蝦夷のトリコロール
木葉
序章
明治17年 マルセイユ出港
マルセイユに停泊している極東行きの客船が、にわかに慌ただしくなった。
出港の準備が整い、船員たちが客に呼び掛けを始めると、岸で待つ見送りの人々に挨拶をしようとする乗客たちがばらばらと甲板に出てくる。
部屋に戻ろうか、このまま他の客と共に離岸の様子を眺めていようか迷った挙句、田島
すると、内側から扉が勢い良く開き、十代後半と思しき見知らぬ少女が飛び出してきた。
「パルドン、ムッシュー!」
そう言うや否や、フランス人の少女は応親の横をすり抜けて、既に先を歩いていた家族の元へ走っていった。
一瞬、あの少女が昔の恋人に見えた。色白で目が大きくて、少し癖毛の黒髪……。
その娘は生粋の江戸っ子だったのだから、フランス人の少女と見間違えること自体がどうかしている。
客の少女の後ろ姿を見つめ、応親は言い知れない悲しみと苛立ちを同時に感じた。
(どうして俺はフランス人じゃないんだ……!)
足早にその場を立ち去り、ふと通路の壁に掛かっている鏡に目を遣ると、そこには紛うことなく大日本帝国の陸軍少佐がこちらを見返している。
今から四年前になる明治十三年、応親は初のフランス駐在武官としてパリに赴任した。そして恙無く任期を終え、今日、フランスを離れるのだ。
しかし、故郷に帰ることがこれほど苦痛を伴うものだとは思わなかった。
本国では去年、鹿鳴館という洋風の華麗な館が落成したと聞く。西欧に向かって進んできた日本はいつの間にか武士の時代が終わっていた。かと言って、フランスのような自由で平等な気風とは程遠い精神が帝国を支配している。
おまけに、陸軍は今までのフランス式からドイツ式に変更するという道を選んでいるらしい。
本音を言えば、帰朝せずにこのままパリで生きていきたかった。新しい時代が幕を開けて、自分の世界は失われたと気づくのにそう時間はかからなかった。それならばいっそ、フランス人になってしまいたかった。
もはや武士はいない。自由、平等、友愛の精神もない。
もし、と鏡から視線を外しながら応親は考えた。
(もし、あの戦に負けていなければ、俺たちは武士として自由で平等な楽園を作れただろうか……?)
自問への答えは、いつもわからないままだ。正確に言うと、答えたくないのかもしれない。あれは少年時代の永遠の夢として、そっと胸に抱き締めていたい、そういうものなのだ。
自室に戻り、窓から見える景色が徐々に変化していることからすると、どうやら出港したようだ。
応親は懐から一枚の写真を取り出し、棚の上に立て掛けた。長旅のせめてもの慰めに、一番のお気に入りの写真を飾っておきたかった。
「田島少佐、失礼します。あと三十分程で食事だそうですよ」
しばらくして顔を覗かせたのは、知り合いの邦人記者だった。
「わかった」
「良い写真ですね。凱旋門かぁ。武官の思い出にぴったりだ」
若い記者は目敏く見つけた写真を眩しそうに見ている。
「まぁ、凱旋門なんて、戦にも恋にも破れた俺には相応しくねぇな」
「少佐が戦に負けた……のですか? 西南戦争は見事、官軍が勝利を納めていますよ」
記者は怪訝な顔で応親を見ている。彼にとって、大日本帝国陸軍の田島少佐は初めから官軍以外の何者でもない。
「そうかそうか、君みたいな若者は五稜郭の戦いなんて知らねぇか」
もしかしたら、本当は全て夢まぼろしだったのではないかとすら思う。応親は記者の肩を軽く叩き、食堂へと向かうことにした。
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