第三章(3) 新しい友人と、胸の痛みと
糸司から渡された封筒の住所は、路面電車に乗って二つ先の駅。隣町のものだった。
それよりも、糸司の店を利用する人物がまさか隣町にもいるとは思っていなかった。それほど彼の店の評判は良いのだろうか。
そんなこんなで辿り着いた邸宅は、紅緒の自宅よりもはるかに長大な屋敷だった。吉満邸と比べ、どちらが大きいだろうか。思わずそんな不謹慎なことを考えてしまうほどだ。数分前にこの場所にやって来た時、随分塀が続くなぁ、と思っていたが、まさかそれがひとつの邸宅のものだとは。
恐る恐る門の戸を叩き(これがまた、巨大で立派な造りの扉なのだ)、中から出てきた使用人に手紙を届けに来た旨を伝えると、紅緒はそこでしばらく待たされることとなった。郵便事業がそれなりに発達しているというのに、わざわざ尋ねてくる見ず知らずの人間。……うん、確かに怪しいか。
(一応、私も「御令嬢」ってやつなんだけど……)
否、不審ではないが、一般的な御令嬢とやらに比べれば自分はかなり粗野な方だ。もっと周りを黙らせるほどの淑やかな雰囲気を身につけなくては駄目なのだな、と紅緒は少々落ち込んだ。
「お待たせいたしました」
その時、確認を取りに行っていた使用人が戻ってきた。「櫻井紅緒様。お嬢様が是非直接お会いしたいということですが……いかがいたしましょう」
まさか本人に会うことになろうとは。断る理由はないが、私なんかでいいのだろうか? その旨を伝えると、彼はゆっくりと首を縦に動かした。
「お嬢様は病床の身。同年代のお友達もおりませんので、話し相手になっていただければ幸いでございます」
そういうことなら、と紅緒はお言葉に甘えて屋敷に上がらせてもらうこととなった。
伝統家屋の平屋は非常に風通しがよい。渡り廊下から見える手入れの行き届いた庭園は、御当主様の趣味であらせられるそうだ。
(自分を「御令嬢」って言うの、やめた方がよさそうね……)
そんなことをぼんやりと考えているうちに、彼女はとある部屋に通された。障子越しに使用人が声をかける。
「お嬢様。櫻井紅緒様がいらっしゃいました」
「お通しして」
透き通った鈴の音のような声が聞こえてきた。同じ女として、羨ましいと思う程の美声だ。
使用人がそっと襖を引いたので、紅緒は一度床に座り、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、
頭を上げてくださいな、と無邪気な声が頭上から響いた。ふと顔を上げると、一人の少女が紅緒を見て優しく微笑んでいた。
年齢は、おそらく紅緒と同じくらい。肩までの栗毛は毛先だけ内側に癖づけられ、それと同色の瞳はくりくりとしていてとても愛らしい。肌の色だけは青白く、あまり体調がよさそうには見えなかったが、彼女の見目麗しさはすぐに納得した。
自分が男だったら、間違いなく一目惚れしている。
「
彼女――梓が言うと、使用人は一礼して部屋を出ていった。襖が完全に閉まり、その場を離れていくのを確認したのち、梓はふっと口元に笑みをこぼした。
「ごめんなさい、こんな恰好で……」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げる。来客だというのに夜着のままでいることが恥ずかしかったのだろう。頬が微かに紅潮している。
「いいえ、私こそ、突然お邪魔してすみませんでした」
そこで、紅緒は糸司から預かった封筒を梓に差し出した。「これを、吉満糸司から預かってまいりました」
まあ、と彼女は表情をぱっと明るくした。嬉しそうにそれを受け取ると、愛おしげに胸に当てる。彼女の手も、まるで人形の肌のようになめらかで美しかった。爪なんか、まるで桜貝のようだ。
その時だ。
(あれ?)
突然胸がちくりと痛んだことに、紅緒は戸惑いを覚えた。どうしちゃったんだろう、と考えるも、梓を不安がらせるのはよくない。すぐにその気持ちはなかったことにした。
「――ええと、櫻井紅緒さんでしたわね。あなたの御尊父様にはいつもお世話になっております」
まさかここで父の名を聞くとは思っていなかった。知らなかったことだが、彼はこんなところにも顧客を持っていたらしい。
「前に来ていただいたときに、同い年の娘さんがいるとお聞きしまして。是非お会いしたかったんです。私、生まれつき身体が弱くて……同じくらいの女の子と話したことがないの。だから来て下さって本当に嬉しいわ」
そしてふわりと笑う。思わず紅緒自身がどきどきしてしまうほどに、もう可愛らしいことこの上ない。
「ねぇ、紅緒さん。お嫌でなければ、私とお友達になってくださらない?」
そんなに嬉しそうに言われてしまっては、もう頷くしかないだろう。紅緒自身、梓がとても気に入ってしまったし、自分でいいのなら、喜んで引き受けるところだ。なにせ、同い年の友人が少ないのは紅緒もそうだから。
「ええ。喜んで」
「本当? 嬉しい!」
飛びつきそうなくらいに真正直に感情を表現する梓に、紅緒はほっと胸をなで下ろすも、なにか胸に靄がかった気持ちが溜まっていくのを感じた。先程彼女に封筒を渡した時から微かに感じる、ちくりとした胸の痛み。嬉しそうに手紙を受け取った彼女の残像が頭から離れない。ぐるぐると駆け巡る靄をなんとか振り払い、紅緒はにこりと微笑んだのだった。
そのまましばらく梓と会話した後、梓は一筆したため、紅緒に渡した。
「谷木に頼んでもいいのだけれど……あまり家の者には知られたくないの」
「気にしないで。私、梓さんに力になれるの、本当に嬉しいわ」
そんな感じでまた会うことを約束し、紅緒は『赤糸屋』へと戻ってきたのだった。店の戸を開けると、糸司は椅子に腰かけ、そろばん相手になにか書き物をしている。おそらく、帳簿でもつけていたのだろう。紅緒の姿を見るや否や、糸司はふっと破顔する。
「おかえりなさい。随分遅かったね」
「梓さんとお話していたの」
梓さんと? と糸司が目を丸くした。そんなまさか、とでも言いたげな顔である。
「とても可愛らしい方だったわ。同じ女として、羨ましいと思うくらいに」
懐から預かった手紙を取り出し、それを糸司に差し出す。「これ、預かり物です」
「ああ、ありがとう」
これは驚いたな、と糸司が言うので、紅緒は思わず首を傾げた。「あ、いや。梓さんは、普段外部の人とお会いすることなんかないから。実のところ、おれも会ったことがないし」
「そうなの?」
「うん。おれは手紙でやりとりするだけ。生憎、面識は全くないな」
よほど紅緒さんは気に入られているんだね、と言うので、紅緒は敢えて苦笑しておいた。
そんな紅緒の横で、糸司は手紙の封を切っている。
「……紅緒さん。梓さんはなにか言っていたかな?」
「え? なにか、というのは」
「相談事とか」
それは思い当たらない。紅緒は首を横に振ると、糸司もそれ以上追及しようとはしなかった。
三つ折りにされた便箋を開くと、紙から微かに漂う伽羅の文香。こういう些細な気遣いも、紅緒にとっては心底羨ましいことのひとつだった。思えば思う程、彼女は女らしい。
ふむ、と難しい顔をしながら手紙を読む糸司に、紅緒は声をかけようとして――結局やめてしまった。頭の中に梓が微笑む姿がぐるぐると渦巻いて離れない。
ねぇ、糸司さん。
文を見つめる彼の背中を見つめながら、紅緒はそっと息をついた。
なんで、こんなに不安なんだろう。
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