フランツとヴィルヘルム-3

「でも、実際それが合ってたんだしいいだろうが」

「……ヴィルにとっては良くないと思うけど。ていうか、何で殺されるかもしれないってときにそんなダラッとしてんの?」


 自分と口論になる度、過去の傷を抉られる度、激情を隠そうともせずにいた元軍人が、何故ここまで平静を保っていられるのだろう。男は小首を傾げる。

 疑いの目を向けると、ヴィルヘルムが少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「何か、今ならそれもいいかもしれねえなって」


 それもいい、と意味深な言葉を吐いたヴィルヘルムに、男は訝しげに眉を顰めた。

 何を言いたいのかが、よく解らない。ああ、もしかして、彼が自分と話すときはいつもこういう感覚だったのかな。何て、どうでもいいことが、男の思考を掠める。


「拾われたときから感じていた癖に逃げなかったのも、お前の手を取ったのも、多分これだよ」


 ヴィルヘルムの双眸は、もう男を見てはいなかった。

 過ぎ去った過去を偲ぶように、殺人鬼の姿も曇天も、煤けた雲と殆ど同化したビル群も、細まった瞳には留まらない。


「……俺は死にたかったんだろう。だから、確実に俺を殺してくれるお前の手を取ったんだろう。だから、なんだろうな、今ならお前に殺されてもいいと思ってる」


 穏やかな、それこそ男が今まで聞いたこともないような声音でヴィルヘルムが語る。

 だろう、と。自らの死も、不確定の死も、全てが憶測で紡がれたものだったが、自分を見返す彼の目に嘘の色はなかった。


「……ヴィルは本当にいいね。良すぎて嫌になる。何で、そんな不確かにものが言えるんだよ」

「だから、さっき言ったろ。俺は死にたいんだよ。こうすることでお前を苛立たせてこの首を切り落とさせる為の作戦」

「馬鹿げている」


 男が忌々しげに舌打ちして否定すると、ヴィルヘルムは心底面白そうに笑った。

 馬鹿げている事には気付いているのか。その笑みから感じ取って、男は諦めたように肩を落とす。


「……それで、殺さないのか?」


 単純な問いだった。肯定か否定か、どちらにせよ言うことは容易い。


「…………取り敢えず、この絵描き終わってからでいい? もうすぐ描き終わるし」


 それなのに、どちらでもない返答で先延ばしにしてしまったのは、何故か。

 ヴィルヘルムの顔を見ていられなくて、男はふい、と首の向きごと目を逸らした。

 逃げるように再びキャンバスに色を重ねて、片手に持ったパレットに乗った絵の具を取る。

 もうすぐここから見える景色は描き終わる。

 そうなったらもう一つキャンバスを取り出して、準備をしよう。

 自分が今まで一度も手を出さなかったやり方で、準備をしよう。

 彼を殺さない理由はない。生きてほしい理由はあるが、殺す理由がある。だから、延ばしたところで男の答えは決まっていた。

 自らの決意に、ぞく、と背筋に寒気が走る。それが歓喜か恐怖か男は知らない。


「俺の気が変わるかもしれねえぞ?」

「それでもいいよ。どうせいつかは殺すんだし。殺さないと俺、ヴィルを絵にできる自信がない」

「今まで描いた絵も、殺した奴等が題材か?」

「そうだよ。言っただろ、俺にとっては万物が静物で描くモノでしかない。それでいて、俺は静物を殺さなきゃ絵が描けないっていうクソ矛盾した体質なんだ」

「そりゃあお気の毒にな」

「本当だよ。せめて殺さなくても絵が描ける人間だったら、わざわざ疲れるような事しなくて済んだのに」

「だったらやめれば良かっただろ」

「嫌だね、俺は絵を描きたかった。でも俺は絵を描く為には人を殺さなきゃいけなかった。

 それで俺は自分の為に見ず知らずの誰かの未来を摘み取る事を選んだから、正真正銘、最低最悪の利己主義者でシリアルキラーなんだよね」


 ヴィルヘルムを拾って、ここまで長々と話したことはあっただろうか。そう思える程、男は饒舌に自らの事を聞かせていた。

 彼はただ相槌を打つか、時折短い意見を口にするだけだ。それが酷く心地よかったが、耽溺しないようにと自分自身に忠告する。

 どうせ彼は死ぬ。殺される。誰に? 自分に。

 今更この心地良さに浸るのは、危険だった。


「――一つ、聞いていいか?」


 ヴィルヘルムが、今思い出したとでも言うように声を上げた。

 いいよ、と返すと、一呼吸ほどの間が空いてからヴィルヘルムが疑問を吐く。


「お前は何で、俺を選んだ?」

「…………初めて会ったとき、かな」


 何故ヴィルヘルムに手を伸ばしたかといえば、初めて会ったときだ。路地裏で酔って転がっている彼を見たときだ。

 片手に中身のなくなった酒瓶を持って、身に纏った衣服が汚れる事も厭わず地べたに寝転がって。軍人としてのプライドなどどこへやら、ひたすら無気力に死を待つ、殆ど死人と変わらぬその姿。

 その出で立ちに、男は自らが描くべき題材にようやく出会えたと感じた。だから、そのまま野垂れ死にそうなヴィルヘルムに手を差し伸べた。


「でも何でそんな事訊くの?」

「いや、理由が分からないままじゃ死んでも死にきれねえと」


 あっさりと答えられ、男は思わず苦笑する。


「ヴィル、もしここで俺がヴィルを殺さないって言い出したらどうする?」


 ほんのからかいだった。そんなことは有り得ない。

 たとえばの話だ。死にたがりの彼が、自分という“救い”をなくしてどうするのかが知りたかった。

 ヴィルヘルムは「あ?」と間の抜けた声を上げ、数秒ほど考え込んでから片手を懐に忍ばせた。

 する、と抜かれた手が掴んでいたのは、鉄の塊。持ち手があり、細長い筒状の部品が伸びている、命を奪う鉄塊。

 少しばかり旧式ではあるが、整備さえしっかりとされていればまだ十分使える拳銃だった。

 恐らく軍人時代に使用していたのだろうそれを、ヴィルヘルムはすっと持ち上げた。

 向かう先は、自分の頭部。


「だったらまあ、俺が自分で死ぬだけだな」


 銃口を自らの頭に当てて、ヴィルヘルムは何のことでもないように言った。


「……そんなもの、よく今まで持ってたね。しかもちゃんと手入れされてるし。お前いつコソコソやってた訳?」

「そりゃあお前……お前が寝てるときとかにな」

「すごいね。俺眠り浅いし短いのに」

「いつ起きてくるかと思うと気が気じゃなかった」


 はは、と笑いながら頭から銃を離し、ヴィルヘルムは肩を竦める。

 銃器の手入れは慣れていたし、暗闇でも一分と経たずに分解し組み立て直せるくらいの自信はまだあった。

 それでも、見つかったら“面白そうだし頂戴よ、銃口から血糊突っ込んで絵描いてみたいから”みたいな事を言われて奪われそうだったから、整備にはかなり気を遣っていたものだ。

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