第九節 カナタ対クラウディア
冷たい水の中に身体が沈んでいく。
小さな身体がまるで川に流される木の葉のように、何の抵抗もなく水の中を滑っていった。
半ば朦朧とした意識の中で、きっと自分はもう死んだのだと半分諦めていた。
嫌なことがあった。
別に死にたいと思ったわけではないし、むしろそれは怖いから嫌だったのだけれど。
それでもここでこうして死んでしまうのは仕方がないのかなぁと、そんなことを考えてしまうぐらいには心が弱っていた。
ただ、一つ。
お互いに意見は噛みあわなかったけれど。
魔物に襲われた時に庇ったあの人達は無事でいてくれればいいと、心から願っていた。
全てを救えると、誰もが同じ意見になれると考えたわけではない。
それでも、救える命を助けられないのは嫌だから。
ふわりと身体が軽くなった。
水の中で苦しかったはずの呼吸が、途端に楽になる。
死にたくはない。まだやりたいことが沢山ある。
そう思いながらも抵抗できない。その感触が、身体を包む温かさが余りにも心地よかったから。
「……もう」
いつか聞こえた声がする。
以前聞いた覚えのある声は、その中に深い慈愛を込められていた。
でも、奇妙なことだ。
何故かその声を何度も何度も聞いたことがある。不思議な安らぎをもたらすその声の主が、どうしても思い出すことができない。
「くだらないことで死なないでちょうだい」
呆れたような声にも覚えがある。
何処だっただろう?
いつだっただろう?
とても落ち着くその声は、以前好きな声だと言ってあげたことがある。
そして何より不思議なことがある。
つい最近も、すぐ傍でその声を聞いた覚えがあるのだ。それも何度も繰り返し。
「命だけは助けておくわね。それから先は、自分で何とかなさい。できるでしょう?」
こちらの答えなど聞いていない。
そっと身体が固い何かの上に乗せられる。
そのままぷかぷかと川の流れに乗って、下流へと流されていく。
暖かな感触をもう一度味わいたくて手を伸ばそうとするが、全身を蝕む痛みがそれを許してくれない。
そんな様子を見て声の主は少しだけ、呆れたように笑ったような気がした。
「また会いましょう……と、言いたいけれど。そうならない方がお互いのためね。サヨナラ、カナタ」
顔を上げたかった。
その人物が誰であるかを確かめたかった。
また会えると、そう言いたかった。
でも身体が動かない。痛みと寒さでもう目が開かない。
動けと念じる、必死になって身体を起こす。
やがて少しずつ身体に力が入った。
心の中で数字を数えて、タイミングを合わせて体を起こす。
そしたら何でもいい。彼女の方を見て、声を掛けてやる。誰だか確かめてやる!
そう心に決めて、数字を数える。
「三、二、一、ゼロ!」
「痛ったぁ!」
ごちんと。
そんな音がして、目の前にちかちかと星が幾つも舞った。
「うう……。なにこれ……?」
くらくらとする頭を抑えながらも、辺りを見渡す。
高い天井、身体の下には柔らかいベッド。
そして、
「アタシが何したってんだよ……」
カナタと同じように額を抑えている、長い金髪の少女がこちらを全力で睨みつけていた。
▽
丘の上にある、この街を取り仕切るマルク・ユルゲンスの屋敷。
その一室で、部屋の主は部下達に集めさせた情報を纏めた資料をヨハンに手渡してきた。
「状況はあまりよくありませんな」
資料と言ってもそれほど形式ばったものではなく、漁師や船乗り達が海で見たものを簡潔にまとめさせただけのものだが、それだけでも今の海がどれだけ異常な状況にあるかはすぐに理解できた。
「海は大荒れ、魚の気配もなく……。あの白い魚型の魔物が大量発生していているから船を出すことも外から入ることもできない」
「……はい。こんな状況が続けば、ハーフェンは成り立たないでしょう」
顔を青くして、額に浮かんだ汗を拭うマルク。
「オルタリアには使者を送ったのですか?」
「本来それを解決するのがあちらから送られてきた官吏の仕事なのでしょうが……。生憎ともうこちらに干渉するつもりはないようでして」
「ああ、そう言えばクラウディアさんに海に」
「……はい。お転婆な娘で困ったものです」
それは困ったとかそう言うレベルを超えているような気もするのだが、ヨハンは黙っておいた。彼女がそうしたおかげでこうしてイシュトナルがハーフェンに近付く隙ができたとも言える。
「つまりオルタリアからの支援は期待できない」
元よりあてにしたものでもないがエーリヒのような力のある貴族が来てくれれば、戦力としては申し分がなかっただろう。加えて彼等に御使いの脅威を知らしめることができる。
そこまで考えて、ヨハンは自分の浅はかさを恥じた。
エーリヒがもし来たら、あのルー・シンも来る。そうなれば彼はハーフェンが生み出す利益を見逃しはしない。
直接的な戦闘にならないにしても、ここで彼とやりあうのは避けたい。
「あの、ヨハン殿?」
「……はい?」
向かいのソファに座ったままのマルクが、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「失礼しました。何か?」
「……これは不確定な情報なので、あまり他言はしてほしくないのですが」
気持ち小声になって、扉や窓が閉じられていることを軽く確認してからマルクはそう口を切った。
「禁忌の地、と言うのをご存じですかな?」
「禁忌の地? いえ、すみませんが」
「エトランゼである貴方が知らないのも無理はないでしょう。……とはいえ、我々もその詳細を知っているわけではないのですが」
ゆっくりと、マルクは語りだす。
エイスナハルの信徒達によって伝わる禁忌の地。ハーフェンの沖にあるその小さな島には、古代の遺跡のようなものが残っていると。
エイスナハルはそこに立ち居ることを禁じた。万が一流れ着いたとしてもその封印を解くことを絶対の禁忌とした。
それはハーフェンと、一部の貴族や王族達だけに伝えられた禁忌。そして長い時間の間に半ば忘れられた戒め。
「事実、私もこの街の代表のような仕事をするようになってから一度、信徒の方に言われたきりで忘れていました。決して大きな島ではありませんし、無理に行くような用事があるような場所でもありませんからな」
「それで、その禁忌の地に何か?」
「つい先日、海岸に一隻の船が流れ着いておりました。乗っていたのは見たこともない荒くれ者。しかしどうやら話を聞けば彼等は禁忌の地に立ち入っていたと言います。そこで見たこともない光によって仲間が消滅させられるのを見たと」
「……禁忌の地には御使いがいて、彼等はその封印を解いてしまったと?」
考えられない話ではない。ウァラゼルがそうであったように、御使いは誰も彼もが自由に動き回っているわけではないようだ。
封じられたものが、何かのきっかけで動きだしたという可能性も充分にありえる。
「それもそうなのですが、本題はその後です。何故そのようなことをしたかと尋ねると、どうやら依頼を受けてのことらしいのです」
マルクは一度言葉を切る。この先を果たして本当に口にしていいものかと、今まだ迷っている様子だった。
しかし、ここで口籠ったところで何も変わりはしないと、その続きを口にする。
「依頼主は、ヘルフリート陛下と」
「……なるほど」
「ですが所詮荒くれ者の言うこと。全て信用することもできないでしょう。錯乱していた部分もありましたし」
ヘルフリートが力を求めてそこに部下を向かわせたが、ウァラゼルの時のように失敗してこのような事態を招いた。
彼ならばやりそうな失態でもあるが、同時に腑に落ちない部分もある。
ウァラゼルの件の報告を聞いていながら、自分達が危険に晒されるようなことをするだろうか。少なくとも御使いは人の制御できるものではないと理解しているはずなのに。
ましてや彼はエイスナハルを狂信する五大貴族達の支援を受けて立っている。禁忌の地を掘り返すなど、彼等が認めるとは思えないが。
「……何にせよ、今後のことを考える必要がありそうです」
「はい……。ですが、今後と言うのは」
「現状がどうにもならない以上、取れる選択肢は二つです。御使いを倒すか、この街を捨てて逃げるか」
「……ですか」
マルクの顔色は青いを通り越して白くなっている。
それも当たり前で、どちらを選んでも只事ではない。街一つを捨てて逃げるにも骨が折れるし、納得しない民も大勢いるだろう。
戦うとなれば今度こそどうなるかは誰にも判らない。下手をして怒りを買えば、御使いの力で街ごと壊滅させられるかも知れないのだから。
「少し、時間を頂けますかな?」
「……はい。ですが、あまり長くは」
「判っています……。判っていますが」
そう言ってマルクは顔を伏せてしまう。
それ以上掛ける言葉も見つからず、退室しようとヨハンはソファから腰を上げると、ノックもなく扉が強く打ち開かれた。
「大変ですよ、よっちゃんさん!」
「ラニーニャ?」
片腕にあて木をして、痛々しく包帯を巻きつけたラニーニャが慌てた様子で飛び込んでくる。
「喧嘩です、喧嘩! どっちが勝つか賭けないと終わっちゃいますよ!」
「……そんなことをわざわざ言いに来たのか?」
「ふっふー。喧嘩の相手を聞いても平常心で居られますか? なんとお宅のカナタさんと、うちのクラウディアさんですよ」
「それを早く言え。それから」
ちらりと背後を見ると、マルクは全身から力が抜けてソファに深く沈みこんでいる。
「あまりマルク殿に心労を掛けさせるな」
「わたしは報告に来ただけですので。いたっ!」
悪戯っ子のように笑って誤魔化そうとしたラニーニャに、逃すかとばかりに額をペチンと叩いてやる。
「女の子を叩くなんて酷いじゃないですか」
そうは言うが、ラニーニャの顔は笑っていた。喧嘩もヨハンに叩かれたことも楽しんでいるようだった。
「いいから、行くぞ」
「はいはい。で、どっちに賭けます?」
もう一発引っ叩いてから、ヨハンはマルクに挨拶をして部屋から出ていった。
▽
「もう一回言ってみろよ!」
屋敷の出入り口で、クラウディアがカナタの胸倉を掴み、二人は至近距離で睨み合っていた。
凄むクラウディアだが、カナタとて一方的に脅されているわけではない。彼女にしては珍しく、視線を外すことなくクラウディアをねめつけている。
「今回の件はボク達に任せて、大人しくしてて」
「ふざけんな!」
「ふざけてないよ! 本気だから言ってるんだよ」
事の起こりは、クラウディアの一言から始まった。
目が覚めて、着替えて軽く散歩をするカナタに何故か彼女は付いてきた。
そしてベアトリスのことや、先日の戦いのことをあれこれと聞いて来たのだ。
カナタとしてはそれはあまりいい気分ではない。彼女を恨むわけではないが、ベアトリスの死をまだ自分の中でちゃんと消化できていないのだから。
そして発端は、クラウディアの一言。
「海賊なんかの味方をしてたことは許してやるよ。ちゃんとアタシが護ってやるから、心配すんなって」
怒り、というほどではないがカナタはその無神経な一言に苛立ちを覚えた。
そして不思議なことにそれを抑えることができずに、御使いが相手ではクラウディア達は役に立たないと返してしまったのだ。
「無駄な犠牲者を出したくないなら、ボク達に任せておいてって言ってるの」
「無駄な犠牲ってどういうことだよ? アタシ達が役に立たないって? よりにもよって海の上で?」
「場所なんか関係ないよ。あれは、ボクじゃないと倒せないんだから」
「自惚れんなよ、海賊に掴まってた間抜けの癖に!」
カナタの言い方にも問題があるが、クラウディアもクラウディアで言葉の節々に煽りを入れるものだから、余計に二人の会話は拗れていく。
「その間抜けに勝てなかった人達に言われたくないよ」
「ラニーニャのことをまで悪く言うなよ!」
「遊んでるわけじゃないんだよ? 相手は御使いなんだよ? どれだけ強いかも、どんな奴かも知らないくせに軽々しく戦うとか言わないで!」
御使いは強い。
彼等の持つセレスティアルには、生半可な力では太刀打ちできない。
カナタの知っている人間では異常な強さを持ったヴェスターですらも、ウァラゼル相手には一太刀浴びせることもできなかった。
だと言うのに、自分如きに苦戦しているラニーニャや、ましてや銃を撃つしかできないクラウディアが勝てるわけがない。
だが、その一言がクラウディアの逆鱗に触れた。
ぐっとカナタの身体を引き寄せて、お互いに額と額がぶつかり合うまで近付いて、クラウディアは怒りの声を放つ。
「軽々しくなんかねえよ! アタシ達は海で生きてんだ! その海が変な奴等に奪われて、へらへら笑ってられると思ってんのか? 別にアンタが強いとか、御使いがどうとかなんて関係ないんだよ。自分達の生きる場所、仲間の暮らす世界を奪われたら腹が立つだろ? ぶっ飛ばしてやりたいって思うだろ?」
「……だから、それは……」
「アンタ達に任せろって? それこそふざけんなよ。なんで自分達のことを何処の誰とも知らない奴に任せなきゃならないんだ!」
「……それで死ぬかも知れないんだよ?」
「上等! だいたい、海に出る前に死ぬ覚悟なんかいつでもできてる! それが海に生きるってことだよ、あの海賊がそうだったみたいにな!」
「……ベアトリスさんが……!」
カナタには判らなかったが、同じ海で生きてきたクラウディアにはあのベアトリスの気持ちが少しだけ理解できた。
彼女は死ぬならそれでいいと思っていた。思うがままに航海をして、大きな波にぶつかって死んでいくならそれが一つの幕切れとして相応しいのだと割り切っていた。
「はいはい。格好良かったですよ、クラウディアさん」
そっと背後からラニーニャの手が伸びて、クラウディアの手をカナタの胸元から放させる。
同様にカナタの方にもヨハンがいて、その身体をそっと引っ張って二人の距離を離した。
「ラニーニャ!」「ヨハンさん!」
「二人ともそこまでだ。喧嘩をするなとは言わんが、今はそんなことをしてる場合じゃないだろう」
「だって……!」
「だってもなにもあるか。子供じゃないんだから……いや、子供か」
「なにそれ? ……まあいいけど。ヨハンさん、あいつ、あの御使いを倒さないと」
「そんなことは言われんでも判ってる。もう物資の手配も住んでいるし、兵員に関しては」
クラウディアを見ると、彼女は満足げに頷いてカナタを見返していた。正直なところ、今その対応は遠慮してもらいたい。
「クラウディア達の武装商船団を借りるつもりだ」
「ぐ……。まぁ、ヨハンさんが決めたなら我慢するけど」
「それから」
ここからが大事なことだ。
カナタにとっても、何よりもヨハンにとっても。
「今回の件。お前は数に入っていない」
「……え?」
その一言に、カナタは絶句する。
「あー、つまり。前まではなし崩し的な協力関係にあったが今後は……!」
言葉が途切れたのはヨハンも同様だった。
カナタの頬を透明な水が伝い、落ちていく。
彼女は泣いていた。ヨハンの顔を真っ直ぐに見つめたまま。
「カナタ?」
「っ……!」
「あ、おい!」
腕を伸ばすがもう遅い。
爆発した感情を言葉で抑えることなどできるはずもなく、その後に続く予定だったヨハンの言葉を全て振り切って、カナタはその場から駆け出していた。
「あのさー、よっちゃん。部外者のアタシが言うのもなんだけど」
両手を頭の後ろにやり、呆れた様子でクラウディアがヨハンの横に並ぶ。
「今のはなくない?」
「女心が全く判ってませんね」
そこにラニーニャの援護射撃も加わる。
「……ここからが大事な話だったんだがな」
「タイミングも最悪ですよね。どうしてクラウディアさんと喧嘩して感情が高ぶってるときにあんな切り出し方をするんですか?」
「少しでも早くその話をしておく必要があったからだ」
「それにしたってもっとあるでしょうに」
「だいたい。喧嘩をしていたのはお前の所為だろうに」
「そりゃそうだけどさ」
にへっと薄笑いを浮かべて、クラウディアは全く悪びれた様子もなく、カナタが走り去っていった方向を見つめていた。
「あいつもあいつだよ。これはアタシ達の海の問題だよ? それを危険だから下がってろって……」
頬を膨らませて腕を組む。
「控えめに言って傲慢ですね。彼女はギフトは確かに強力ですが、それに驕っているようではまだまだです。長生きできないタイプですね」
あんまりな言い分だが、ラニーニャもカナタの態度には言いたいこともあるのだろう。
「そうじゃない。あいつは英雄であろうとしてるんだ。今も」
「はぁ?」
「強いギフトを――力を持っているから、その分だけ自分が周りを護らなくてはならないと、そう言い聞かせてるんだ」
「……はぁ」「はぁ?」
クラウディアとラニーニャが交互にイントネーションの異なる「はぁ」で返事をした。
「どうすればそれを拭い去れるのか、俺には判らん」
重々しくそう言ったヨハンだがそれとは対照的に、船乗り少女二人は珍妙な表情で顔を見合わせている。
そしてどちらともなく顔を近づけ、こそこそと何やら二人で話し込んでから。
クラウディアがヨハンの尻を蹴った。
「何をする?」
「ばーっかじゃないの? そんなんしっかり言葉にして伝えればいいじゃん。お前のことが心配で心配で仕方ないから、無理すんなってさ」
「伝えようとして逃げられたんだ」
「あら、そんなの簡単ですよ」
指を立てて、蠱惑的に片目を瞑りながらラニーニャがヨハンの前に歩み出る。
「しっかり捕まえて、逃げられないようにしてから伝えればいいんです。自分の気持ちを素直にね」
「捕まえる……。罠でも張ればいいのか?」
今度は二人同時に、ヨハンの尻に蹴りが飛んできた。
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