永遠の氷結

 俺はかじかむ両手をこすり合わせながら、ずらりと並ぶ白い棺桶の一つの前に立った。低い振動音があたりを満たしている。部屋は薄暗かったが、目当てのスイッチはすぐに見つけることができた。白い息を吐き、赤のスイッチへと手を伸ばす。指先が震えている。


『水素発生用エタノール残量が少なくなりました。有機物を補充してください……』


 俺の頭上でコンピュータがわめいている。


 そう、この目の前にある容器は棺桶ですらない。これはただの有機物だ。生き残るために必要な有機物だ。


 俺は目を瞑り、そのまま親指でスイッチに触れた。痛いほどに冷たい。押し始めは固かったが、体重をかけるとすぐに押し込まれた。


 目を開き、容器に備え付けられたパネルを見る。黒字に赤の文字が徐々に消えていく。内容に意味はない。これは有機物なのだから。


 俺はコンピュータにエタノール合成を指示し、冷凍睡眠室を後にした。




 展望室へ戻ったとき最初に俺を歓迎したのは、刺すような強烈な光だった。ジャケットを床に放り投げ、何度も目をこする。陽光が雪原に反射したらしい。目が慣れてきて、いつもと変わらない風景がそこにあるのがわかった。


 大雪原。その手前に、全方位を見渡すことのできる透明半球のガラス壁。一番手前には、真っ白なキャンバス。周りには、くしゃくしゃに丸まった無数の紙や、筆洗いなどの道具一式が転がっている。


 俺はあとどのくらい生きられるのだろうか。


 キャンパスの前の椅子に座り、景色を眺める。雪が降っていた。透明半球の天頂を見上げる。雲はない。親指の先ほどの雪は、どれも陽光に照らされて青く輝いている。ゆっくりとふわりと舞い降りてくる。意思を持っているかのような動きだった。


 二酸化炭素の雪だそうだ。


 足下に無造作に置いてあるパレットと筆を拾いながら、俺はキャンバスを睨んだ。


 この数ヶ月、まともな絵が描けていない。最近は、絵の具を置くことすらできない。それもこれも、青白い雪が降り始めたからだ。


 太陽の引力の手から離れ、地球が放浪を始めてもう十年になる。海はすべて凍りつき、海水が含んでいた大量の二酸化炭素が空気中に放出され、人間は死滅した。


 俺一人をのぞいて。


 いや、厳密には俺だけが生き残ったわけじゃない。ほかにも数十人がいる。どいつも冷凍睡眠の中にいるが。人類最後の意識のある人間は俺だけだ。様々な思惑と殺し合いの結果、『選ばれた者達』は数十人。すべて芸術家だ。政治家、官僚、医者、パン屋、科学者など、芸術家以外の職業の者は、死にゆく地球を前にしては何もできない。人類として何かを残すためには、芸術家である必要があった――。


――俺はそうは思わない。


 筆を持ったまま、親指をキャンバスに押し付けた。ほんの少しのざらりとした感触が伝わってくる。左手でアトリエイーゼルの縁をつかむ。パレットがキャンバスにぶつかり、跳ねた。


 右腕に力を込める。キャンパスがわずかに軋むのが親指から感じられる。そのまままっすぐに腕を下ろしていく。紙はふやけて歪み、透明な線が描かれる。


 キャンバスの下端まで線を引いてから、俺は斜め上を見た。空は青紫の雲に覆われつつあった。雲間からは陽光が射している。降り続けるドライアイスで散乱され、光は青白い筋に見えた。直線の光は無機的で、生物とは相容れない。


 両腕から力が抜ける。パレットと筆が床で硬質な音を立てた。


 この光景を伝えきれる画家など今も昔もいないと思う。見たままを描くだけなら写真で十分。それを絵画にまで昇華させるには、その人間独自の美的感覚が必要だ。


 だが、この誰も見たことのない光景を、誰が絵画にまで昇華させられるのだろう?


 少なくとも、生き残るために『芸術家』の肩書きを買った人間には不可能だということは、俺にも十分わかっている。


 しんしんと雪が降る。


『水素用エタノールの補充が足りません。あと二百十キログラム程度の有機物を補充してください……』

「わかったよ。三体分を補充すればいいんだろう?」

『いえ、五体分が必要です』

「――了解、ばかやろう」

 椅子から立ち上がり、伸びをする。投げたジャケットを再び拾い、羽織る。


 両手で頬を叩き、俺は冷凍睡眠室へと向かった。




――一週間後。


 俺は、地べたに座って肉にかじりついていた。朝飯か昼飯かなどはわからない。太陽は不規則に沈んでは昇っているからだ。俺は起きたいときに起きて、食べたいときに食べる。


 大きく口を開けて肉にかぶりつく。歯で噛み切ろうとする前に、肉はぼそりと口の中に転がり込んでくる。スパイスの辛みが口の中に広がる。肉本来の味は薄かった。


 肉の色をして、大きさも鳥のもも肉のようだが、これは本物の肉ではない。有機材料から合成された、人工的な肉だ。


「肉の味が薄いぞ」顔を上げて俺は呟く。

『より良質の肉を合成するためには、より多くの有機物が必要になります。生存期間を延ばす為の処置です、ご了承ください。もしどうしても希望するのであれば冷凍睡眠室から新しい――』

「――このままで構わない」

『了解しました』

 俺は肉を床に置き、両手を後ろについて真上を眺めた。


 青白い雪は、まだ降り続いている。外と内との透明な境界に触れると、消滅する。


 立ち上がり、キャンバスの前へ向かう。腰を屈めてパレットを取る。椅子に座り、青と白の絵の具をパレットに絞り出す。絵の具を筆に持ち替え、筆入れに筆を突っ込む。パレットの上で色を毛先になじませる。適量を取っては、円を描くようにかき混ぜていく。


 青と白と水のバランスをとり、目の前に降り続けるドライアイスの色の鮮やかさをパレットの上で再現しようとする。雪は陽光にちらちらと輝いていて、パレットの中に色彩を固定することができない。


 降り積もった雪はほんのりと紫がかって青白い。降る雪の色と違い、その色はパレットに作り出せた。筆の先で水を加えて、俺はその色から降る雪の色を再現しようとした。


 だが、いくら時間をかけても、満足のゆく色は出せなかった。

 パレットの角は、俺の歯形で歪んでいった。




――三ヶ月後。


 雪が止んだ。


 濃い紫色の空に、赤みの混じる黄色い光を放つ太陽が輝いている。見かけの大きさは、地球が公転していたときと比べて三分の一程度だ。


 地平線の先まで、ドライアイスの砂丘が続いている。時折強く風が吹くのか、青白い光の粒が空へと舞い上がる。地上から離れた雪の粒子は、他の粒子と共に渦を作るが、数秒ほどで消えていく。


 永遠に降り続くかに思えた雪は止み、もう二度と誰もあの雪の色を表現できない。もちろん、記録装置には映像が記録されているが、どんなに性能が良い記録装置でも、生の色を記録することはできない。


 キャンバスは真っ白なままだった。床に放り投げたパレットの中には、乾いてはがれかけた絵の具のかけらが転がっている。


『水素用エタノールが足りません。有機物を補充してください。ドーム内環境を定常状態に維持するには、あと三体の有機物が必要です』

「もし補充しなければ、あと何ヶ月持つ?」

 俺は立ち上がり、ドーム表面へと歩き始めた。パレットがつまさきに当たり、床と耳障りな音を立てる。


『食事の品質を落とし、照明レベルを落とすことで、約五日間生存することが可能です』

 内と外の境界は、目を凝らすとわずかに反射がある。床とドームとの境界に緑色の蛍光線がなければ、そこに見えない壁があることなどわからない。俺はそっと境界に触れた。冷たくて硬く、滑らかだった。


「有機物を補充した場合は何日だ?」

『約二ヶ月です』

 指先を強く境界に押し付ける。だがドーム壁は歪まず、変化しない。


「二ヶ月と五日間に、何の違いがあるんだ? 有機物を補充する価値はあるのか?」

『あなたがより長く生存できます』

「もう冷凍睡眠室には、両親と兄しかいない」俺は呟く。


 暫くの沈黙の後、コンピュータは言った。


『あなたの両親と兄を冷凍睡眠から復帰させることは、現在の資源では不可能です。一人を有機物として処理すれば二人を復帰させることは可能ですが、あなたの生存期間は今日を含めて二日間になります。復帰させるのならば、体格的に兄を有機物として――』

 言葉を遮るようにして、俺は境界を思い切り殴った。鈍い音が響き、拳に鋭い痛みが走る。


『――二人を有機物として……』

 目の前で何かが落下した。


 俺にはもうコンピュータの声は聞こえていなかった。痛みを忘れ、俺はドームに両手をついた。


 雨だ。


 ドーム表面ではじけた雨は、小さな流れとなって透明な境界を滑り落ちている。徐々に雨は強くなっていく。雨が、ドライアイスの砂丘の表面を穿ち始めている。


「外に出るにはどうすればいい」

 俺はドームの中心に向かって走りながら言った。


『外に出るのは危険ですので推奨しません』

「どうせあと少しで死ぬんだから、俺のわがままを聞け。どこだ。どこから出られるんだ」

『……了解しました。ですが生命の保証はしません。あなたの前方の壁は実はエアロックになっています』


 俺はすぐに走り出した。




 数十分後、俺は十年ぶりに、宇宙服を着て境界の外に出た。


 バイザー越しに空を仰ぐ。雨は途切れることなく降り続き、俺の顔面手前ではじけて消える。


 夕立のようだ。俺が小さな頃よく浴びていた大量の雨だ。雨が降り始めたということは、何らかの理由で暖かくなったのだ。


 永遠の氷結は免れたのだ!


 腰を屈めて、窪みにできた水たまりをすくう。ほんのりと青みがかった水が指先からこぼれ落ちていく。久々に外で見た液体。


 俺は首筋に両手を添えた。どうしても、直接この水を飲みたかった。どんなものが混じっているかわからないが、それでも飲みたかった。


 指で留め金を外し、空を見上げ、一気にヘルメットを脱ぎ捨てた。





 最初は目。


 液体酸素は、俺のすべての組織を凍り付かせた。






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3/27/2004

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