制帽-百あまり二つ-

 頭の上の空がいつもより寂しい。撫でられる父の手のように大きい優しさは今、彼の手中。わざとのように後ろを振り向けば、それと全く同じくして背を向ける。くすくすくすくす、笑い声。彼の人差し指は、あいもかわらず僕の目に。突き刺さって抜けやしない、鋭利な氷柱つららは眼窩を抜いて窪みの奥まで残っている。ぐじゅ、と、脳漿の漏れ出す音が耳にこだました。気のせいだと、願いたい。

「サイトーくん今日はお帽子かぶってないんだねえ?」

 くすくすくす。席に座って帰る準備をしている時に、声をかけたのは、クラスの中心人物。彼。真ん中で脚を広げて踏ん反り返る、。そんなに高いところから、目を下に向けるのは、疲れたりしないのだろうか。相手によって口調や態度を変えて、面倒になったりしないのだろうか。彼は前屈みになって、藍色を鏡にして自らを映させる。上がった口角は愉快そうだ。どうしてそんなに楽しいんだろう。

「楽しいですか?」

「は?」

 感じた疑問をそのまま口に出す。眉を歪めて理解不能を表すように、彼は「きも……」ぐぢゃり、顔を。そして口角を吊り上げ、にちゃ、また、笑う。

「何、厨ニ? やっぱきもいわお前。なあ聞いた? なあ、なあ聞いた今の?」

 ぐるり、辺りに首を回して同意を求める。周りの彼等彼女等は、視線を地面に食われてしまい、他の何も見えていない。床を眺めるのがそれほど楽しいのだろう。生憎、藍色は床を見てもあまり楽しくない。いや、

 厭なものを見るよりかは、

 マシだろうけれど。

 誰も囃し立てない。が、誰も何も言わない。逆らうと自分の番、そういう、定番、お決まり、予定調和的集団意識。心のうちではどう思っているのかわかったものではないけれど。でも、きっと思っていることだろう。自分に被害が及ぶのが恐ろしくて恐ろしくて堪らないのだ。彼に目をつけられるということは、それだけで一年、いや、卒業までの自らの学生生活の死を意味する。あと残り十ヶ月の死。縋る彼等。きっと、彼等彼女等にとっては命を失うに等しいほどの悪夢であり、地獄のようなものなのだろうと、思う。彼等彼女等にとっての絶対。

 気持ち、悪い。

「きもち、わるい。」

 思わず口をついて出たのは、何の感情も籠らないただ一重の意思、ぽつんと溢れたそれを拾い掲げ彼はまた顔を歪める。しかしそれは先ほどまでの愉快そうな、楽しそうな笑い方では無い。不愉快、無理解、不可解、蔑視。心底嫌う顔。藍色の存在を許さない顔。悪意に満ちた、じぐざぐな、なんとも言えない表情。

「何言ってんの? 訳わかんないんだけど。普段から変なとこ見てるお前の方が気色悪いだろ。空気とオハナシ? あれだろ? エアトモ? ボッチは可哀想だねえ?」

 歯と歯の間から漏れる空気は、彼が愉快そうに見せるための虚構のために、絶え間なく響き渡る。

「あとお前の制帽、気色悪い。何なんだよあれ、カイコってやつ? ゲンジツトーヒ?」

 気色悪い、気色悪い、そればかり。つまらなくはならないのだろうか。

「サイトー迷路。この名前も気色悪いよな。何、迷路って。名前まで厨ニかよ! 生まれつき厨ニ病? おかわいそうでちゅねえ?」

 げらげらげらげらげら!

 一息に言い切り、彼はわざとらしく大声で震わせた。ちゅうに、とはなんだろう。先ほどから何度も繰り返されているが、さっぱりわからない。帰ったら隘路に聞こう、と心の隅に置いておく。

 ひぃっ、としゃくりあげるように息を吸い込み、彼は笑った。


!」


 頭の中が、

 何もなくなった。

 夢中だった。

 無我夢中だった。

 跳ねて立ち上がり、襟首を締め上げる、締め上げる、締め上げる、掴み上げる、掴み上げる、掴み上げる、そう、それを、それが、今まさに。その時。その時。視界の端に見えたのは。視界の端で見えたのは。

 こちらを見ている観衆どもの中、安心しきった表情、安堵しきった表情、まるで予定調和。その気の抜けきりだらんと垂れ下がった半袖の腕。

 僕は体をひねる。ぐぎ、腰が悲鳴をあげる。椅子を支えに向きを変える。足を踏み出す。その腕目がけて大股に、右足を軸にして飛び上がった。標的の変貌に驚き、後ろへ転げ落ちたそれに、触れる直前で僕は自分の体を急停止させる。ぎじ、痛む。

「なん、なんだよ! なんなんだよ!」

「返して下さい」

 すくりと立ち上がり、手を差し出す。そいつは自分に向けられた手と藍色を何度も何度も交互に見、大きく何度も何度も首を横に振った。冷や汗まみれの顔は蒼白で、否定し続ける。

「知らない、知らない! 俺は盗んでない!」

 腕。腕。腕。全面。全面に、全面に、全面に。

 大小様々、目玉。

 目玉、目玉、目玉。沢山の目玉が腕にくっついていた。ぎょろりぎょろり、一つ一つがまちまちに動く目玉たち。そいつは自分の腕の数多の目玉に気づいていない。いや、気づいていない、んじゃない。見えてないんだ。見えないんだ。

「お、俺は頼まれたんだ! そいつに頼まれたんだ! 俺は悪くない、俺は悪くない!」

 甲高い声で叫ぶ。それを後ろの彼は聞き逃さなかった。

「はあ?! 何言ってんだクソデブ! 喋んなっつっただろ! じゃねえとお前も殺すぞ!」

「やってない! 俺はやってない! 俺は悪くない! 俺は悪くない!」

 きょろり。きょろり。目玉が動く。きょろり。きょろり。くるりと回る。

「俺は、お、俺は、俺は、俺は! 俺はお前の、お前の、お前の、帽子なんか、盗んでない!」

 その時だった。

 目玉たちが一斉に、そいつの顔を凝視したのは。

 目玉たちに凝視された、その顔が、恐怖に歪む。ひっ、喉の奥で息を飲んで、

「うわあああああぁぁぁぁああぁああ!」

 ぶんぶんと腕を振り回した。

 目玉だらけの腕を避けて、後ろに下がる。目玉は常にそいつの顔を見ている。机に打ち付けられ、椅子にぶつけられ、それでもそいつの顔を見続ける。クラスの観客たち全員が悲鳴をあげそいつから遠ざかる。

「いやだ! いやだ! いやだ! なんだこれ! いやだ! いやだ! いやだ! 助け、助けてくれよお! 助けてくれよお!!」

 そいつの腕はきっと、他の人の目からすれば打ち身だらけの単なる腕に過ぎないだろう。––––––しかし何が起こったのか、そいつは自らの腕を《己のものではない》、《人と同じではない》、《今までとは違った別個の何か》として認識している。混乱。混乱だ。パニックだ。

 そいつはおもむろに、ぶちまけた誰かの筆箱の中に入っていたそれを抜き出す。

「あああぁぁぁぁああああ!」

 きらり、と。蛍光灯に瞬き、それは目玉に




 突き刺さった。




「いあああああぁぁぁぁあ!! 痛えよお! 痛えよお! 痛えよお! 消えねえよお! 痛えよお!」

 のたうちまわるその体を。ステンレス製の鋏の突き刺さった地面に跳ねる腕を。苦悶に涙し鼻水を垂らし、涎を撒くその顔を。

 その場の観客たちは、立ち竦み。

 見ていることしか、できなかった。

 僕はただ、

 僕もただ。

 見ていることしか、できなかった。

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