みずうみの民

勒野 宇流 (ろくの うる)

第1章 水帝の三姉妹(1)


 珍しく、風がなかった。

 

 岩と赤土が支配する荒漠とした地には、風と砂塵が常としてある。しかしこの日、空気に揺れはなく、天には紺味にも近い青空が広がっていた。

 

 湖面は張り詰めた布のように、波立ち一つない。ゆっくりと足を踏み出せば、歩けるかのような澄んだ水。

 

 稜線と青空が、ゆがみ一つなくみずうみに映しだされていた。ナ・ミユは岸に立ち、じっと見つめていた。

 

 わずかばかりの白い砂利、そして長年の風によって地面に抑えつけられた潅木。そこに立ち、静止した水面を見続けていた。

 

 ナ・ミユは波のない水面が好きだった。それは滅多にないことで、天候が穏やかなことを従者に知らされた彼女は、父の許しを得、みずうみに来たのだった。

 

 ミユはその大きな瞳を通して、自身の体の、内面までもが澄んでいく感覚を味わう。胸の前で手を組み、硝子のようなみずうみの表面を見る。すると、体内の整然化を感じるのだ。体を構成する、目に見ることのない小ささの、数えることのできない夥しい数の、細かな胞。それらが整のっていく。ささくれ立つ胞ははがれ、裏返された胞は元に戻り、きちんと列を作り、この湖面と同じように、なんら起伏のないなめらかなものになる。その感じを味わうことが、ナ・ミユは好きだった。

 

 ミユはじっと佇む。どうして澄んだ水は、こうも気持ちを落ち着かせるのだろう。その不思議さまでもが、ミユは好きだった。見続けていても飽きない。こんな日がもっと数多くあればいいのに。心底思う。


 実際、風のない日は少ない。風の大地とまで揶揄される広漠な地のこと、みずうみはその上面を通る風によって、絶えず波立つ。揺れ動く水は黒味がかり、水面に景色や空が映し出されることはない。さらに風が強まれば、岸に立つ者に飛沫を降らせる。やさしくない。いや、ときには怖いとすら感じる。そんな湖面のときは、気持ちまでもがざわざわと波立つ。岸にいれば水に呑まれる危険などないはずなのに、水に吸い込まれるような気になる。わき上がる怖れは、抽象的なものだった。

 

 また静まったみずうみでも、時期によっては必ずしも美しくない。日の出ずる方角にそびえるカッソー山の赤土は、みずうみを汚す。その方角が雨季となる間は、流れ出す土でみずうみが赤く濁ってしまう。

 

 いくどきの間、見ていたのか分からない。このまま風が吹かず、水面が静まっているのであれば、ずっと立ち続けていたかった。

 

 ナ・タシとナ・サアが歩いて来た。二人は、微笑み合いながら、静かに、そしてゆっくりと向かってくる。ときおり薄く、声がもれる。それでも、水面に意識がいっていたミユは気付かなかった。

 

 二人の姉が真後ろまで来て、ようやく気付いた。ハッと振り向いたときには、手の届くところにいた。戸惑うミユに、タシとサアは微笑んで頷いた。そしてミユに並んで、みずうみに目を向けた。

 

 ナ・ミユも再びみずうみを見た。同じみずうみだが、先ほどよりも温かい気持ちが体を包んだ。タシもサアも、ミユほどには凪いだ水に関心を寄せない。ここに着き、ミユが心おきなく浸れるよう、しばらく歩いていってくれていたのだ。戻った彼女たちは、まだミユが見飽きていないことを感じ取って、その気持ちを乱さないよう、並んで水面を見つめることにしたのだ。その二人の気遣いが、ミユの心をほんのりと温めた。


 遠くで水面が揺れた。一点、水が盛り上がり、その地点から楕円状に、波紋が広がっていく。 


 タバスケスが浮かび上がってきたのだ。その切っ先鋭い背びれが静止した水面を切り裂き、岸に到達するほどの波を作った。タバスケスを見たナ・サアは気持ちが昂ぶり、両の手のひらを口元に充て、低く呻いた。それを横に見たナ・タシがそっと肩に手を添える。

 

 気配に敏感なタバスケスは、岸辺に誰かが立てば姿を見せない。しかしみずうみの民の、わずかの者だけは別だった。その選ばれた数名にだけは、みずうみの王者は姿を晒した。遥か太古より水と寄り添って暮らしてきた、みずうみの園の民。その中には、水に関する特殊な能力が備わっている者がある。他の園の者には、けっして身に付かない真技だった。

 

 水面が静止しているという状況がやぶられた。しかしその原因となったタバスケスに、ナ・ミユはなんら、憤りの気持ちを持たない。みずうみは、彼らこそ自由気ままに過ごすことのできる場所なのだ。ここ、水の中は、そこで暮らす生物のものなのだ。彼らこそが水の主で、水に対していかなる行動をしようとも、咎めることなどできない。むしろ地に立つ者が咎める心を持つことの方が、おこがましいことだ。それがミユの常からの考えで、静寂を壊したことになんの思いも抱かなかった。

 

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