第5話 【タケシ】9月30日(木)

 翌朝、出社した僕の目に映ったのは荒らされてめちゃくちゃになった事務所だった。当然というかなんというか、会社の鍵は掛かっていなかった。

 青ざめつつも、僕は落ち着いて機転をきかせた。

 突如現れた暴漢に拉致されたようにみえるよう、パソコンを立ち上げてビジネスバッグをいつもの場所に置いた。鼻の奥を指で引っ掻いて血のしずくをデスクに数滴残した。

 うちの会社は警察の介入を嫌がるに違いない。だから会社は、きっと僕を見捨てる。

 携帯電話を新小岩駅のゴミ箱に捨てた。そうすると妙に気持ちが楽になった。僕は自由だ。これで僕と連絡が取れるのは、世界中でサリナだけだ。

 サリナのベッドの中で、サリナの香りにつつまれながらじっと夜になるのを待った。自分の物がなにひとつないこの空間が、スムーズに現実逃避を完了させてくれた。

 何度か自宅に電話をかけたけれど、仕事中のサリナが出るはずはなかった。着信履歴に気づいたサリナがいつもより早めに連絡をくれることを願う。

 その願いは叶った。いつもより三十分も早く、サリナが連絡をくれた。

「ちゃんといたね。よかった」

 サリナの心からほっとしたような声を聞き涙がにじむ。僕を心配して慌てて連絡をくれたのがわかる。

「サリナ」

「ん?」

「ふたりで、どこか遠くに行かないか」

 またもや僕は、いきなり口走っていた。

「どうしたのいきなり」

「いきなりなんかじゃない。あの公園で、同じスカイツリーを見ていた時から決まっていたことなんだ」

 サリナならわかってくれるはずだ。同じ境遇のふたりは必然として見つけ合うことができたのだから。

「……いいよ」

「じゃあ、今すぐに」と言いかけたところで、サリナが急に焦ったような声を出した。

「ごめんまたすぐかけ直す。だからちゃんと家にいてね」

 返答する間も無く通話は切れてしまった。

 そこから三十分、僕は二人のこれからに思いを馳せていた。驚くことに不安な気持ちがまったくない。サリナと一緒ならなんでもできる自信がある。

 インターホンが鳴った。無視していてもその音はやまなかった。在宅なのは部屋の明かりでばれているので、仕方なく立ち上がると電話が鳴った。もちろん電話を優先した。

「もしもし、サリナ」

 サリナは黙ったままだったので、僕はかまわず溢れる本音を続けた。

「よく聞いてほしいんだ。今回のホーム・エクスチェンジで僕たちはお互いの――」

「誰か来てるんじゃない?」

 インターホンは鳴り続けている。でもそんなことは関係ない。

「どうでもいいよ。僕が言いたいことは――」

「よくない。出てみて」

 そこで悟った。玄関扉の向こうにいるのは……、サリナだ。僕の家から歩いてちょうど三十分。落ち込む僕を励ますための特大のサプライズ。

 玄関までの僅かな距離を走った。勢いよく扉を押し開けると、チェーンが繋がったままだったので、頭を派手に打ち付けた。痛みをこらえて扉の隙間にごまかしの笑みを浮かべる。わずかな隙間から見えたのは三人の宅配業者風の男だった。

「……誰だ、お前」

 先頭の長身の男がすごんできた。そこですぐにピンときた。こいつは宅配業者を装ったサリナの前の彼氏だ。となれば対処法は決まっている。

「僕は、……ケンジ」

 三人が顔を見合わせてざわついた。それほどサリナの兄は恐ろしい存在なのか。

「まさかの本人登場か。さっさと開けろ」

 男はひるむ様子もなく言った。頭に混乱が走る。

「……ちょっと、待ってください」

「待たない。俺らの仕事は九月三十日の二十一時、お前がくすねた一千万を回収することだ。ゴネるようなら拉致って届ける。家にいるのはお前の女だって話だったけどな」

 怖くなり、扉を閉めようとすると男は足を差し込んできた。リビングに逃げ帰り受話器を手に取るとまだ電話は繋がっていた。

「サリナ!」

「なに」

 僕とは違い、事情を知らないサリナは不思議なくらい落ち着いてた。

「ヤバイ、乗り込んできた。あいつらケンジって名乗ってもぜんぜんビビってない。どうしよう、サリナ……」

「どうしたらいいかね」

「そんなのんきにしてる場合じゃないんだよ!」

 驚くくらい大きな声が出た。そこで当然の展開を思いつく。

「……そうだ、警察だ」

 警察に電話するにはこの電話を使わなければならない。

「サリナ、ごめん、一回、電話を切るよ。きみは危険だから絶対にこっちに近づかないように」

 笑い声が聞こえた。

「警察呼んでいいの?」

「は?」

 言葉が見つからずにいる僕に構わず、サリナはわけの分からない話を続けた。

「あたしだってさ、最初は、本当に見つけて助けようと頑張ったんだよ」

「……見つけたじゃん。サリナは、頑張って、あの時、あの場所で、僕のことを見つけ出したじゃん! そこから僕たちは始まったんじゃん!」

 そこでふと、放置していた疑問が浮かび上がる。なぜサリナはあの時間、あの公園にいたのだろうか――。

 その答えはすぐ直後に明らかにされた。

「あたしが必要だったのはあんたじゃなくて、ケンジが住んでたこの部屋だったんだよ」

「え……」

「最初から怪しいとは思ってたけど、まさかここまでのサイコ野郎だったとはわたしの見立ても甘かったわ」

「……騙した、ってこと?」

「自業自得でしょ」

「……僕はサリナを騙したりしてない」

「ふざけんな! あたしは全部、庭を掘り返したんだよ!」

 視界に一気にノイズがかかる。両手に蘇る感覚。細く柔らかいミキの首、僕の腕に食い込む派手なネイル……。

 全身の力が抜け落ちて膝から崩れ落ちた。

 ガンと音がなり玄関ドアが開いた。切断されたチェーンが垂れ下がっている。三人の男が音もたてずに入り込んでくる。

 サリナの声だけが妙に鮮明に頭に入ってきた。

「エクスチェンジ」

 僕はもう声が出せない。視線は土足で近づいてくる男たちに固定されたままだ。

「交換したんだよ、あたしたちは」

 電話が切れた。

 三人の男たちがそれぞれ物騒な道具を手にして僕を見下ろしていた。

「……僕は、ケンジじゃないです」

 なんとか声を絞り出す。すると背の低い男が前に出てきた。プロレスラーみたいな屈強な体格だ。

「もういい。金でもお前でも変わらねえんだ」

 レスラーが合図を送り長身の男が黒いガムテープを伸ばした。と同時に閃くものがあり、僕は最後の力を振り絞る。

「待ってください。サリナは金のありかを知ってるって言ってました。僕は彼女の居場所も浅草の勤務先だって知ってます。無関係な僕なんかをさらってリスクを犯すよりも、あの女をさらって風俗にでも売っぱらった方が得じゃないですか。なんなら僕があの女を殺してやりますから」

 男たちの動きが止まった。僕の考えに興味を持ったのがわかる。あと一押しだ。それできっと乗り切れる。

「あなたたちもさすがに人を殺した経験はないでしょ? 僕は解体方法から処理法まで完璧に知ってい――」

「あるよ」

 レスラーが振り上げた特殊警棒がしなった瞬間、床に倒れていた。ガムテープで全身をぐるぐる巻きにされて段ボール箱に詰め込まれた。

 真っ暗な視界のなか、廊下を進む台車のタイヤがすぐそこで鳴っている。ミキもこんなに暗かったのかと思うと、サリナの言う自業自得の意味がようやく理解できた。

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