明治2年1月末 夜会にて
夜会当日、今朝まで際限なく空から落ちてきていた氷の粒が混じった細かい雪は、昼過ぎにはすっかり消えていた。
椿は景に手伝ってもらってドレスを着せてもらうことになった。
「すっごい太っ腹なのね、仮政権って。あーあ、あたしも夜会に出たいわ」
「ごめんね、私だけ」
「いいの。羨ましいけど、あたしなんかいつも夜会に出てるみたいなもんだしさ」
仮政権が公式の夜会を開くというのは、随分前から決定されていたことだ。あてにしていた諸外国が局外中立の撤廃を宣言したため、榎本総裁はできる限り諸外国と良好な関係を持続させようと、外国人を招待した夜会を開くことにしたのだった。
そこへ椿の褒美の件が重なって、この際、フランス語が話せる椿を出席させてしまえということになった。どのみち恋人の金太郎も仏語通訳として参加するのだから都合がよいと幹部たちは考えていた。
「ねぇ、金太郎くん、びっくりするわね。ほら、鏡見て。箱館一の別嬪さんよ」
薄く化粧をし、髪の毛まで結いあげてもらった椿は鏡の中の自分の姿にうろたえてしまった。錦絵に描かれていた異国の婦人がそのまま現実世界に飛び出してきたのかと思ったからだ。
「これ、本当に私……?」
「そうよ! 寝ぼけたこと言ってないで笑ってみせて」
ぎこちなく笑う友人に、景は微笑んだ。
(素直でかわいい子。遊女の母から生まれたあたしなんかとは住む世界が違うわ)
もし日頃から金太郎が口にしている「自由、平等、友愛」の世の中になるのなら、商家の娘の椿と同じように自分も「生まれ」から解放されるはずだ。母親と違って景自身は全く自由のない遊女ではないけれど、この世界から足を洗うにはやはり自分を引き抜いてくれる旦那の存在が必要だ。
(一くんはいつかあたしを妻にするって言ってくれてるけど、あんな貧乏隊士に期待するほどあたしは馬鹿じゃない……)
真冬の雪の中に咲く椿のような友人を見て、思わず景は溜息をこぼした。
「やっぱりあんたが羨ましいわ。金太郎くんはあんたをお嫁さんにしてくれるでしょうね」
「……そう思う? 私は金太郎くんがいないと駄目なの。彼は私の理想よ。ずっと一緒にいましょうねって、いつも言ってるの」
椿の思い描く未来は明るかった。
幕府軍が新政府軍を撃退した後、蝦夷地には新しい時代が訪れる。そのうち金太郎は陸軍士官として昇進して、椿を妻に迎えてくれる。アンリやフェリックスがいつも語ってくれたように、蝦夷地もフランスみたいな情熱的で豊かな土地になるのだ。そしてそこには、もう憎い長州や薩摩の影はない。
最後の飾りつけをしていると、家の戸口に誰かがやってきた。
「失礼しますよ。椿さんのお迎えにきました。新選組の島田です」
「はいはい、椿ちゃんは今行きますよー」
景が椿と共に表へ出ると、島田という大柄な中年の男が、娘の晴れ姿を見るように目を細めて分厚いコートを椿に差し出した。
外国の領事館や貿易商店が多く存在する町の一角に、白海楼はあった。
名前こそ和風だが立派な二階建ての洋館で、領事館の行事や貿易商人たちのレセプションによく利用される。
屋内へ入ると客は白海楼という名の由来を知る。白い壁に囲まれた大ホールの床が紺碧色なのだ。
例に違わず、椿は初めて足を踏み入れた洋館の内装の美しさに目を瞠った。
迎えに来てくれた島田は強面の見かけによらず朗らかな人で、今日の夜会の目的やどんな客が来ているのかを教えてくれた。
「信じられないくらい平穏ですよ、今は」
と、鳥羽伏見の戦いから激戦をくぐり抜けてきた島田はしみじみと言った。
島田が金太郎の居場所を示してくれたので、椿は礼を言うと、早速、金太郎の元へ歩み寄った。
(どうしよう。似合ってるかな。急に恥ずかしくなってきちゃった)
金太郎は正装に身を包んで大鳥の横に立ち、フランス海軍のロワ艦長と大鳥との通訳を行っている最中だった。大鳥が気づいて軽く手を挙げると、艦長と金太郎が振り向いた。
その時の金太郎はまさに鳩が豆鉄砲を食らったように固まり、何か言いかけてそのまま黙ってしまった。
贈り物を土方から事前に見せてもらった時に、それを着た椿の姿を想像してみたのだが、実物は破壊的に可愛らしかった。鮮やかな光沢ある紅色は椿を本物の花のように見せた。
「金太郎くん、贈り物どうもありがとう! 私、すっごく嬉しい!」
心からの笑顔は大輪の椿そのものだ。
「椿……、あの、それ、洋装もたまには悪くねぇな」
ぼそぼそと感想を口にした金太郎を見て、大鳥は笑った。
そして、椿は大鳥から艦長を紹介されるとスカートの裾を摘まみ膝を軽く曲げて挨拶をした。
「ボンジュール、キャピテンヌ。ジュ・スィ・トレズールー」
艦長は日本の娘が流暢な自国語で話したことに気を良くし、これなら同胞たちを大鳥に預けていても心配ないと言った。
そして、椿を交えて大鳥と艦長と金太郎はワイングラスを掲げた。
「ア・ヴォートル・サンテ!」
金太郎から見ても椿はちょっとした外交官だった。フランス人を十人も抱える仮政権にとって、日頃からフランス海軍や領事館と良好な関係を保つことは必須だ。
艦長がこの場を去ってしまうと、金太郎は改めて椿の艶姿に直面することになった。
「やれやれ、田島くん。マドモワゼル・椿にもっと言うべきことがあるんじゃないのかい?」
上官に促された金太郎は意を決して、椿に賛辞を贈ろうとした。
「やあ、椿さん。この世のものとは思えないほど美しいね」
褒め言葉は自分の口から出るより先に、やはり英語通訳として夜会に出席していた東三郎に奪われてしまった。完全に言うタイミングを逃した金太郎は反射的に大鳥に救いの目を向けたが、上官は素知らぬ顔をしている。
「今日、最も輝いているのは君だよ。遠くからでもすぐにわかったくらいだからね。よかったら僕と一曲踊りませんか? 本場の舞踏会ほどじゃないから真似事だけど」
東三郎は椿に片手を差し出した。英国留学中に勉学だけでなく、ご婦人との付き合いも学んだ東三郎の身のこなしは洗練されていて自然だった。
「おい、佐藤! 椿は俺と話してたんだぞ」
「そうは見えなかったな。椿さんが手持無沙汰に見えたよ」
東三郎が椿をじっと見つめると、椿は金太郎を困ったように窺ってからおずおずと東三郎の手をとった。
(断るわけには……。せっかく誘ってくれてるんだし)
金太郎の嫉妬には気づかず、通訳仲間の機嫌を損ねてしまったら、金太郎の立場が悪くなるのではないかと椿は考えたのだった。
弦楽器による明るいワルツが流れる大ホールの中央は、既に数組の男女が踊っていた。もちろん椿は西洋の踊りなんて初めてだが、東三郎に「難しく考えずに好きに動けばいい」と言われて周りを見よう見まねで踊ることにした。おそらく幕府軍の中でワルツを踊れるのは榎本と東三郎くらいだろう。
「ねぇ、前から聞きたかったんだけど……、どうして東三郎くんは箱館に来たの?」
踊っている最中、黙っているのがなんとなく居心地悪くて、椿は尋ねた。
「それは田島くんと同じだと思うよ。僕は榎本総裁の義弟でね、慶応四年の六月に英国留学から戻って彼から日本の状況を詳しく聞いたんだ。確かに天子様が日本を統治されるのは良いことだと思う。でも、天子様の周りにいるのは権力が欲しくて主君を裏切った薩摩や長州の奴らばかり。僕は医師の息子だから武士そのものじゃないけど、武士というものは主君のために働き死ぬもののはずだ」
「徳川様の世の中がまた来るのよね?」
椿は期待を含んだ素朴な疑問を口にしたが、東三郎は敢えてそれには答えなかった。
「……僕は新しい時代を望んでる。広く外国と対等に付き合い、皆が自分の意思で人生を歩めるような日本だ。イギリスがいい手本だと思う。ところで、君は本当に田島くんと一緒になるつもりなのか?」
「そのつもりよ」
「もったいない」
その言葉の意味を飲み込めていない椿のために、東三郎は先を続けた。本当ならばこの話は恋人である金太郎がすべきなのだが。
「君は箱館を去るべきだ。じきにここは戦場になる。……横浜の僕の父を頼るといい。君はフランス語の能力があるんだから、それで身を立てることができるじゃないか。これからは女子も社会に出て自由な人生を歩むべきだよ」
ちょうど一曲終わったところで、不機嫌を露わにした金太郎が二人の会話に割って入った。
「もう充分だろ、佐藤。椿と何を話してたんだ」
「別に。ここを離れて僕の父を頼れって言っただけさ」
東三郎は椿に聞こえないよう、ある残酷な事実を金太郎に耳打ちしてやった。
「この子、病気だぞ。それも胸をやられてる」
「……!」
金太郎の呆けた面を一瞥し、東三郎は椿の手の甲に口づけるとその場を去って行った。
踊ったせいで少し息が上がった椿は、すがるように金太郎の両腕を掴んだ。
「……私、金太郎くんの傍を絶対に離れないわ。いつか一緒にパリに行きたいんだもの」
必死に訴える椿を金太郎は思わず抱き締めた。少し唇の色が悪いような気がする。
東三郎が椿に江戸に戻って彼の父を頼れと言ったのは、実は正しいのかもしれなかった。東三郎の実家は医者だ。しかも、今の日本の最高水準の医術が集まっている。
椿の体が病に侵されていることは、金太郎も薄々気づいていた。
長屋で初めて出会った時から出ている咳は、風邪に効く漢方薬を飲ませても一向に治らない。本人はたちの悪い咳風邪だと思っているようだが、明らかに異常だった。
金太郎は椿の手を引いて大ホールの隅まで行き、椿を椅子に座らせた。
「金太郎くん、私を他の外国人に紹介して」
「どうして?」
「私、あなたの役に立ちたい。もっと政治のこととかも勉強して、通訳のお手伝いがしたいの。東三郎くんが、これからは女子も社会に出て自由な人生を歩むべきだって言ってたわ。それなら私は、通訳の勉強をして、金太郎くんと一緒の未来を生きたい」
屈託のない真っ直ぐな椿の言葉は、金太郎の心を苛んだ。
胸の病に侵された椿を、金太郎はどうすることもできない。傍に置いておくほどに、彼女は貧しさと蝦夷地の寒さで弱っていってしまう。
最善の策は椿を自分から離して、療養させることだ。今すぐに江戸に帰すわけにはいかないから、凌雲先生の箱館病院に引き取ってもらうのがいい。先生はパリで高度な医術を学んでいるし、患者は敵ですら分け隔てなく診てくれるほどの人格者なのだ。
「あのさ、椿――」
「ねぇ、ずっと私と一緒にいてくれる? 約束よ?」
恋はどうしてこうも残酷なのだろう。真摯な愛情を受け止めるには、金太郎は非力だった。椿を手放したくないという思いが彼女の命を奪い傷つけてしまう。
恋人は将来の約束を欲しがっているが、金太郎は一が景に気休めを与えるような不誠実な態度はとりたくなかった。
「椿、おまえ何か勘違いしてんじゃねぇか? 俺は将来の約束なんて、できねぇよ」
「どうして……!?」
「おまえの浮気なとこが嫌になっちまったよ。さっきも外国の士官に意味ありげな視線を送ってたし、佐藤と親しそうに踊ってた。……あいつ、気取った顔して女好きで有名なんだぜ」
椿は平手打ちを食らったのだと錯覚した。それほど、金太郎から投げつけられた言葉が鋭く全身を痺れさせたのだ。
よろよろと後ずさると、椿の足は一気に動き出し、大ホールの中央を突っ切って白海楼の出入口に向かった。
何もかもが信じられなかった。金太郎から拒否されたことも、どうして自分が豪奢なドレスを身に纏って正式な外交の場に出ているのかも……。
「待てよ、椿ちゃん!」
後方から誰かの声が聞こえた。土方のものだったかもしれないが、振り返る気力もなくて、椿は凍った地面に足をとられながら走り続けた。
胸が苦しい。咳がひどく出る。
この胸の苦しみは一体何なのか。
やっと辿り着いた借家は真っ暗だった。景はお店に出ていて朝まで帰ってこないだろう。椿は紅色の絹に包まれたまま冷たい布団に突っ伏した。
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