永劫夢室
有坂有花子
第1話
静かだ。なにも聞こえないし、なにも見えない。
空っぽの音。ふいに呼ばれたような、自分に向けられた声。
「――!」
名前。これが自分の名前。
「なに?」
私は呼ばれた方へ振り返った。すると一人の少女が何もない場所に現れた。
「なにボーっとしてんの?」
そこから、音と景色が一気にあふれ出たように、自分に認識された。聞きとれないざわめき特有の声。たくさんの人、人数分の木の机と椅子。それに前を見ると、黒板。ここが学校の教室だということがわかった。
窓の外を見ると、灰色。ガラスが汚れで曇っていて少し見にくいが、灰色だった。だが雨は降らなそうだった。
朝だか昼だかわからなかった。
(学校……?)
なぜ学校にいるのか。
なぜかわからない。
記憶がない。
間の記憶はない。授業は終わったのか、それとも無意識にサボったのか、外にいた。
見える空はなにかで固めた作り物のようだった。
学校の門をでて、歩いた。足は止まることがなかったが、どこに向かっているのだろうか。足だけが別物なのだろうか。
見慣れない道。いや、最初から知らないのだ。足にまかせてわからない道を止まることなく歩く。
暗くはならなかった。ずっと歩いていても変わらなかった。足が痛くなることもなかった。
硬いコンクリートの道。
前方に、真っ黒な狼のような生き物がいた。それを見た瞬間、体になにか伝わったような気がした。割と大型で
恐れもなく近付いて狼に手を差し伸べると、それが自然なように顔をすりよせてきた。
毛並みのよい体をなでた。触覚がこの狼を覚えているような気がした。なにか思い出したようになって、狼をじっと見た。
目が合った。黄金の目を細くして、狼は歩き出した。
追いかけた。それが自然だと信じていた。むしろ必然。
そのまま、前を走る狼を追いかけた。だが、ちょうど曲がり角の視界の悪い場所にさしかかって、見失ってしまった。
ひどくあせっていた。追いかけなければすべてが終わってしまうような気がした。
走り出して、走って、走って。
不注意だった。
ヘッドライトに照らされた自分。
反射神経は追いつかなかった。
車は自分を轢いた。
ひどく乾いた匂いがした。
起き上がると、何かの囲いの中にいた。蒸し暑かった。
囲いの外に出てみると、そこは砂だった。正確に言うと、一面砂だった。一般用語で言えば、砂漠。
大きな太陽が容赦なく地面に照り付けていた。暑い。砂が蒸されて下からも熱気がのぼっている。
今までいたのが革張りのテントの中だということがわかった。寝ていたのだろうか。
(なにをしてた?)
記憶がなかった。
慣れた手つきでテントをたたむと、歩き出した。自分は旅人なのだろうか?
ただ暑い砂の地面を歩き始めて、砂を踏む音と衣服の衣擦れの音と、息と、心臓の音と、耳鳴り。
厚着だから汗をかいた。だが厚着をしなければ全身太陽に焼かれてただれてしまう。のどがからからに渇いて、唾液も少なくなっていた。
けれど苦痛とは感じなかった。歩かなければどこにも行けないから。
ふと前に小さな影が見えた。立ち昇る蒸気のせいでゆらゆらと揺らめいて見えるが、確かになにかがこちらに向かってきている。
立ち止まっていると、それはだんだん近付いてきた。
真っ黒な狼。隣にはターバンと布で顔を隠した、多分人間。
真っ黒な狼を見て、なにか感じた。
初めて見たはずなのに、どこか知っているような気がする。
自分も近付いていった。すると、またなにか見えた。
蒸気かと思った。が、違う。背の高い、塵と砂を巻き込んだ竜巻。
(砂嵐!)
そんなこと知らないはずなのに、なぜか知っていた。
強い風で体がねじれる。腕と足がもげるかと思ったが、その前に自分は気を失った。
呼ばれていた。叫ぶような声で、自分を呼んでいる。
「――!!」
真っ白で妙に清潔な部屋。目を開けると、涙でぐしゃぐしゃになった顔があった。中年の女性だった。その後ろに、真っ白な服を着た若い女性がいた。
名前を呼ばれているのはわかった。何度も。何度も。
「ここは?」
その中年女性に聞いてみた。
「病院よ。あなた車に轢かれて…」
涙声で答えた。
(車に轢かれて?)
わからなかった。
そんな記憶はどこにもない。
「ご家族みんな心配していたんですよ」
真っ白な服を着た若い女性が微笑んだ。
(家族?)
「あなた達は誰?」
幾度も繰り返している。黒い狼を追いつづける。
* * *
『機械の調子はどうだ?』
『順調だよ』
黒スーツ姿の若い男が二人、ドーム型の機械を見ながら話している。
中に、まだ若い少女がおさまっていた。目は閉じている。
男は目を細めて、少女を見て、
『この歳で最高刑だ。恐ろしい。が、俺は刑を実行した裁判長の方が恐ろしいさ』
声はやや震えていた。
『まだ試作段階だからな。まあいい言葉でいえばメルヘン世界に入るわけだからな。死刑よりいいって奴もいるだろうさ』
もう一人の男は平然と言い放った。
街で異例の大量殺人事件が起こった。
約261人ほど殺人して、逮捕された犯人はまだ14歳の少女だった。
その罪に裁判長は『
ある者にとっては死刑より重く、ある者にとっては執行猶予より軽い。
機械を通して二度と覚めることのない夢を見る。
死すまで夢を見続けるのだ。
少女はまだ試作段階の『永劫夢室』のドームに入れられた最初の囚人だった。そしてこれは実験でもある。少女が死亡するまで正常に機械が作動し続けたら正式に『永劫夢室刑』を施行することになっていた。
強制的な終わらない夢。死すまでを夢の中ですごす。
記憶は消える。一回一回リセットされて。
* * *
「誰って…あなた…」
中年女性は肩を震わせた。
「そんな。あなたのお母さんでしょう?」
真っ白な服の女性が口添えした。
「きっとまだ意識がはっきりしていないんですよ」
中年女性を落ち着かせるように言う。
言葉はなにも聞こえなかった。耳に入ってこなかった。
ただ、自分の目には真っ白い病室に不似合いな黒い狼の姿が映っていた。
気付くとベッドから飛び出して、追っていた。
体が痛むのも気に止めないで。
誰かが叫んでいるようにも聞こえた。そんなことは関係なかった。
真っ白な通路を走る真っ黒な獣は際立って見えた。
ただ追いかける。
自分は追い続ける。なにもわからなくても。
終わらない夢だってことを、覚えていないから。
Fin
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