ご飯食べよ
豆崎豆太
徹と康平
残業のお弁当
恋人が部屋に戻ってこなくなって二日が経つ。
破滅の危機とかそういう話ではなく、単にシステムトラブルの緊急対応だとかなんとかで会社に泊まり込んでいるだけだ。恋人の仕事の話は、康平にはさっぱりわからない。
一緒の部屋で寝起きするようになってたった半年、それなのにもう、ほんの二日で耐えられなくなるほどには恋人の居る生活に慣れてしまった。時刻は二十二時を回っていて、ついさっき、ごめん今日も帰れない、と連絡が入ったところだった。
『仕事と私とどっちが大事なのよ』
『ごめん。けどそれ言いたいだけでしょ』
『滅多にないチャンスかと思って』
二、三のやり取りの後、メールの返信が途絶えた。仕事中だろうから仕方ない。
寂しい、会いたい、帰ってきてほしいと言うことを社会人のプライドが許さず、好きなことを仕事にして今まさに奮起しているだろう恋人にわがままを言うわけにもいかず、枕を抱えてしばらく悩んだ後で、康平は包丁を手に取った。
鶏もも肉をぶつ切りにする。続けて人参、ごぼう、れんこんも乱切りに。根菜類は水から軽く茹で、ざるにあげておく。
ごま油を敷いたフライパンで鶏肉に軽く焼き目を付けたら、火を通しておいた根菜類と炒め合わせる。フライパンに酒を入れて鶏肉に火が通るまで蓋をして蒸し、砂糖、醤油で味をつけて照り煮にする。
酢を入れようか少し考えて、やめた。代わりに白ゴマをまぶす。
ほうれん草は根元の部分に切込みを入れ、水に浸けてよく洗って、根本から沸騰したお湯で湯がく。いち、にい、と数えて三十秒。葉の部分もお湯に沈めてから三十秒。冷水にとって絞り、出汁醤油を掛けて置いておく。
卵ふたつを溶いて、顆粒のだしとちょっとの水、それから同じくちょっとの醤油で味をつけてフライパンで焼く。少し焼いて巻き、少し焼いて巻きを繰り返しただし巻き卵は、恋人のお気に入り。
二段重ねのお弁当箱のうち、片方にご飯を詰めて薄く切った茗荷の甘酢漬けを乗せる。この時期にはさっぱりしておいしいご飯になる。
「よし」
紙袋にお弁当と替えのシャツとを入れて部屋を出る。
そろそろ俺の手料理が恋しくなる頃だから。きっとシャツも替えられなくてうんざりしているだろうから。
言い訳なら用意した。だから大丈夫。
『今、外にいる。出て来られる?』
『すぐ行く』
***
「康平」
外にいるんだけど、出てこれる、とメッセージが飛んできて慌ててエントランスに降りると、康平が紙袋を提げて立っていた。トラブル対応で会社に泊まること現在二日目と三日目の間。昨夜も完徹ではないにしろほぼ徹夜で、たった一日二日とはいえ一緒に暮らす恋人に会えないことにげんなりしていた頃。
「どうしたのこんな夜中に」
「会いたくなった。だから、言い訳代わりに替えのシャツと、夜食っつーか弁当持ってきた」
受け取った紙袋には、確かにシャツと水筒、弁当箱が入っていた。シャツにお弁当、恋人が会いに来てくれたこと、その全部が嬉しくてどこから喜んでいいのかがわからない。
「ありがとう、ちょうど飢えてたところ。シャツも嬉しい」
「……そんで、今着てる方のシャツ、よこして。抱いて寝る」
襟元を掴むように示されてそのまま、ほんの一瞬唇を合わせた。こんなところで、と康平は怒らない。それくらいには寂しがらせていたのだろうと思う。
「ごめん、身勝手はわかってるんだけど、寂しかったから会えて嬉しい」
「好きなこと仕事にしてるんだから無理したい時もあるんだろうけど、たまにはちゃんと休めよ」
「うん。明日、っていうかもう今日だけど、夜には一回帰るから。――ちょっと待ってて、シャツ替えてくる」
脱いだシャツを康平に渡し、もう一度謝ってから部署に戻ってお弁当を開ける。水筒の中身は温かいお茶だった。ここ二日まともに感じていなかった食欲が急に膨らむ。
同じく残業していた先輩がコーヒーを片手に俺の背後を通りかかって、お、と声を上げた。
「何それ羽多野、愛妻弁当? つかよく見るとシャツ替えた?」
「恋人が、さっき下まで持ってきてくれたんです」
柄でもない自慢が出たのは、たぶんそれくらいには寂しくて、それくらいには嬉しかったせいだ。普段は隠して独り占めしておきたい気がするのに、今ばかりは誰かに話したかった。これから部屋に戻って、徹の替えたシャツを抱いて眠るのであろう恋人のことを。
「マジか羨ましい、一口よこせ」
「蓋の裏についた米ひと粒でも嫌です」
けちくせー、と文句を言いながら、先輩は近くの椅子を引きずってきて座る。鶏肉と根菜の照り煮、だし巻き卵、ほうれん草のお浸し。茗荷の甘酢漬けが乗ったご飯はさっぱりして美味しい。
コンビニで食事を摂るときはいつもパンかおにぎりで、食べながらキーボードを叩いていることも少なくない。それを知ってか知らずか、恋人の料理は優しく、食ってる時くらい休め、俺の飯には集中しろとでも言われているかのようだった。
「つか何、マジでうまそう。彼女何してる人?」
「飲食で厨房に入ってるんです。調理師免許取りたいって」
彼女、という部分は敢えて無視する。ある側面から見ればあながち間違いでもない。
「うわー、いいなこんな飯待ってたら帰りたくもなるよなあ」
「だから早く帰らせて欲しいんですけどね」
言うと、俺に言われてもなあと先輩はげらげら笑った。先輩の一存では仕様も納期も変わらないのだから当然だ。
「さっさと結婚しちゃえよ、残業のし過ぎで愛想尽かされないうちにさ。こんな夜中にシャツと弁当差し入れてくれるような子、二度と捕まんねえぞ」
どうせ他の誰かを捕まえる気はない、と思ってから、結婚という甘やかな響きに一人苦笑する。
(愛想尽かされる前に、ね)
付き合うようになって四年、一緒に暮らし始めて半年、今以上の進展は存在しない。結婚という枠組みの外で暮らす日々を徹自身は悪く思っておらず、恋人もまた気にする様子はないが、実のところどうなのかと訊ねる勇気はまだ無い。
『おいしかった。ごちそうさま』
空になった弁当箱の写真を添付し、恋人へメッセージを送る。恋人の眠りは深い。おそらく起こしはしないだろう。
『いつもありがとう』
愛してる、と打ち込んで少し笑ってからそれを消し、ありがとうまでを送信した。
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