朱雀、湖上に飛ぶ

南紀和沙

第1話 湖上の出会い

 それは彼らが水上で船を泊めていたときに起こった。

 小型船が、猛スピードで直進してくる。船体が激しく上下しながら水面を滑る。

「ちょ、何だあのスピード!」

「こっちへ来る!」

 ヒノはあわてて、自分の船のエンジンをかけた。

「――!」

 小型船は、ヒノたちの船の横をすり抜ける。

 すれ違う一瞬、小型船の操舵席に黒い髪がなびいたのを、ヒノは見た気がした。

 次の瞬間、水面が割れた。

「な――……!」

 三人は唖然としながら空を見あげる。

 大蛇だ。水中から、漆黒の大蛇が飛び上がった。水をまき散らしながら、まるでイルカのように弧を描いて飛んでいく。

 大蛇は着水すると、小型船を追って猛スピードで泳いでいく。

「……助けるぞ!」

 ヒノは即座にボートを動かす。

「一応訊くけど、どっちを助けるの?」

「人間に決まってるだろ!」

 間もなく小型船に追いついた。小型船の側面が見えるあたりまで回りこむ。

 小さな船は煙を上げて立ち往生していた。

「あれは……!」

 船のうしろ半分に、黒く巨大なヘビがかじりついていた。

 全身は鱗も見えないほど黒く、黄金のラインが異形の文様をなす。頭部には大きな耳が生えている。

「ミズチか!」

「人が襲われてる!」

 ミズチは、水中に棲む精霊とされる。実体を持ち、時として人に害をなす。

 船はミズチに襲われ、乗組員とおぼしき小さな人影が逃げようとしている。そこにミズチの黒い霊気がからまる。人影がミズチの口元に引きずられる。

「ミズチが湖にいるなんて聞いたことないわよ!」

「話はあと! 助けなきゃ!」

 啓介が舳先に立つ。両腕を上げる。

「フウウウゥ――――……」

 息を吐く。全身から白いもやがただよったかと思うと、白銀の籠手に変化する。

白虎戎器術ひゃっきじゅうきじゅつ銀箭ぎんせん!」

 籠手に覆われた手元に、さらにもやが結集し実体となる。大きな弓矢があらわれる。啓介はすでに矢を弓につがえた姿になっていた。

「ハッ!」

 矢はあやまたず黒い霊気を打ち抜いた。

 ミズチは驚いたのか、船から頭を離す。人影が解き放たれ、船上でゴロゴロ転がったのが見えた。

「離れた!」

「あたしがやる!」

 すみれが扇を投げた。

 扇は広がり、空中を旋回する。落ちずに何度もミズチの周囲を回る。

 ミズチは扇を見回す。

「いづれを道と迷ふまで散れ」

 すみれが呪文を唱える。細い手首に、青い光の粒子が舞う。

青龍夢幻術せいりゅうむげんじゅつ桜花さくらはな

 扇がはじけた。無数の桜の花びらと化し、舞う。ミズチの視界を奪う。

「今よ! 早く船を寄せて!」

「ああ!」

 ヒノがボートを寄せようと舵を切る。

「ダメだ、スミ姉! 術が切れる!」

「嘘でしょ!? 早すぎる!」

 ボ、と花びらのバリアを割って、ミズチが飛び出す。

 ミズチは小型船にかじりつき、何かをくわえて船から離れた。

 船は突き飛ばされたように揺れ、バランスを崩す。

「人が!」

 ミズチの口元から、人の足がのぞく。

「啓介、おスミ、援護しろ!」

 操縦から離れ、ヒノが救命胴着を脱ぐ。

 両腕をクロスさせる。息を吸い、心を深く鎮め、集中力を高める。

朱雀紅蓮術すざくぐれんじゅつ装身纏開そうしんてんかい!」

 真紅の籠手が現出し、両腕を包む。赤いツヤが閃光のごとくきらめく。腕から肩へ、肩から胸へ、胸から腰へ、腰から脚へ。真紅が広がっていく。紅の鎧となり、体にぴったり寄りそう。長い指と爪を持った靴で、船上に立つ。

「朱雀、顕現けんげん!」

 短い髪が伸び、朱色に染まる。血より鮮やかに、火炎より激しく、石榴石ざくろいしより艶やかに、曼珠沙華まんじゅしゃげより麗しく。

 南方の守護神、朱雀の戦士がそこにいた。

「援護するわよ、ヒノ!」

 すみれが扇子を幾面も取りだし、湖面に投げ入れる。扇が波間に浮かぶ。

「我をいざなへ、ゆらぐ玉の緒」

 呪文とともに、扇子の周囲に輪が生まれる。

「青龍夢幻術、蓮葉はちすば!」

 水上に、巨大な蓮の葉がいくつも浮かび上がった。

「行って、ヒノ!」

「おう!」

 ヒノが葉を足場にして水上を飛ぶ。ミズチに肉薄する。

 ミズチも黙っていない。全身のもやが、何本もの鞭となって襲いかかる。

「甘い!」

 ヒノの全身が回転する。手足のツメが、鞭を斬り、弾いた。

「おおおおりゃあああッ!」

 拳が、ミズチの胴に入った。衝撃波が水面を割る。

 ミズチは苦悶し、口から人間を離した。

 人間はそのまま水中に落ちる。

「よし!」

 ヒノはためらいなく水中に飛びこんだ。

 ミズチも水に潜ろうとする。

「行かせない!」

 啓介が矢を放つ。

 矢は銀色の軌跡を描いて、ミズチの胴に吸いこまれる。

『ヒイイ――……』

 ミズチは立ちのぼるような悲鳴を上げて、頭を背けた。逃げてゆく。

「どうする? 追う?」

「逃げたならいいよ。それよりヒノを!」

 ヒノは水中にいた。

 あおく染まる水をかきわけ、ミズチが離した人間に迫る。

 その者は黒いワンピースをまとっていた。

(……女か?)

 女の胴をつかむ。すぐに水面にとってかえす。

「ぷあ!」

 ヒノは思い切り息を吸った。

 助けた人間も、ゴホゴホと咳きこむ。

「おい、大丈夫か?」

 ヒノは相手の顔をのぞいて――――。

「――……!」

 言葉を失った。

 助けたのは、少女だった。長く黒い髪が、濡れて顔にはりついている。その髪のあいだからヒノを見つめる瞳も、黒く大きい。

 美しい少女だった。ヒノの思考を止まらせてしまうほどの。

「あなた……は……」

 薄紅色の唇が、鈴のような声をつむぐ。

「おーい! ヒノー!」

 啓介の声に、ヒノはハッと我に返った。

「ひとまず上がるぞ!」

 ヒノは少女の体を抱く。籠手で傷つけないように注意する。

 水を蹴った。沈んでいた二人の体が、たやすく水上に飛びだす。水鳥のように水滴を引きながら、高く高く飛ぶ。

 ボートに着地した。

「もう大丈夫だからな。怪我はないか?」

 ヒノの変身が解ける。

 びしょぬれの少女はヒノを見つめながら、小さくうなずいた。

「ありが……と……」

 ふっ、と少女は気を失った。

 少女の小型船が炎と爆音を上げた。黒煙を上げながら沈んでいく。

 太陽はずいぶんと傾き、朱雀島の影が東へと延びていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る