は自分の姿を見下ろす。ひどい有様だ。土と風でくたくたになった衣服は、夜でもなければさぞみすぼらしく目に映ることだろう。しかしウルナならば気にしないか。牢から出てきた時の彼を見ても、動揺した素振りもなかった。

「ウルナ」

 まずは小さく呼びかけてから、ゼイツは拳の裏で戸を叩く。そしてしばらく待った。これで反応がなければもう少し大きな声を出さなければならない。

 はやる心を抑えて、彼は固唾を呑んだ。今すぐこの扉を無理やりこじ開けたくなる。こうしている間にも、国境沿いで動きがあるかもしれない。

 返答はない。やはりいないのか。そう思ってもう一度戸を叩こうとした途端、扉は音もなく開いた。宙で止まった拳を一瞥してから、彼はその向こうにいる人影を見やる。

 ウルナだった。明かりのない部屋でたたずんだ彼女は、髪も結っていない。月明かりに照らされた寝間着は、薄ぼんやりと輝いて見えた。乾いた喉をひくつかせて、ゼイツは手を下ろす。

「ウルナ――」

 何が起こっているのか伝えなければならないのに、どうしても声が震える。彼女は首を傾げて微笑むと、一度後方を振り返った。そして安堵したように肩をすくめて、彼の方へと視線を向ける。緩やかに揺れた黒髪が、寝間着の上を滑った。

「よかった、クロミオは起きてないみたい」

 そう告げる彼女の肩を、彼はちらりと盗み見た。包帯が巻かれているのか、そこは少し膨らんでいる。

 彼は軽く目を瞑り、心を落ち着けようとした。どこから話せばいいだろう。何から説明すれば、彼女はわかってくれるのか。焦るばかりで頭がうまく回らない。彼女が何をどこまで知っているのかも、彼はわからないのだ。

「落ち着いて聞いて欲しい」

 絞り出した声の情けなさに、彼は笑い出したくなった。彼女はうっすらと微笑んだまま、首を縦に振る。まるで説明する必要などないと言いたげに、全てわかっているとでも言いたげに、ゆっくりと。慈悲深く。幼い頃に見た母の面影と、その表情は重なった。

「大丈夫よ、ゼイツ」

「――ジブルは、ニーミナを攻撃するつもりだ」

 結局、彼は端的に告げた。表現を選ぶことができなかった。彼女は不思議そうに頭を傾けて、それからまじまじと彼を見上げてくる。子どものような仕草だ。なおさら話を続けにくくなり、彼は唇をきつく引き結んだ。彼女の右の瞳がわずかに揺れる。

「……ジブルが?」

「そう、だ」

「使者が来ていたのは、そのことと関係しているの?」

「おそらく。国境沿いに古代兵器が並んでいた。彼らは本気だ。使者が戻れば、攻撃が開始されるだろう」

 一言一言はっきりと、彼は口にした。そして彼女の応えを待った。彼女は取り乱すどころか納得した様子で、相槌を打っている。何故それを彼が知っているのかと、問いかけてはこなかった。

 彼女は少しだけ視線を下げると、考え込むように頬へ手を当てる。ゆらりと揺れた寝間着の軌跡が、彼の目に焼き付いた。

「じゃあこの国は滅ぶのね。道理だわ」

「え?」

 微睡むように微笑んだ彼女の口からこぼれたのは、予想だにしなかった言葉だった。瞠目した彼は間の抜けた声を漏らす。咄嗟に頭が働かなかった。言っている意味が理解できない。

「ああ、でも姫様とクロミオを守らなくては」

「あの……ウルナ?」

「二人は守らなくては。お願いゼイツ、姫様とクロミオをあなたの国へ連れて行って」

 独り言のようにそう続けた彼女は、切なげに眉根を寄せて懇願した。混乱する中でも聞き捨てならない言葉を拾い上げ、彼は息を詰まらせる。あなたの国という響きが重くのしかかってきた。

「ウルナ」

「ゼイツは他の国の人でしょう? どこでもいいの、二人が生きていけるのなら。二人が無事なら、どこだっていいの。どこでもかまわないのよ」

 微笑を崩さない彼女が、空恐ろしく見える。ここでどう答えるのが正解なのか、彼には判断がつかなかった。何を言っても間違っている気がする。どう返答しても、道を誤る気がする。ひくついた喉の奥を、乾いた唾が落ちていった。

「気にしなくていいのよ、ゼイツ。私があなたを助けたのはこの国を滅ぼしてもらうため。愛しくて憎いこの国をあなたに滅ぼしてもらいたくて。だけどね、どうしても二人だけは助けたいの」

 彼女が一歩、彼の方へと進み出る。雰囲気とは相容れない軽やかな靴音が、部屋や廊下に響く。彼はその場を動けなかった。揺れる髪を、寝間着をぼんやりと見つめつつ、胸中で彼女の言葉を繰り返す。

「お願い」

 彼女がさらに近づいてくる。寝間着の裾が揺れ、彼の足に触れた。彼女の右手がそっと、彼の頬へと伸ばされた。彼はそれを人ごとのように眺めていた。強い光を宿した彼女の右の瞳に、吸い込まれそうな心地になる。

「我が儘だってわかっているわ。だけどお願い、ゼイツ」

 彼女の手が首へと回された。何が起きたのか気がついたのは、目の前が暗くなった時だった。ほんの少し触れるだけの口づけに、一気に彼の体温が上がる。それと同時に、かすみかけていた意識が清明になった。

「駄目だウルナ」

 離れようとする彼女の手を掴み、目前にある瞳を彼は見下ろした。かろうじて発した声はかすれている。冷たい彼女の指先が、ぴくりと震えたのがわかった。だが振り払うことを許さず、彼は眉をひそめて言葉を絞り出す。

「それは無理だウルナ。ジブルがルネテーラ姫を大切に扱うわけがない。俺の国は、そんなに素晴らしい場所じゃあない。うまいこと利用されるだけだ。クロミオだって無事ですむかどうか」

 ゼイツを捨て駒にした国だ。追い詰められているから仕方がないと、証拠を待たずに動き出したような国だ。

 そんなジブルが女神の象徴であるルネテーラを手にしたらどうなるだろうか? あの容姿ではうまく匿おうとしても無理だろう。そもそもゼイツにはその伝手もない。しかも事情を知るフェマーにはすぐに勘づかれてしまうに違いない。

「ゼイツ?」

「それに俺はウルナを置いていけない」

 大体、彼女は二人と言った。つまり、彼女自身は逃げるつもりがない。それでは意味がない。

 奥歯を噛み締め、彼は握った彼女の手首をちらりと見下ろした。このか細い体で、傷を負った体で、何をしようというのか? ニーミナに残ってどうしようというのか? 嫌な予感が、彼の中を渦巻き始める。

「ウルナはどうするつもりなんだ?」

 問いかける言葉が、力無く辺りに響いた。ニーミナの滅びを願っている彼女は、ここで一緒に死ぬつもりなのではないか? 共に落ちていくつもりなのではないか? そんなことをしても、ルネテーラやクロミオは喜ばないだろうに。

「二人を逃がしてここに残って、それでどうするんだ?」

 尋ねる声が震える。ウルナの顔がわずかに歪み、視線が床へと向けられた。答えを促そうとゼイツが手に力を込めると、彼女の唇から痛みを堪えるような呻きが漏れる。

 彼は慌ててその手を離した。と同時に、彼女が動いた。彼を横へ突き飛ばすと、何も言わずに廊下を走り出す。

「ウルナ!?」

 咄嗟のことに、彼は反応できなかった。見た目にそぐわぬ力だった。よろめいて倒れ込みそうになった彼は、慌てて体勢を立て直す。そして薄暗い廊下の壁に手をついた。月明かりに照らされた道を、駆けていく彼女の後ろ姿が見える。

「ウルナ!」

 もう一度名を呼んで、彼もふらつきながら走り出した。今見失っては取り返しのつかないことになる。後悔することになる。何度も限界を超えて悲鳴を上げた体を、彼は再び鞭打った。静かな廊下に二人の乱れた靴音が反響した。

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