第48話 【番外編】 日羽アリナ

 榊木彗という男が私の元に現れたとき、私は最悪な気分だった。




 私はいつも小さなノートを持ち歩いている。

 変哲のない普通のノートだけど人には絶対見せられないノートだ。このノートは私の証明であり、私の道しるべとなるとても大切なノートで、これをなくしたら私は耳を塞いでしゃがみこんでしまうと思う。

 私の中にもう一人の自分がいるのを自覚したのは中学三年生のときだった。違う、逆だ。私がもう一人だ。


 色が爆発した。


 その爆発以前の世界を知らないから私にとってそれは産声みたいなものだった。

 自分がどこにいるのかも誰なのかもわからない。真夏の陽光に汗を垂らしていた女子高生が道路で立ち尽くしていた。登校中のようだった。

 肩に提げていたバッグを恐る恐る開けて中身を確認しても、私物には思えない。まるで強盗でもしてきたかのような気分になった。

 スマホの指紋認証が通って初めてこれが自分のものなんだと知った。私はまず自分を知ることから始めた。

 名前は日羽アリナ。住所は通販サイトのアカウント情報に記載されてあった。連絡先を覗いても名前から顔を思い浮かべられる人は誰もいなかった。お母さん、という大事な人の顔さえ。父の連絡先は見当たらなかった。

 耐えがたい孤独感に私は押しつぶされ逃げるように公園に入り、ベンチに座った。学校に行くなんて無理だ。

 

 私は中学三年生で――日羽アリナ。


 家には一冊のノートがあった。

 日羽アリナ、とだけ表紙に綺麗な字体で書かれていた。勉強道具かと思って軽い気持ちで開いた。

 表紙の裏にはまずこう書かれていた。


『このノートに書き覚えがないのなら久しぶり。次のページから始まるのはあなたの歴史よ』


 はぁ……。

 私はイタイ子なんだと思った。こんなノートを書くのは男子だけだと思っていたから自分に失望した。恥ずかしくなる前に私は読むのをやめた。

 お母さんはまだ帰って来ていなかった。仕事に出ているようだ。

 素顔は飾られていた写真でわかった。でも写真だけではどんな人か推し量るには厳しかった。それに私はどんな口調でお母さんに話しかけ、どんな態度をするのか知らない。会っても訝しげな顔をされてしまう。

 なるべく秘密にしたかった。私のクオリアが母を心配させてはいけないと叫んでいる気がした。

 だからスマホの録画した動画とか参照して『私』を見つけようとしたけれど何もなかった。痺れを切らして私はあのノートをまた開いた。


 二、三ページ読んで気分が悪くなった。

 事細かに日羽アリナについて記されていたのだ。

 誰が好きで、誰に告白されたか。

 身長、体重、視力、血液型、口調、声色、表情、立ち振る舞い、性格、人間関係、お気に入りの喫茶店、趣味。

 私のステータスが洗いざらい記録されている。そして毎日何があったかも書かれていた。一日たりともサボっていない。 ノートは合計で九冊あり、約三年分だ。小学六年生後半から中学三年生の今に至るまでの全記録がここに詰め込まれている。

 私はまず近況の情報が載っている九冊目のノートに目を通した。九冊目のノート、そこには中学二年生の夏から今日に至るまでが記されている。時を忘れて私は自分の人生をなぞった。記録にはただ何が起こっただとかこうしただとかの事象より、その時々の感情に重きを置いている。一つの事象に、十のリアルタイム感情と五の感想。そんな割り振りだ。


 私はとてもモテるそうだ。

 確かに一度洗面所で顔を洗いに行って初めて自分の顔を見たときは「すごい。めっちゃびしょうじょ」と言葉が漏れた。つい、まじまじと見つめてしまった。他人事のようだが紛れもなく私のことだ。

 私に告白してきた人の名前が並べられているページはおぞましかった。経緯と結果と感想がご丁寧に添えてある。そして見事に全部断っている。そのきっぱりとしたスタンスは、他人事のような感じだった。自分を見下ろすように、日記を書くために自分を使っているとさえ思える。


 そう、今の私のような感じだ。これを書いたのは日羽アリナ自身ではあるが私が書いたわけじゃない。第三者の視点で現にこの記録を読んでいる。

 意外にも私は親近感がわいた。

 世界でたった一人かと思っていたら私に似た境遇の子がこのノートにいたのだ。そして私だけのために存在している。


 私はいじめられているとわかった。

 原因は嫉妬だそうだ。この件にさえ日羽アリナは客観的に書いている。動揺して字体がぶれていることもなく、つらつらと文字が走っていた。

 日羽アリナは誰に対しても差別なく接する女の子だがある一線以上には踏み込まず、踏み込ませない。

 別にその立ち振る舞いが悪いわけではないが、その態度に腹を立てる輩がいたようだ。その輩がそう思ってしまう、認識してしまう、というのはごく自然なことだからしょうがない。どう心を変色させるかは制御できない。考えてはダメ、なんて無理に決まってるから。

 日羽アリナはそういった人間くさい激情にのまれていじめの対象になったようだ。だが彼女が悲観しているような雰囲気はなかった。平静を装っているだけかもしれないがどこまでも客観的だった。小説でいう神の視点だ。達観している。

 

 一通り目を通したところで我に返る。そもそも私は何者なのだろう。私は何もわからない。赤ん坊のようにゼロではないが繋がりがない。

 このノートは私宛だ。この日羽アリナは私の存在を知っている。でも私はつい数時間前に生まれたようなものなのになぜ? 生まれる以前から私を知ってるなんてエスパーか何かなのだろうか。未来予知?


 私は彼女を知らないけど彼女は私を知っている。

 まるで記憶喪失の少女だ。

 




 翌日、私は学校に通った。

 お母さんとはノートに書かれているような振る舞いと口調を意識して、あと予備知識のような項目があったのでそれを頭に詰め込んで接していたら特に不審がられるようなことはなかった。とてもいい人だと思った。

 つい他人事のように言ってしまった自分を責めた。大切な血のつながった母親なのだからそんなことは言ってはいけない。

 学校に通うということに恐怖を覚えないわけではなかった。これに関しては誤魔化せない。どれほど私は嫌われているか憎まれているかも文字の上でしか知らない。結局は文字だ。表現の限度がある。

 

 一日を終え、陰口がひどいと判明した。

 聞こえるか聞こえないか微妙な声量で私のそばで囁く。


「気取っちゃって」


 それは私に言っているのではなく日羽アリナだというのは知っている。だから気にしないと心に決めていたが意外と腹が立った。正直、火山の炎のように憤慨した。私の唯一の味方で、私が知るずっと前から私を支えようとしてきた日羽アリナを貶すような相手に対して無感情は貫けなかった。


 というわけで私は日羽アリナのために戦おうと思った。私も日羽アリナだけど性格は真逆のようだ。

 私は気が強くて口が悪い。ノートの日羽アリナは可愛げのある少女だが私はあえて演技をするのはやめようと思う。彼女を守るために。

 いつの日か私と交代するときのためにも私を貶めようとする人を徹底的に拒絶して、いざ人格が入れ替わったとき困らないようノートに書き記そう。 


 そう決めてから学校で私の評判はがらりと変わった。ドSになったとか人が変わったとか。人が変わったのは本当だけど。

 いい兆候だとは思う。あのままいじめられていたら彼女は自殺でもしていたと思う。あそこまで客観的に自分を見つめることは異常だ。精神分離とかそういう類の心理状態だと思う。だとしたらもう彼女は限界だったのだろう。現に私がいることがその証明になる。

 それでもいじめ行為は散見された。女子のネットワークやコミュニティは恐ろしいものでたちまち私への嫌がらせはヒートアップした。陰険としかいいようがないような地味なことばかりだ。机、靴に砂。靴がない。無人扱い。

 だが学校全員が敵というわけではなかった。男子からは熱烈なアイラブユーを貰うし、一定の女子は偏見なく接してくれた。コミュニティが違うんだと思う。 


 そうして数ヶ月が経過したとき、まる三日間記憶喪失になった。 

 タイムリープみたいだと思った。瞼を閉じ、次開いた時には景色が変わっていた。しかも三日間経過していた。理性で冷静に努めようとしても、本能の方は震えがった。私はすぐノートを開いた。予想通りもう一人の私が文章を残している。


『もう死んでもいいかな』

 

 世界が崩壊するような恐怖に襲われた。何があったのか私はすぐに調査した。

 時間はかからなかった。お母さんの弁当がぶん投げられたそうだ。そこまで過激なことは今までなかった。むしろ最近は沈静化していたのだ。私が強気になったから相手もつまらなくなったのだと思っていたのだがどうやらあっちは我慢の限界に到達しただけだった。『立場をわきまえろ』とでも言いたいのだろうか。そう言いたいのならこう言おう。


「あなた、見るに耐えない心を持ってるのね」


 そう私が堂々と言い放ったら主犯は呆気にとられていた。私が今までずっと取り合っていなかったから直に話しかけられて動揺しているのだ。しかし相手も強気に出た。


「だからごめんって言ったじゃん。わざとぶつかったわけじゃないって」


 そして私は思いっきり殴った。教室の時間が一瞬止まった。

 離婚したお母さんは毎日私のために朝早く起きて弁当を作ってくれている。一人娘を支えるために気弱な母は毎日必死に女手一つで働いている。娘の私を想って疲れているときも微笑んで「いってらっしゃい」と私を見送る。

 父親がいないことで私を不安にさせないようにいつも気を使ってくれる優しいお母さんの弁当を彼女はモノのように扱ったのだ。どれだけ悔しいか彼女にはわからないだろう。家計簿を見てうなだれるお母さん、朝5時から欠伸をしながら支度をしているお母さんを彼女は知らない。無知とはこれほどまで罪だと思ったのはこれが初めてだ。

 

 中学校を卒業しても私の態度は依然として変わらない。私を敵視していた輩はいなくなったけれど人を信用することに関してはもう私にできなくなっていた。世界で私の心を預けられるのはお母さんと日羽アリナだけ。

 高校に入学するとたちまち私の噂が囁かれた。中学時代のいじめの話ではなく、美人の一年生がいるという話題だった。 

 私は日羽アリナが続けてきたように告白されても振り、そしてキツイ台詞を添付して追い払った。孤立することで気分が良くなるわけがない。けれど性格は治せない。もう――これが私なのだ。 

 くるべき日が来たというか、高校でもささやかないじめが訪れた。どこにでもそういう人種はいるんだなぁと感心した。

 そこで私はこの一連の過去をすべて他人事のようにしている自分に気づいた。中学時代で大柄な態度をとったのは、いじめの対象が私ではなく日羽アリナにむけてだと思いこんでいたからだ。彼女を受け皿にしていることに気づいたときにはもう手遅れなことをしていると後悔した。

 同時に、日羽アリナも私を受け皿にしていたのではないかとも思うようにもなった。いやなことをもう一人の私に押しつけたい、矛先を変えたい、という心情が私を創造したのだと。 

 しかし不思議と恨みはしなかった。そういうことがあったから私がいるのだと。そう思える。 

 でもいつかは丸くならないとダメだなぁという意志はあった。私は不要の存在にならないといけないと自覚していたからせめて環境作りくらいはしないといけない。でも方法がなかった。また高校という枠の中の人間関係に閉じこめられたのだから。 

 

 悩んでいたところに予兆もなく赤草先生が現れた。


「アリナさん、いつから?」


 私は本音を話した。

 もう一人の私が出てくるようになるにはやっぱり私が変わらないといけない、だから手を貸してほしいと。そうするにはどうすればいいのかとか。もう滅茶苦茶なことを言っていたと思う。なにせ私の秘密を話したのは赤草先生が初めてだったから。全部吐き出した。

 

 榊木彗という男子生徒が現れた。

 その日、私は酷く気分が悪かった。私のスカートが破られていたのだ。明らかに自然に破れたものではなく、繊維が一直線に切られていた。誰かは知らないけれど敵はまだまだ私に構ってくれようと必死らしい。

 軽いフットワークで近づいてきたこの彗という男を私は「またノートの告白一覧に名前を書くために本名を調べないといけないじゃない」と辟易したのだが、予想外なことを言った。


「お前を更生させるためだ。ほら、座れって」


 更生。 

 正直なところ、私に転機が訪れたと思った。

 何かがこれから変わる。そう確信した。


 榊木彗は私に似て変わった人だった。 

 それでいて私に面白いものを見せてくれる新鮮で刺激的な心を持つ人でもあった。

 きっと彼なら日羽アリナも安らげる。

 私はまた客観的にそう分析した。





 『私がいなくなるまで、彼と楽しい時間を過ごしてもいいのかな。

 どう思う? アリナ。』


 私はそう記して、ノートを閉じた。 

 今日はやっと文化祭が開催される。お母さんがモデルをやっていたときに使っていたドレスを借りて、ファッションショーに出場するのだから優勝しないといけない。お母さんに見せてあげたかったけど写真で満足してもらおう。 


 つい来ないでと言ってしまったけれどあいつは本当に来ないのかな。 

  

 靴を履いて忘れ物がないかチェックする。よし、大丈夫。つま先を立て、履き心地を確かめて、トントンと地面を突き、さりげなくお母さんに家を出る合図を送る。お母さんがスリッパをこすらせる音がして、私はいつも心穏やかになる。とても好きな音だ。

 お母さんが台所から出てきた。エプロンで手を拭きながらいつもの優しい微笑みで。


「いってらっしゃい、アリナ」

「うん、行ってきます!」

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