明治2年3月 宮古湾海戦
まどろんでしまいそうな柔らかな陽射しが、洋館の出窓を照らし、窓際の椅子に座っている椿の瞼は自然と閉じかけた。
そのまま寝てしまっても誰も文句は言わないのだが、窓から見える庭の様子が楽しくて、やはり眠ってしまうのはもったいない気がした。できれば自分もファーブル家の愛らしい子供たちと土いじりをして、春に咲くチューリップという西洋の花の球根を植えてみたい。しかし、奥様が許してくれなかった。長いこと寒い外気に触れては駄目というのだ。
椿は再びファーブル家の住み込みのお針子になった。というのも、金太郎から椿の病気の話を明かされたアンリが、そういうことなら、ムッシュー・ファーブルを頼ってはどうかと提案し、自ら椿をもう一度雇ってほしいと掛け合ってくれたのだ。
そもそも自国軍を脱走した二人の若者の世話をし、幕府軍への加入をブリュネと交渉した変わり者のファーブル氏が、妻のお気に入りのお針子の身柄を拒否するはずがなかった。
椿は中流の暖かい生活に身を置くことになり、これで病の進行を少しは遅らせることができると金太郎は一安心したのだった。
一方、箱館政権の一員としての金太郎の気が休まることはなかった。
あの夜会の日の翌日、大鳥とブリュネは部下を連れて松前方面に軍事的な視察に出向き、約一月半、五稜郭を不在にした。上陸してくるであろう新政府軍に対する蝦夷地の防衛態勢の最終確認をしてきたのだ。
五稜郭の要塞化の工事もほぼ終盤を迎えている。四つの連隊もそれぞれ訓練に余念がなく、金太郎も連日、砲術の訓練に集中している。先日は、箱館湾に突き出た弁天台場の様子を見に行ってきた。西洋風の石造りの台場は、海上から攻めてくる新政府軍を撃退するに相応しい。
三月に入り、五稜郭で貿易関係の書類の翻訳作業を行っていた金太郎は、久しぶりに見る顔を見かけ、思わず駆け寄った。
「フェリックス! もう工事は完了したのか?」
年明け早々から山麓沿いの要塞建築の指揮を任され、五稜郭を離れていたフェリックスが急に戻ってきたのだ。
「いや、細部の作業が残ってるけど、アンリからすぐ戻れって手紙が来てさ」
それで吹雪の中を馬で舞い戻ってきたらしい。突然の帰還の指示は十中八九、何か問題が発生したからに違いない。それも、元フランス海軍士官がすぐに必要になるような問題だ。
金太郎が予想した通り、フェリックスが教えてくれた問題は箱館政権にとって極めて深刻な現実であった。
新政府軍がアメリカとオランダから最新鋭の軍艦を買った――。
それは局外中立の宣言を撤回した諸外国が、はっきりと新政府軍側に肩入れしたという証拠だ。しかも、その二隻を含む敵艦八隻が蝦夷地に近い南部藩の宮古湾に停泊している。敵の手中に収まったアメリカの軍艦がフランスで造船されたものだと聞いた時には、金太郎は言いようのない虚しさを感じた。
アンリやフェリックス、そして荒井海軍奉行らが出した決断は、新政府軍の主力艦となったアメリカの軍艦甲鉄を接舷攻撃によって奪取し、幕府軍の軍艦にしてしまうという奇襲作戦だった。
「本当に敵艦に乗り込むんですか……?」
無謀とも思える作戦に不安を覚えた金太郎が、旗艦回天に乗ることになった土方に疑問を投げかけると、土方はそう訊かれるのが意外だという風に眉を上げた。
「アンリとフェリックスを信じねぇのか、おまえは」
土方の言う通りだった。
二人のフランス人士官は恐怖心を微塵も感じさせずに、それが当然だというように接舷攻撃用の軍艦蟠竜と高雄にそれぞれ乗り込み、出撃した。
そして、後から聞いた話だが、蟠竜には英語通訳の一人として五稜郭での留守係を命じられていた東三郎が、密かに乗船していた。東三郎を洋行帰りの女たらしの気取り屋だと決めつけ、あまり快く思っていなかった金太郎は、東三郎のこの大胆で身の程知らずの行動の裏に新政府軍への激しい闘志が潜んでいたことを知り、衝撃を受けたのだった。
だが、宮古湾での海戦は甲鉄の奪取どころか、まともな戦いにもならずに敗北が決定した。
回天の甲賀艦長や新選組隊士らが戦死し、さらにフェリックスの乗った高雄が新政府軍艦に追跡された挙句に降伏し、フェリックスたち乗員は全て江戸に護送されることになった。
大事な外国の同志を失った金太郎は無言でアンリと抱き合った。戦死したわけではなかったが、もう共に徳川幕府のために戦うことは叶わないのだ。
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