第8話 みんな愚かね

 意外なことに、ゼイツがウルナに駆け寄るのを誰も止めはしなかった。近くにいた男たちはカーパルを囲むばかりで、ゼイツに何かしようとはしない。奥にいる者たちは少女を取り押さえるのに必死になっているようだった。

 それをいいことに、ゼイツはウルナのもとへと駆けつける。彼に蹴飛ばされた小石が幾つか、男たちの足に当たって跳ね返った。

「ウルナっ」

 名を呼ぶ声はかすれている。ゼイツはウルナの横で片膝をつくと、左肩に触らぬように慎重に抱き起こした。先ほどまでそこに刺さっていたはずの短剣は、今は彼の足下に転がっている。

 間近で見る彼女の左の瞳は、まだかすかに薄緑色の光を纏っていた。顔に血の気はない。薄く開かれた唇からは、荒い息がこぼれている。痛みを堪えるように眉をひそめる彼女を見ると、これが現実のものだと実感できた。か細い体はかすかに震えている。

「ウルナ」

 ゼイツはもう一度呼びかける。が、返事はない。代わりに聞こえたのは呻く声だった。早く止血しないと大変なことになると、彼は歯を食いしばり顔を上げる。と同時に、カーパルの姿が目に入った。

 彼女は二人をじっと眺めていた。実に冷ややかな双眸だった。叔母と言っていただけのことはあり、顔立ちはウルナと似ている。しかしその黒い瞳に宿るものが全く違っていた。

「よくも実験を邪魔してくれたわね」

 冷淡な声が、ゼイツへと降りかかる。何のことかわからず、彼は顔をしかめた。実験は既に終わっていたのではないか? 失敗していたのではないか? 彼が飛び出した時には、もう全てが終わろうとしていた。邪魔などと言われる心当たりがなかった。けれどもカーパルの声には明らかに憎しみが込められている。

「俺は……」

「もう少しだったというのに」

 忌々しげに吐き捨てられた言葉が、ゼイツの奥へと突き刺さる。咄嗟に声を荒げて反発しそうになったが、彼はすんでのところで堪えた。

 立場をわきまえろ、道を間違えてはいけないと、自らに言い聞かせる。既に取り返しのつかない所まで来ている気もするが、あえてそのことは意識の外へと追い出した。

「な、何がもう少しなんだよ」

 腕の中のウルナが、わずかに身じろぎをした。痛むのだろうか? 傷の深さは見た限りではよくわからなかった。だが薄紫の衣を染めていく血があまりに鮮やかで、恐ろしいほど目映い。彼女がこのまま目覚めなければどうなるのかなど、考えたくなかった。

 ゼイツが手に力を込めると、カーパルは舌打ちして瞳を細める。

「石が輝きを増したのがわからなかったの? この子の心が揺れた絶好の機会だったというのに。なんてことをしてくれたの」

 カーパルは大きなため息を吐いた。その言葉の意味が、ゼイツにはわからなかった。ウルナの左の瞳は、今はただの黒い石と化している。先ほどのような薄緑色の光はもうない。カーパルが言うように輝きが増したかどうか、彼の記憶にはなかった。だが今の発言でわかったことがある。カーパルは姪の安否など気にしていない。

 不意に遠くから、誰かの悲鳴が聞こえた。ゼイツもカーパルも傍にいる男たちも、一斉にその方を見た。奇怪な鎧を纏った少女がいる方向だ。人々に囲まれているため何が起こっているのかわからないが、動揺が広がっていることは見て取れる。

「倒れたようね」

 何の感慨もなさそうにカーパルが呟いた。倒れたとはあの鎧の少女のことだろうか? あんな物を見せられたら、気を失ったとしても仕方がない。先ほどの光景を思い出してゼイツは顔を歪めた。

 何のためにこんなことをしているのか? ここでそれを知らないのは、おそらく彼だけなのだろう。腹の底に堪った鬱屈とした感情が、熱せられたように音を立てている。

「カーパル様」

 少女を取り囲んでいた女性の一人が、こちらへと振り向いた。彼女はやや顔を青ざめさせて、胸元で手を組んでいる。年はカーパルとそう変わらないくらいだろうか。そのひび割れた唇が、震えそうな声を紡いだ。

「息をしていません。おそらく……」

「ああ、絶命したのね」

 だが交わされた言葉は、ゼイツが予想したものより遙かに重かった。耳を疑った彼は、小さく呻いたウルナをさらに胸元へと抱き寄せる。

 一瞬、理解するのを頭が拒んだ。目眩がした。叫び出したくなった。どうして誰も声を上げないのか、問いただしたい衝動に駆られる。

「あの鎧は、私たちには重いのね。堪えられる者はいないのかしら」

 愁いを帯びた横顔で、カーパルは独りごちる。しかし罪悪感といった類の感情を、全く抱いてなさそうだった。冷たい言葉に激高しそうになるのをどうにか堪えて、ゼイツは奥歯を噛む。

 人が死んでも平然としているその精神が理解できない。これは一体何のための研究なのか。誰も疑問に思わないのか。まさか、同じようにウルナも切り捨てるつもりなのか。

『また人が死んだのね。ウィスタリア様のために』

 以前に聞いたウルナの言葉が彼の脳裏に蘇った。彼女は一体、何度このような光景を見てきたのだろう? 今ならば、あの時の彼女の気持ちがわかる気がした。きっと彼女はこのような実験を思い描いていたに違いない。

「仕方がないわ。さて、ではこの邪魔者をどうしましょうか」

 そこで再びカーパルはゼイツの方を見下ろした。人間を見る目ではなかった。彼はようやく、この身に降りかかった危機を自覚する。

 こんな実験を平気で行う者が、得体の知れない男――ゼイツを丁寧に扱うとは考えにくい。尋問するのか? 殺すつもりか? ここから逃げ出すことは可能だろうか? だが今、ウルナをこの場に放り出すことはできそうになかった。彼の手がそれを許してはくれない。

「殺しますか?」

「いいえ、今すぐそうするには惜しいわね。この男でしょう? ウルナが引き入れたのは」

「おそらく」

「ではとりあえず牢にでも入れておきましょう。次の段取りを決めるのに時間は必要だわ。ここで早まってはいけないものよ」

 カーパルと男たちの会話が遠かった。恐怖よりも嫌悪の方が先に湧き起こる。耳鳴りの向こうで繰り広げられる話を、ゼイツはどこか他人事のように聞いていた。少なくともすぐに殺されることはないだろうとわかっただけが幸いか。だがその先の保障はない。

「みんな、みんな愚かね」

 肩をすくめたカーパルを、彼はねめ上げた。全てを諦めることだけはしないと、密かに心に誓った。




 無表情な男によってゼイツが連れて行かれたのは、寒々とした地下牢だった。逃げないようにと手は縛られたが、目隠しはされなかった。ずいぶんと不用心だ。

 牢は地下にある広間から巨大な穴へと続く道、それとは逆方向に伸びる細い通路の先にあった。ほとんど光の入らない、冷たい石で固められた部屋だ。鼻の奥にこびりつくような不快な臭いが、湿った空気に染み込んでいる。

 牢は幾つかあるようだが、彼が入れられたもの以外は使われていない様子だった。扉が閉まると薄暗さが増す。金属の格子がはめ込まれた窓から、明かりが漏れているくらいだ。冷たい床の上に敷かれている布を見つけて、彼は座り込む。

 ほどなくすると、鍵をかけた男の気配も遠ざかった。見張りもつけないらしい。牢へと閉じ込める前に身体検査さえしなかったことを考えると、どうもニーミナの人間というのは危機管理意識が乏しそうだった。

 もっとも、短剣や拳銃程度の武器でこの石壁をどうにかできるとも思えない。よほどの古代兵器を持ち出さなければ無理だろう。そういう余裕が、彼らにはあるのかもしれない。そんな『時代の遺品』を隠し持つことはまず不可能だ。

「はあ」

 ゼイツはため息を吐く。冷え冷えとした空気に体温が奪われていく。一体、これからどうなるのか。考えるだけで気が重くなった。

 しかしいつまでも沈んでいては何も始まらない。彼は胸の前で縛られた手首を見下ろし、まずはこれをはずす作業から始めることにした。幸いにもそれほどきつくない。おそらく、牢へ入れるまでの一時しのぎだったからだろう。彼は体を捻ると、隠した短剣をどうにかして取り出そうと足掻いた。

 苦戦しながら、彼は脳裏に先ほどの光景を思い描いた。奇怪な鎧と、少女が手にした歪な短剣。そしてウルナの左の瞳。あれらは一体何なのか? 噂のことを考えると、それらは禁忌の力に関係する物ということになる。では禁忌の力とは何なのだろうか?

『この子の心が揺れた絶好の機会だったというのに』

 カーパルはそう言った。ウルナの心が揺れた時に、あの石は輝くのだろうか? だがそれがどう禁忌の力と関わっているのか? いくら頭を捻ってみても答えは得られそうにない。推測が予測を生み、空論を打ち立てるだけだ。

「……っと」

 服の内側から、ようやく短剣が床へと滑り落ちた。膝で柄を押さえて鞘を抜き取ると、彼は刃で手首の縄を切り始める。父からもらった自慢の短剣だ。いとも容易く縄は千切れた。

 手の自由を得た彼は、ほっと安堵の息を吐く。見張りの者がいないため、音を気にする必要がなかったのが幸いだった。短剣を鞘へ収めると、彼はまたそれを懐へ仕舞い込む。

 床や壁だけでなく空気も冷え切っている。日も風も一切入らないため、臭いも濁りも全てがうっ滞しているかのようだった。深い呼吸を繰り返しても頭がぼんやりするだけで、楽にならない。再びぼろ布の上に座り込んだ彼は、壁に背を預けて天井を見上げた。左肩が、不意に痛む。

 薄緑の光を帯びた『黒い瞳』を、彼はまた思い描く。倒れた彼女のか細さを思い出す。あれからどうなったのだろうか? 無事に医者にかかれたのだろうか? いつもあのような目に遭っているとは思わないが、危険と隣り合わせではあったのだろう。彼女は一体どれだけの数、ああいった実験に立ち会っていたのか。

 固く目を瞑ると、瞼の裏に彼女の顔が映る。カーパルへと苦言を呈した時の、無表情のように見えて何かを押し隠したような、あの表情が浮かび上がった。胸の奥に突き刺さるこの感情は何だろうか。息苦しさを覚えて、彼は胸元で拳を握った。喉の奥がチリチリと痛む。

 不意に、遠くから反響する足音が聞こえてきた。眼を見開いた彼は、慌てて手首を合わせおとなしい囚人を装う。足の間に腕を置き、背を扉の方へ向けると、肩を落として床を見つめた。靴音は一定の調子で近づいてきている。先ほどの男が様子を見に来たのだろうか?

「ゼイツ」

 無造作にかけられた声は、見知ったものだった。思わず振り返ったゼイツは、格子越しにたたずむ男を見上げる。ラディアスだ。顔をしかめたラディアスは左手に明かりを持っているらしかった。薄暗い牢の中に、赤みを帯びた暖かな光が差し込む。

「ラディアス……」

「思ったよりも元気そうだな、よかった」

 安否を気に掛ける言葉に、ゼイツは瞳を瞬かせた。そう来るとは予想しなかった。うまく反応できずに絶句していると、ラディアスは通路の向こうへと一瞥をくれる。誰も来ないことを確かめているようだ。幸いにも、他の者が近づいてくる気配は感じない。

「ゼイツ、礼を言う」

 再び牢屋の中を見下ろしたラディアスは、表情を変えぬままそう言った。これも想像していなかった発言で、ゼイツは瞠目する。「お前が、どうしてそれを?」という言葉が、もう少しで飛び出すところだった。

 乾いた唾を飲み込んで、ゼイツはラディアスの方へと向き直る。ここはぶしつけな疑問ではなく、無難な問いかけを選ばなければ。

「礼?」

「ウルナを助けてくれたのだろう? お前が飛び出さなければ、ウルナは死んでいたかもしれない」

 淡々としているが、ラディアスの口調には安堵が滲んでいた。どうやらウルナは無事だったようだと、ゼイツも内心ほっとする。

 彼女にはまだ何も聞いていない。あれが一体何だったのか、あそこで何をしていたのか。彼女にはどんな役割があるのか。そして何故彼を助けたのか。カーパルはあの時確かに「ウルナが引き入れた」と言った。少なくともウルナには意図があったに違いない。

「心配するな」

 ゼイツが黙しているのをどう解釈したのだろうか? ラディアスはそう続けると、明かりを持っていない方の手を掲げた。そこには小さな袋があった。ゼイツが首を傾げると、もう一度周囲を確認したラディアスは、それを格子の隙間から投げ入れてくる。慌てて手を伸ばしたゼイツは、どうにかそれを受け取った。

「これは?」

「食料だ。水はあいつらが持ってくると思うが、さすがに食料はないだろうからな。それで飢えをしのいでおけ」

 麻の袋だった。こわごわ中を覗くと、乾いたパンが数切れ入っているのが見えた。牢の濁った臭いの中でも、ウルナが焼いてくれたパンの香りがする。一日飲み食いせずに潜んでいた後なだけに、急速にお腹が刺激された。喉を鳴らしたゼイツは、袋の口を閉めると顔を上げる。

「ラディアス……」

「大丈夫だ。ウルナとルネテーラ姫がいるから、お前は殺されない」

 ラディアスが笑ったように見えた。少なくとも今まで見たどの表情よりも、それは柔らかかった。

 それほどまでに先ほどのゼイツの行動は評価されたのだろうか? 困惑を抱えたまま首を縦に振り、ゼイツはその言葉を胸中で繰り返す。想定していたよりも実はとんでもない場所に飛び込んでいたのではないかと、今さらながらに思う。

「そのうち解放されるだろう。それまでは辛抱しろ」

 伝えたいのはそれだけだと言わんばかりに、ラディアスは背を向けた。慌てたゼイツは袋を床に放り投げると、扉へ詰め寄る。

 格子の窓から顔だけ出すと、揺らぐ明かりに照らされたラディアスの横顔が見えた。歩き出していたラディアスが、うろんげな視線をゼイツへと向ける。

「何だ?」

「どうしてそれを俺に伝えるんだ?」

「ウルナがお前を捨てるつもりがなさそうだからだ。別にお前を信用しているわけじゃあない。馬鹿正直に育ってないものでな、悪い」

 捨て台詞のように放たれた言葉は、ゼイツの耳へと強く残った。遠ざかっていく硬い靴音を聞きながら、彼はずるずるとその場に座り込む。湿った床から染み込む冷たさ、温度を失っていく心に、震えが走った。

「どうなってるんだ……」

 誰が何を知っているのか。どこまで把握しているのか。わからない。誰が誰の味方で、誰の敵なのだろう。見知らぬ海にでも投げ出された心地で、不安を通り越して混乱する。

 懐に隠していた拳銃へと無意識に手が伸びていたことに気がつき、ゼイツは頭を振った。そして背を丸めると、放ってしまった麻の袋の方を振り返る。

「ここで一体、何が起こってるんだ?」

 口の中だけでぼやいた言葉に、答えてくれる者など無論いなかった。宙へと投げた問いかけは、いつものように物言わぬ空気へ溶け込んでいくだけだった。

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