第二章
第1話 女神様がいるから(前)
何も起きないがために生じる恐怖に苛まれたのは、ゼイツにとっては初めての経験だった。
ウルナの負傷、少女の死という結果のみを残した実験は明らかに失敗だったが、その事実さえ闇に葬られたように時が流れている。
牢から解放されたゼイツを待っていたのは、退屈そのものと言うべき日常だった。食事はウルナが持ってきてくれるし、誰に何を課されるわけでもない。せいぜいクロミオの相手をするくらいだ。穴掘り作業をする以前の生活が、あっさりと戻ってきていた。
だがその背後で何かが動いていることを、ゼイツは知ってしまった。ウルナがたまに肩をかばう様子を見せているのに気づくと、つい眉根が寄りそうになる。
傷はどの程度癒えたのか。左目はどうなっているのか。カーパルはまた何か計画しているのか。尋ねたいことは山ほどあった。だがそれを表立って口にすることができない。
時折あの時のウルナの顔が、声が、思い出される。「あなたを排除しなければならなくなる」と告げた時の彼女の微笑みが、脳裏に焼き付いている。
彼女の真意がわからない。彼が異端者であることを認識しながら、それでも教会に置こうとしている理由が予測できない。
何かのためではあるのだろう。カーパルに利用されていることを知りながらここにいることを選んでいる彼女は、あえてゼイツを引き入れた。カーパルはそれをわかっていて、ゼイツを引き留めることを許可した。
双方が互いの目的を知りつつも、その真意については隠している。ならば彼もそれに倣えばいいのだろう。彼は彼の目的のために、彼女たちを利用すべきなのだ。
けれども、そう簡単に割り切れるものでもない。くすぶる炎のように少しずつ何かを失いながら、毒を含んだ灰色の煙が彼の思考へと広がっている。ニーミナへと潜入した目的を忘れたわけではないし、そのために最善を尽くすべきだとは思う。しかし、それだけでいいのかとも、彼は考えていた。
「大体、証拠がない」
小さなベッドに突っ伏していたゼイツは、のろのろと顔を上げた。ようやく朝日が昇ったところだ。最近はこれくらいの時間帯に目覚めることが多い。気持ちが高ぶっているせいだろう。
癖のある前髪を手で掻き上げ、彼は顔をしかめた。いくら寝ても疲れが取れる気がしない。起きていても寝ていて、思考がいつも現実に囚われている。夢の中に何度もウルナが出てきた。左目を露わにした彼女が破顔し、そして言うのだ。「お願い」と。
「話せるわけがない」
クロミオにはもちろん何も言っていない。ルネテーラには、そもそもあれから会ってもいない。彼は閉じられた世界で足掻いているだけだった。奥底に渦巻いている思惑に気づきながらも動けず、ただ一人でもがいている。
「でも出てもいけない」
ニーミナは禁忌の力に手を出している。それは確かだ。だがジブルが欲している、確実な証拠がない。彼が見たものを伝える手段がない。それでは目的が果たされたことにはならなかった。「見ました」という一言で国が動くなどあり得ないし、そんなことがあってはならない。
「――証拠」
彼は瞳を細めて、くたびれた毛布へと顔を埋める。
どうしたらウルナを助けられるだろうと考えている自分に、最近彼は気がついた。このまま彼女を放っておくことに罪悪感を抱いていると……。実に馬鹿馬鹿しいとわかっていながら、どうすれば彼女は救われるのかとつい考えている。
「証拠って」
帰るために必要な証拠。ジブルが動くために、必要な証拠。
それを手に入れて、もしジブルが本格的に動き出したならば、ウルナは助かるのだろうか? カーパルの企みを潰すことができるのだろうか? 無論、そう単純な問題でもないことは理解している。
ジブルを含め各国がニーミナをどうするつもりなのか、彼の知るところではない。だが何が起こるにせよ、ニーミナは混乱の渦に巻き込まれるだろう。もちろんこの教会はその中心だ。ここにいる限り逃れる術はない。
「証拠って何だ? ウルナの緑石? それともあの少女が持っていた剣?」
仰向けになると、彼は天井を見上げた。差し込む朝日に照らされて、白い壁は淡く輝いている。黄ばみも薄汚れも全てなかったかのように、この時ばかりは美しかった。
今日は温かくなるだろうかと彼はぼんやりと考える。そろそろクロミオも外に出たがっていた。異常気象を象徴するかのように、連日雪と見紛うような冷たい雨が降り続いている。
「手に入れられるのか? 俺が――」
思考が行ったり来たりする。過去と、現実と、未来と、理想の間を右往左往して、行き着くところを見いだせずにぐるぐる渦巻いている。まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。目的を果たすために命を賭けてやってきたはずなのに、どういうことだろうか。
「手に入れないと、帰れない」
はっきりとしているのはそれだけだった。証拠を掴むことができなければジブルに彼の居場所はない。いや、今はかろうじてあったとしても未来にはない。しかし、それがわかっても進むべき道は見えてこなかった。迷子だ。
「俺は何をやってるんだ……」
泣き言を漏らしたくなる。今こうしている間にも、きっと裏では何かが起こっているのだろう。そう思うと一見しただけの平和が恐ろしくなった。いつ破られるかわからない均衡、その下に隠されているものが気になる。
亡くなった少女のように、人知れず存在を抹消された者がいるのだろうか? 見えないところで誰かが傷つき、疲れ、諦め、うなだれているのではないか?
静寂が怖い。何気なく流れていく、この一見平和な日常が恐ろしい。こうしている間にも、実は様々なものを失っているように思える。
彼は固く目を瞑った。全てを拒絶したかった。ジブルでの生活が懐かしくなり、慣れ親しんだ物へと手を伸ばしたくなる。温かなスープに柔らかいパン。愚痴をこぼせる家族。揺らぐことのない目標と、確実な足場。どれも彼のすぐ傍にあった。無論いいことばかりでもなかったが、それでも見えざる恐怖を意識することはなかった。
だが今、彼の目の前に横たわっている現実は全てが冷たい。底なし沼にただ一人取り残されている彼には、手を伸ばす先もない。もがけばもがくだけ、その分沈んでいくばかりだ。
「くっそ」
彼は右手を掲げた。同時に、左肩が痛んだような気がした。つい懐に隠した拳銃へ触れたくなるのを堪えて、彼はゆっくり深呼吸を繰り返す。
平静でいなくては。焦っては選択を間違える。天井の染みを睨みつけて、彼は長く息を吐き出した。見慣れたその形をじっと見据えて、心を落ち着けようとする。
「ゼイツさーん」
すると次の瞬間、戸を叩く音が聞こえた。扉越しに響いたのはクロミオの声だった。勢いよく上体を起こして、ゼイツはベッドから飛び降りる。こんな時間に尋ねてくるなど驚きだ。拳銃と短剣の位置を確認してから、彼は扉へと向かう。
「クロミオ?」
「あ、ゼイツさん起きてた!」
彼が戸を開けると、クロミオが瞳を輝かせた。両手で籠を抱えたクロミオを見て、ゼイツは眉をひそめる。こんな朝早くに、しかもクロミオが籠を持って現れるというのは初めてのことだった。ウルナに何かあったのだろうか?
「どうしたんだ? クロミオ」
「お姉ちゃんが、お医者さんのところに行ってまだ戻ってきてないんだ。それでラディアスさんが、これを僕のところに届けてくれて」
あらかじめ何を言うか考えていたのだろう。すらすらと出てくる説明に、ゼイツは相槌を打った。聞きたいことはあったが、話を全て聞いてからの方がよいと思い、口を挟まないでおく。籠をぎゅっと抱えたクロミオは少しだけ顔をしかめた。
「僕らの分と、姫様の分だって。ラディアスさん、姫様のところへ行けっていうんだ。僕、あそこに一人で行くのは苦手なんだけどさー」
唇を尖らせたクロミオは、子どもらしからぬため息を吐いた。どうも話の流れからすると、一緒に行って欲しいということらしい。ルネテーラのところにラディアスが行きたがるとも思えないから、クロミオに仕事を押しつけたというところか。
いや、単に『殿方と二人になる』から駄目なのかもしれない。そんなことを考えながらゼイツは口を開いた。
「それで、一緒に行けばいいのか?」
「うん! せっかくだから姫様と一緒に食べようよ。たぶんお姉ちゃんがいなくて姫様も不安だからさ」
クロミオは大きく頷いた。ウルナの怪我のことは聞いていても、どうして怪我したのかはクロミオも知らないはずだ。もちろん、ルネテーラも聞かされてはいない。そうなだけに心配になるのだろう。情報がなくともわかることはある。むしろ中途半端に知らせることは、余計な不安を煽る結果ともなった。
「わかった、準備するから待っててくれ。大体、こんな時間に行ってルネテーラ姫は大丈夫なのか?」
肩をすくめたゼイツは首を傾げた。起きていても支度はまだ済んでいないのではないだろうか。女の身支度は時間がかかると聞く。あのふわふわとした少女であれば、なおさらのように思えた。
「うん、大丈夫だよ。だっていつもお姉ちゃんはこの時間に行ってるもん。姫様は早起きなんだよ」
「そうなのか」
「そうなの。だから僕らも早起きしなきゃならないの。ゼイツさん、早く準備してね!」
籠を掲げたクロミオに、ゼイツは頷いてみせた。一緒に行ってくれるとわかったためか、クロミオの顔は先ほどよりも明るい。
廊下で待つようにと告げ、ゼイツは戸を閉めると急いで準備を始めた。身だしなみは最低限でかまわないが、拳銃と短剣はしっかり仕込んでおかなければならない。使うかどうかの前に、使えるかどうかだ。
簡単に身支度を終わらせたゼイツは、クロミオと一緒にルネテーラの部屋へと向かった。行き方もろくに覚えていないゼイツとは違い、クロミオは慣れた様子で廊下を歩いていた。道を選ぶ様子に躊躇いがない。籠を抱えたゼイツは、パタパタと歩く小さな背をゆったりと追った。
ルネテーラの部屋の扉は、相変わらずの重厚感だった。しかし特に気にした様子もなく、クロミオは手の甲でそれを叩く。
「姫様ー」
間延びした声が廊下に響いた。だが、しつけがなってないなどと叱るような者は、少なくともこの場にはいない。両手で籠を抱えてゼイツは応答を待った。するとしばらくもしないうちに、おもむろに扉が開く。
「おはよう、クロミオ。ってあら、ゼイツも」
「おはようございます姫様! 朝ご飯だよー」
「ああ、クロミオに誘われて。おはよう」
顔をのぞかせたルネテーラは柔らかく微笑んだ。今日は檸檬色のドレスだ。一体、彼女はどれだけの服を持っているのだろう。しかもどれもこんな小国には似つかわしくない鮮やかな物ばかりだ。
彼女に対してどう接する方がいいのか、正直ゼイツはよくわからなかった。不用意な発言がウルナに知られたら大変なことになるというのは理解しているが、敬うべきなのか、距離を置くべきなのか、それとも普通の少女として扱うべきなのか、判断材料がない。
そもそもルネテーラと会うことを許されているのはどんな人間なのか、それすら知らなかった。ルネテーラが口にする名前は限られている。
「まあ、そうなの。クロミオありがとう。さあ二人とも中へどうぞ」
楽しげに笑うと、ルネテーラは部屋へと入った。ゼイツとクロミオもそれに続き、異質な空間へと身を投じる。華やかすぎて目が眩むような場所でも、ルネテーラやクロミオは全く意に介した様子もなかった。住んでいるルネテーラはともかくとして、クロミオもそうだとは意外だ。
椅子が足りないためか、壁際にあったものをクロミオはずるずると引きずってくる。その様をゼイツはぼんやりと見た。これも慣れなのだろうか。クロミオが引っ張っている椅子もその下にある絨毯も、相当高価な物に違いない。
「ほらゼイツさん、早く!」
「あ、ああ」
「せっかくのお茶が冷めちゃうよー」
席に着いたルネテーラに続き、持ってきた椅子へとクロミオも座る。ゼイツは頷くと、抱えていた籠をテーブルの上へと置いた。
「ウルナは今日は来ないの?」
「それがまだ帰ってきてないんだ。姫様ごめんね。そのかわり、今日は僕たちがここにいるから」
「まあ、本当? 嬉しい!」
籠の中からポットを取り出して、ゼイツはお茶の準備をする。その傍でクロミオはパンの入った紙袋を取り出し、用意されていた皿へと並べ始めた。ルネテーラは全く動かない。
だがそれより何よりゼイツが気になったのは、「僕たち」という言葉だった。まさか朝食の後も付き合えということだろうかと、内心でげんなりする。
「でも、ウルナの調子はそんなに悪いのね。心配だわ」
ふとルネテーラの顔が曇った。チーズを皿に盛りつけていたクロミオが、きゅっと眉根を寄せるのが見える。ゼイツは口元に力を入れた。湿度を持った沈黙が部屋に染み入り、それぞれの手の動きを遅くさせる。空気が体に絡みつくような錯覚に陥った。
「お姉ちゃんならきっと大丈夫だよ。カーパル叔母さんもいるし」
かろうじてそう答えたクロミオは、準備を終えると手近なパンへと手を伸ばした。カップを二人に手渡したゼイツは、残っている椅子へと腰掛ける。
あのカーパルが厚意からよくしてくれるとは思えないが、そう簡単にウルナを手放すことはしないだろう。そういう意味では安全なのかもしれない。クロミオがカーパルをどう思っているのかは定かでないが。
「そうね」
ルネテーラは頷いた。けれども彼女の横顔には、依然として陰が落ちていた。ゼイツは二人のやりとりに同意を示すことができない。慰めの言葉を掛けることもできない。
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