寡黙な絵描きと気さくな釣り人

九傷

第1話 寡黙な絵描き




 ガラガラ――



 窓を開けると、朝の澄んだ空気を全身に感じることができる。

 私はこの空気が好きで、朝起きると必ず最初に窓を開ける。

 もちろん、嵐とかでどうしても開けられない日もあるのだけど、できる限り開けるようにしていた。

 だって、私の一日はここから始まるのだから。



「ふぅ~、良かった晴れて……、ってあれ? またあの人いる……」



 私の部屋は4階建てのマンションであり、窓からは川沿いの土手を一望できる。

 朝日に照らされた水面はキラキラ光ってとても綺麗で、私のお気に入りの光景なのだが、最近そこに異物、というか珍客が現れるようになった。

 どうやら絵描きらしいのだが、帽子を深々と被っており、サングラスまで付けているので完全に不審者である。

 正直、一人暮らしをしている私にとっては中々に怖い存在であり、どうしたものかと悩みの種になりつつあった。


 ちなみに、先程の私の台詞は完全に独り言である。

 家族と暮らしていた頃はこんなことなかったのに、やっぱり私、疲れてるのかな?


 実際、仕事は忙しいし、気疲れが多いのは間違いない。

 気疲れの一番の要因は、何と言っても人の多さにあるだろう。

 田舎者の私にとっては、都会の喧騒は正直肌に合わなかったのだ。

 だから折角上京したのにも関わらず、わざわざ都会から離れた、こんな川沿いの長閑のどかなアパートなどを借りたのであった。


 しかし、まさかこんな所に住みながら、不審者に困らされるとは思わなかった。

 まだあまり親しくない同僚にそれとなく相談してもみたのだが、「無視していればその内慣れるでしょ」等と軽く言われてしまい、全く深刻に取り合ってもらえなかった。

 あまりにも軽く返されたので、こっちも「そうですよねー」なんて軽く返してしまったのだが、残念ながら無視するのは中々に困難な状況であった。

 というのも、あの不審な絵描きは、私の通勤ルートに陣取っているからである。



「せめて、川向こうの土手で描いてくれたらいいのに……」



 おっと、また独り言だ。

 気を付けよう……





 ◇





 朝食を終え、仕度を整える。

 いよいよ、出勤だ。

 マンションを出て数十メートルの距離、ここが通勤における最大の難所である。

 家を出る直前に確認したが、あの絵描きはまだあの場所にいた。回避は不可能だ。



(待っていても居なくなるワケじゃないしなぁ……)



 覚悟を決めて前へ踏み出そうとした時、私に一つの妙案が浮かんだ。



(不審に思うのは、あの人のことを私が知らないからで、むしろこっちから話しかけて知り合いになっちゃえば……?)



 冷静になれば、さすがにマズい行為だと理解できたハズなのだが、この時の私は、恐怖心や焦り、心的疲労などから正常な状態ではなかったらしく、深く考えずに声をかけてしまった。



「おはようございます! 今日もいい天気ですね!」



 絵描きは無反応だった……

 いや、数テンポ遅れてだが反応した。

 絵描きはこちらに振り返り、一瞬考えた素振りをして、人差し指で自分を指さした。

 私は少しビビっていたので、声も出せずに頭だけペコペコ下げてそうですと意思表示をする。



「……ども」



 絵描きはボソリとそう返すと、再びキャンバスに向き直り描画を再開する。



(よ、よし! まずはファーストコンタクトには成功! つ、続きはまた明日で……)



 軽く会釈をして、私は歩き始める。

 駅に辿り着き、電車に乗った所でようやく緊張が解け、ホッと一息。

 そして自分が何をしたのかを落ち着いて考え、頭を抱えるのであった。





 ◇





 結局、今更退くこともできず、私は毎日欠かさず絵描きに挨拶をしている。

 思えば田舎で生活していた頃は、余り付き合いのない人達とも自然に挨拶していたし、それが当たり前だった。

 都会に来てからはそれが異端だと知り、むやみに挨拶するのを控えていたが、しないよりする方が良いに決まっている。

 そう思うようになってからは、抵抗がなくなっていた。



「おはようございます!」


「……ども」



 会話はそれだけである。

 友好度などは何も上がってないように思えるが、最初の頃と違ってしっかりと反応してくれるので、全くの進捗なしというワケでもない。

 それに、絵描きはくぐもった低い声で挨拶し、軽く会釈をするだけであったが、声色にはどことなく気安さが感じられるようにようになった……気がする。

 まあ、別に親密になることが目的ではないのだ。

 必要なのは適度な距離感。そういう意味では、この試みは成功したと言えるだろう。……うん。




 そんな日々が一か月ほど続いた頃、私はいつも通り仕事を終え、家路についていた。

 まだ太陽の出ている内から家に帰ることができるのは、通勤時間の短さゆえである。

 職場自体は都会にあるのだが、駅が職場の目と鼻の先にあるため、電車の乗り合わせが良ければ15分程で地元に戻れてしまうのだ。

 昨今は監査だのなんだので、会社単位で定時退社を推奨している企業も多く、ウチの会社も流行りに乗るかのように定時退社が半ば義務化されていた。

 お陰でスケジュールがタイトになり心労は絶えないのだが、こうして夕焼けを拝みながらこの土手を歩くと、それも少し癒される気がする。



(はぁ~、今日は買い物しなかったけど、昨日の作り置きがあるからいいよね……。たまにはのんびりと……、ん?)



 私が歩いている方向、いつも絵描きが座っている位置に何かが置いてある。

 近付いてみると、そこにはお洒落なケースやカバンがおいてあった。



(なんだろこれ?)



 それが何かはわからなかったが、そこから少し下ったところに、人が座っているのを見つける。

 どうやら釣りをしているらしい。

 こんな所で釣りをしている人を初めて見た。

 そんな小さな驚きから思わず足を止めていた私に、釣り人が気づく。

 振り返った釣り人は、意外にも若い青年であった。

 青年は少し驚いた顔をするも、すぐに笑顔を浮かべて会釈した。



「こんばんわ」


「こ、こんばんわ」



 青年が笑顔で挨拶をしてきたので、私も思わず笑顔で挨拶を返してしまう。


 ――こうして、近所で私が挨拶をする相手が二人に増えたのであった。



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