1.おとなりさんは吸血鬼

「隣に引っ越してきた河本といいます」

「こんにちは、隣に引っ越してきた河本といいます。これ、つまらないものですが」


 インターホンに出ると、20代なかばの男性に小さな黒糖まんじゅうの箱を差し出された。

 すっきりとした目鼻立ちの顔を、やわらかな癖毛が覆っている。結構かっこよくてどきどきした。癖毛もチャーミングに見える。

 ただ、顔色が粘土のように青白い。何か病気を抱えているのだろうか。

 じろじろ見てしまったことに気がついて、わたしはあわててまんじゅうの箱に目を落とした。


「保護者の方は?」

「ああ、今日、お母さん仕事で遅いんです」

「そうですか」


 河本さんは小さくうなずいた。そして少し黙ってから、言いづらそうに切り出した。


「吸血鬼なので昼夜逆転してますが、なるべくうるさくないようにします」

「いえ、うちも結構うるさいので……迷惑かけたらすみません」

 

 特にお母さんとけんかしたときには。

 というか、今、なんて言った?

 吸血鬼?

 河本さんの言葉は、時間差でわたしの頭の中に伝わってきた。その情報を咀嚼しようとする前に、河本さんは会話をまとめにかかっていた。


「これからよろしくお願いします」

「よろしくお願いします……」


 河本さんはごまかすような微笑みを浮かべて、去っていった。



 闇の眷属が夜に紛れていたのは昔のことだ。今は、吸血鬼も狼男も化け狐も、町を堂々と闊歩している。

 1990年から2000年にかけて、政府は人間社会に潜むそれぞれの種族と協定を結んだ。お互い譲り合いルールを守るならば、そこに社会的な差別はない。

 もちろん何もかもうまくいっているわけではないけれど、今はおおむね、平和な社会が実現している。



「ただいま~」


 9時ごろになって、トレンチコートを着たお母さんが帰ってきた。


「お母さん! 聞いて! 隣に吸血鬼が引っ越してきた!」

「はあ?」


 疲れているお母さんの反応は冷たかった。が、着替えているうちに少し関心がわいてきたようだ。


「珍しいねえ。私も1、2回しか見たことないなー」

 私はお母さんのぶんのカレーを電子レンジに入れて加熱した。だいぶ年季の入った電子レンジは、きっちり掃除をしていても薄汚れている。

 お母さんはカレーがあたたまるのを待つ間、ストッキングを脱いで足をさらけだした。ジャージのズボンを棚からとりだしてはく。

 わたしは初めて吸血鬼を見た興奮が抑えられず、自然と声が大きくなる。


「すごいね、どんな人なのかなあ」

「ぶんちゃん、詮索するようなまねしちゃだめだからね」

「そ、そんなことしようと思ってないし」


 図星を指されて私は動揺した。お母さんは私をじっと見つめる。彼女は年よりずっと若く見える。だけどたまに人生経験を感じさせる冷めた目をすることがあった。


「ならいいけど。こうしてこっそり噂するくらいなら罪がないけど、彼のじゃまになるようなことはしないで。迷惑だもんねー」

「わかってるよ」

「しかし吸血鬼かー。この辺もいろんな人が住むようになったなあ。知ってる? 2階のテナントに入ってるカフェぐりふぉーんの店主、人狼なんだよ」

「えっ? そうだったの?」

「満月の前後には休むでしょう。張り出されてる休日予定を見てごらん」

「へえ~」


 それで深夜2時までやっている理由が解けた。休み方が不規則だったのも、月齢に合わせていたのならうなずける。

 このマンションは1階と2階は商業施設になっている。

 カフェぐりふぉーんは学生にとっては単価が高いのでなかなか行けないけれど、テストが終わったときに自分へのご褒美としてパフェを頼むのがわたしの人生の楽しみだ。


「でもお店入ったときにじろじろ見ないようにね」

「わかってるよ! うるさいなあ」

 お母さんに言われて気づいたけど、わたし結構野次馬根性があるのかもしれない。



 お母さんはカレーをスプーンですくいながら、わたしに聞いた。


「ぶんちゃん、本当に志望校あれでいいの」

「うん」


 半分は予想していた質問に、わたしはうなずいた。


「ふつうに受かるじゃん。もっと高望みしてもいいんだけどなー」

「やだ」

「頑固だねえ」

「あの大学だと、がんばれば授業料の減免が出るから」


 お母さんはため息をつく。八の字になった眉はきれいに整えられている。マスカラはやりすぎない程度にまつげを強調し、口紅ははげないように何度も塗り直す。彼女は美しい、と思う。一目見ただけでは、わたしのような大きな子どもがいるようには思わないだろう。


「子どもがそんなこと気にしなさんな」

「奨学金という名の借金をするのは嫌だ」

「そこはまあ、そうだけど」

「はいこの話終わり」

「しっかりしすぎて怖いわあんた」

「お母さんがしっかりしてないからだよ」

「生意気!」


 後ろで何か言っていたけれど、無視してシンクの前に立った。

 洗い物をしながら考える。

 早く大人になりたい。自分でなんでも決められて、お金にも困らなくて。

 そうすればどこにでも行ける。なんだってできる。

 蛇口から出る水がシンクを叩く。それをBGMにすると考えなくていいことまで考えてしまう。

 


 JPOPののピアノアレンジが部屋に鳴り響く。


「おはよう」

「おはよ」


 わたしはマットレスから起きた。

 うちは1DKで、ひとつの部屋を仕切って無理矢理2部屋のようにしている。おかげでお母さんの携帯のアラームで起きてしまう。逆にわたしが早起きするときはお母さんが起きる。

 毎朝のように、うちがもっと大きければなあとため息をつく。

 ヨーグルトと食パンで簡単な食事を取ると、余った時間で録画を消化する。お母さんの目があるので、まじめなドキュメンタリーにしておいた。


「行ってくるね」

「いってらっしゃい」


 目も合わせないけど、別に喧嘩してるわけじゃない。朝はお互いぼんやりしているので、会話が弾まないのだ。

 やっとわたしも登校の時間になった。中古の自転車をこいで学校に向かう。まだ今年の自転車通学届けを出していないのを思い出して、早く出さなければと考えた。

 学校の手前の信号を待っていると、ロングヘアの女の子に声をかけられた。


「ぶん太。おはよう」

「せめて女の子らしいあだ名で呼んでよね! 珠希たまき。おはよう」


 校則通りであり、しかしどこかあか抜けた制服の着こなしの女の子。右手に単語帳を持っている。車にぶつからないか心配だ。


「昨日の板東志紀、見た?」

「ああ、見た見た」

「相変わらず老けなさすぎて怖いよね」


 同じドラマを見るのがわたしたちの気晴らしだった。今のクールは不倫ものを見ている。板東志帆はその主演女優だ。

 むろん親にちょっとセクシーなドラマを見ていることがばれると恥ずかしいので、人気のないときに録画を消化している。


「どっちにくっつくと思う?」

「しっぽ出てるよ」


 珠希はあわててぴこぴこと動くきつねのしっぽをしまった。わたしは話を変える。


「勉強どう?」

「わたしはぼちぼち。でもお父さんが変に張り切っちゃってだめだなあ。ぶんちゃんは? お父さんどう言ってる?」

「さあ……うち片親だから」

「えっ!?」


 なるべくさりげなく言ったつもりだったのだけれど、珠希は目を白黒させた。


「ぜ、ぜんぜん知らなかったんだけど……なんで教えてくれなかったの」


 こうして大げさにびっくりされるのが嫌だから、あえて言わないんだけどなあ。



 昼下がりの授業はとにかく眠い。


「じゃあ、遠藤。なぜ夜の種族の権利は難航したかわかるか?」


 当てられてからやっと世界史の授業であることを思い出したくらいだ。わたしはあわてて下がりかけていたまぶたをこじあける。


「えーっと、比較的無害な夜の眷属については、人々の偏見も少なかった。しかし吸血鬼や人狼など、人を襲う種族に関しては、権利を与えるのに根強い反対があった。んだと思います」


 先生はこつこつとチョークで黒板を叩いた。


「だいたいは正解だ。この2種族は日本には少ないのでぴんとこないかもしれないが、ヨーロッパでは今もトラブルが絶えないんだ。

 逆に日本を中心に東アジアに多い種族は、狐及びその混血種だな」


 クラスメイトの視線が珠希に集まる。珠希はふいと視線を窓側へそらせた。

 チョークがかりかりと黒板をひっかく。暖かい春の日差しが窓から差し込んでくる。わたしはあくびをかみ殺す。


「次回は復習の小テストをやる。18世紀のヨーロッパ史を予習して来いよ。じゃあ解散」


 ばらばらと生徒たちが立ち上がる。外に出て行く者、友達の机に近寄る者、方向はいろいろだ。


「たま」


 わたしは珠希に話しかけようとして、やめた。彼女はすぐに単語帳を取り出し、ぱらぱらとめくり始めた。

 人によって目指すものはばらばらだ。お金を大事にするわたしの選択は恥じるものではないと思う。理屈ではわかっている。

 けれど、珠希のように必死で勉強し、上を目指す子を見ていると、言いようのない焦りを感じる。

 ふとスマホが鳴る。お母さんから遅くなる旨のメッセージが入っていた。「わかった」とだけ返して、わたしは自分の席に戻った。



 その日は家にまっすぐ帰らず、塾に自転車を走らせた。晩ご飯は昨日のカレーでいいだろう。

 警備員さんに塾生証を見せて、自習室に入れてもらう。

 黙々とシャープペンシルを走らせた。耳につけたイヤホンから、シャッフルされた恋愛ソングが流れる。それがむずがゆくて、プレイリストをインスト曲のものに変えた。

 眠気が襲ってきた。少し顔を洗おうとお手洗いに立つ。この階にはトイレはないから階段を使わなくてはならない。

 階段を降りていると、見たことのある癖毛と、青白い土のような顔が向こうから上ってきた。

 すれ違いざまに、わたしは思わず振り返った。衝撃でリップクリームを入れたポーチを落っことしてしまう。


「河本さん!?」


 河本さんは、一瞬あっけにとられてから、自分の「河本志郎」という名札を見た。


「ああ、となりの……遠藤さん」

「こ、こんばんは」


 河本さんは、前に見たときより疲れているようだった。それでもわたしへのお愛想としてぎこちなく笑ってくれる。


「先生……なんですか」

「ええ」

 

 河本さんは声を低くしてささやいた。


「隣に住んでるってことは内緒にしておいてくださいね」

「あ、はい」


 河本さんはおっくうそうに階段を上っていった。

 1階下がって、ふと窓の外を見ると、真っ暗になっていた。なるほどもう彼の時間なのだ。



 夜も更けて、自転車置き場に向かった。自転車の鍵を出そうとポーチをまさぐると、ない。


「あれ?」


 ひょっとしてどこかに落としたのだろうか。


「ああ、ふみねさん? よかった。いて。これ落としましたか?」


 河本さんは、ひょいとわたしに何かを渡した。それは「文音」と名前が書かれたキーホルダーのついた自転車の鍵だった。


「あとから気づいて、事務員さんに預けようと思ったんですが、念のために見に来てよかったです」

「あ、ありがとうございます」


 わたしはちょっと口ごもった。何度もしてきた訂正だけれど、するたびに気まずい。


「わたし、あやねっていうんです。ふみねじゃなくて」

「そうなんですか、すてきな読み方ですね」


 どきっとした。お世辞だとわかっていても、いきなりこんな風に答えてもらえたのは初めてだったからだ。


「友達はぶんちゃんって呼びますけれど」

「では遠藤さん。さようなら」


 わたしは予備校の入り口に消えていく河本さんを、ぼんやりと見つめていた。なぜ見送っているのかと我に返り、あわてて自転車を発進させた。



 家に帰って今年の予備校のパンフレットを確認すると、日本史の講師一覧に河本さんの名前があった。

 ということは、世界史選択の私とは授業で会うことはない。少しがっかりしている自分に気づき、慌てて頭を振った。

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