26 ふたつのせかい
晶がINしない事を知った智之は、久々に早い時間からバーチャル機械に身体を預けようとしていた。
いけない事だとは解かっていた。晶との約束を破る行為だった。それでも智之はキャラクターの選択画面を前にずっと迷いの中だ。目の前に映っているのは、アキラ。
アキラでINすることは出来ない。晶と約束をしている、絶対に使わないで欲しいという彼女の願いも至極当然だと解かっている。悲しいくらいに、それは承知していたのだけれど、どうしても確かめたい事があった。トウヤというキャラクターを操る人物に会っておきたかった。恋敵に。
もう充分に感じ取っている。当の本人である晶以上に、晶の本当の心が解かるつもりだ。彼女はトウヤに恋をしているのだろう、胸が張り裂けるような苦しみが襲ってきて、ガマガエルのように顔を歪めた自身がモニターに映りこむ。
この自分の顔が、あのトウヤの顔であったなら、きっと人生が違っていたのだ。卑屈なこの性格すら、今とは違う形だっただろう。涙が湧き上がって、映りこんだ自身の顔がさらに醜く歪んで見えた。会ってどうしようと考えたわけではないが、会わずに居続けることはこの上ない苦痛になると、そう思った。指先は、ずっとOKを示すボタンの上にカーソルを置いたまま止まっている。これをクリックして、あとはリクライニングに背を預けるだけだ。それだけで、もう後戻りは出来ない。
バーチャルの世界とリアルの世界の、二つの世界を人々は生きるようになっていた。人間は矛盾を基礎に抱えた生き物だ。真の平等な世の中を求めていても、実際に平等な世界が訪れたなら、そこから逃げ出さずにはいられないだろう。常に見下せる相手を視野の片隅に置かねば安心出来ないし、見上げた先に目標とする相手がなくては、やる気すら起こせない。そのくせ、格差がはっきりと見て取れることは不快に感じる。
リアル社会の確固たる位置付けと、バーチャル世界のあやふやな虚構。バーチャルは全てが嘘であり、信用が置けないものであり、一抹の夢であり、幻想である。二つの世界をその特性に応じて使い分ければ良いだけなのに、実際にはバーチャル世界にリアルの物差しを持ち込んだり、リアルにバーチャルのあやふやさを求めたりする。バーチャルの世界で成功すればリアルでの成功が欲しくなり、リアルで成功すればバーチャルでの栄誉が欲しくなる。リアルの格差をバーチャルにも求める。二つの世界を完全に別と意識しつつ、二つの世界で同等の価値を求める。
バーチャルの発達でリアルの社会が荒廃すると予言した識者の説は、完全に外れてしまっていた。実際にバーチャルが現実に近い形になっても、その世界が嘘で虚構で幻想であることには変わりないからだ。人々の意識が、バーチャルをバーチャルと認識する以上リアルに取って代わる要素はない。人は心の奥底に厳然とした格差を求めているから、格差を保障するリアルという絶対基準からは抜けられなかった。
「トウヤたんだって、リアルじゃ僕みたいなキモオタかも知れないじゃないか。もっと酷くて、中年禿げデブだったらどうすんだよ、晶たん。」
迷いが過ぎてボタンを押せないまま、智之はリクライニングに背をもたせかけて独り言を呟いた。
実際のところは、あのトウヤの中身がキモオタでも厭らしい中年男でもない事は予測がついていた。活発で、周囲の人々にはそこそこ人気で、なにより人生を謳歌しているだろう。リアルの不満など何もないに違いない。こっそりと仕掛けておいたログの映像を見るだけで解かる、彼の人間性が無性に焦りを覚えさせるのだ。
出会いに飢えているわけでもない、ゲームをゲームとして楽しみ、その人間関係を大事にしてリアルを持ち込まない。スマートなプレイヤーだと思う。密かに人気があることも頷ける。有名ギルドに近付いたお蔭で二人の話題は一気に人々の間に浮上していた。トウヤにも晶に気がある素振りが見て取れる、それでも、彼には自分のようながっついた印象は微塵もなかった。嫉妬を覚えるくらいに。
智之が逡巡していた頃、残念ながらトウヤはゲームにINしてはいない。事情の程はその二時間ほど前に遡ることになる。二時間前。
冬夜はバーチャル商店街を歩いていた。リアルのどこにも存在しない、架空の地下街だ。現実の商店街同様のリアルさで店舗が遠くまで連なっている。冬夜はネットゲームのトウヤの姿のまま、走ることの出来ないもどかしさに前のめりで歩を進めていた。
バーチャルの開発当初は、こういった商店街にまではキャラメイクの機能は必要ないと思われていたものだが、いざ実装され蓋を開けてみれば、誰もがリアルの自分でバーチャルの世界を闊歩することなど求めなかった。それならば、わざわざバーチャルの店になど行くメリットはないのだ。メイキングされた虚構の自分でバーチャルを闊歩し、相手の真実の姿を求めてリアルで待ち合わせる。婚活はリアル社会を舞台とし、浮気はバーチャル世界で密かに会うものだ。
「遅くなった、ごめん。」
「おそーい、冬夜。お前、最後だぞ。」
六人くらいの男女が一つの店舗の前で立っていて、一斉に冬夜に注目した。
「時間限られてんだからさ、一分でも無駄にしたくないでしょ。のんびりだったらリアルでやんなよ。」
金髪オッドアイにメイクした少女が頬を膨らませて抗議した。バーチャル世界には一日五時間しか居られないのだ。バーチャルに関する細かな法律も急ぎ足に整備されつつあった。
「わりぃ、この商店街、走り厳禁で急ぐに急げなくて。ほんとごめん。」
バーチャルはまた統一データの世界だったから、ルールを敷くことはいとも容易い。体制側にとっては、非常に管理がし易い環境でもあった。
「罰としてコーヒー奢りな。」
「えー、俺、今月ポイント厳しいんだけど……、」
バーチャル世界ではリアルで出来る事のほぼ全てを体験出来る施設が揃っている。リアルのコピー世界だ。ゲームごとにチャージが必要だったのは遠い昔の話で、今はバーチャルの通貨はすべてが共通になり、どのコンテンツでも使用できるようになっている。ただ、リアル世界の通貨とバーチャルの通貨だけは交換性がなかった。一方通行に、バーチャルの通貨はリアル通貨に換算出来ないほうが、それぞれの商売には都合が良かったのだ。企業や商店の扱う"売上金"というデータのみが、個人データと照合の上でリアルの通貨に換算された。
一般人はリアルマネーをバーチャルマネーに換金したなら、全額、バーチャルで使い切らねばならない。そして、このバーチャルマネーをバーチャルの世界で稼ぐこともまた、不可能になっている。ゲーム世界で手に入る通貨とバーチャルマネーもまた、一方通行で交換性はない。バーチャルの中だけで生きることは、不可能だった。
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