さまよいびと
せらひかり
第1話
心臓がないとね、死ぬこともできないの。
近くの木に、古びた死体が吊り下げられている。イルソンは顔をあげ、灰色の目を細めて、死体が動かないことを確認した。
森の奥から狼の声が響いている。二つに分かれた道を見やった。近くの小さな村へ入る道と、遠くの町に向かう、森を突き進む道。日暮れまで時間はあるが、少し休みたい気分だった。黒髪を振って、村の方へ歩き出した。
村には、旅人向けの宿や食堂もあった。だが、未成年の少年が訪れるほど大きな宿場でもない。
「一人旅?」
あちこちで、不審そうに話しかけられた。そのたび、イルソンは「知り合いを探して旅を」と、ぎこちなく答える。
宿を決めて、食堂に入る。すぐ食べなくても問題ないのは分かっている。けれど、何か腹に入れていないと落ち着かなかった。食堂で少しだけつまむ。周りは年上の男女ばかりだった。
酔った男が、イルソンの横で立ち止まった。
「ちびすけ、こんなところで何やってる?」
「旅の途中です。気にしないでください」
男は、何がおかしいのか笑い声をあげる。面倒になり、イルソンは勘定を済ませようとして席を立った。だが、男がぶつかってくる。小柄な少年では、簡単に突き飛ばされてしまった。
「おいおい、足は大丈夫かあ? 何だあ。お前、ぼろっぼろだな? 旅なんて格好つけてるが、夜盗にでも襲われた後か?」
イルソンは顔をしかめる。ベスト、上着、靴。どれも擦り切れてぼろぼろだ。ところどころ、指の幅くらいの縫い目で乱暴に縫い止めてある。
「早く帰って、そいつを手入れしてくれたママに抱きついて眠りなよ」
野卑な笑いが起こったけれど、イルソンの耳には届かない。たとえば、ベストの傷。鼻歌を歌いながら、あいつが服を繕った……思い返すと腸が煮えくり返る。体を震わせたイルソンの肩を、男が押す。からかいの言葉はイルソンの耳を素通りする。
「その辺にしなよ」
店の女が、さりげなく割って入って、イルソンを店の奥へ連れて逃げた。店内では、赤ん坊だなと笑う声が響いている。
「大丈夫かい? 顔が真っ青だよ。宿は取った?」
「少し目眩がしただけです。宿はあるので大丈夫です」
「そうかい? あんた、手が氷みたいに冷たいけど。落ち着いてから宿で早く寝るんだよ」
触られて、反射的に払いのける。驚いた顔をされて、イルソンは内心舌打ちした。
「すみません、貴方の手も冷たくなってしまうから」
「そんなの、大丈夫だよ。ここであったかいものお食べ」
無理矢理食事を詰め込んで、外へ出る。
人の少ない辺りまで歩いてから、急に民家の裏へ駆け込んで吐いた。
小さな宿の部屋で、イルソンはうっすらと目を開ける。森の奥、獣が叫んでいる。あるいは男女の笑い声。女の、悲鳴。内臓がぶちまけられる音。首を振って、シーツをかぶる。気のせいだ、そうに決まっている。
翌朝、宿を出ると、村人の視線がやけに冷たい。他の旅人も同じような視線を受けていた。村内で惨殺死体が見つかったらしい。
食堂で薄いパンと野菜煮込みを食べて、周囲の話に聞き耳を立てる。死体は四つに割られ、内臓が綺麗に取り去られていた。鋭い爪で裂かれたらしい。
散歩を兼ねて、外を歩く。念のため死体の様子を見たかったが、すぐ埋葬されたらしく叶わなかった。
酒場は、入った途端に追い払われた。子どもだから仕方ない。一瞬、中を確認したが、店内には飲んだくれもいれば、どの町に行くか話し合う者もいる。見知った者の姿は見受けられなかった。
「あいつじゃないとしたら、ただの物取り? 個人的な殺意か、獣に襲われたか」
呟きながら歩いていると、強くぶつかられた。
「おい、いてえな」
古典的な因縁の付け方だった。
見上げると、昨日食堂で絡んできた男だ。
「ガキはさっさと帰れよ」
イルソンは動くのも面倒で、ただ睨みつける。脇に集まってきた野次馬の中から、細身の男が飛び出してきた。酔っぱらいを羽交い締めにして、男はイルソンに「早く行って」と声を掛ける。
「こいつ、奥さんに逃げられてからおかしいんだ、君のせいじゃないよ!」
大声で事情をぶちまけられ、酔っぱらいが思い切り体をひねり、男を振りほどいた。
「うるせえ! あいつは、勝手に死んだんだ!」
酔っぱらいの拳が、男の顎に決まる。口を切ったらしく、男が血を吐きながら言い返した。
「死体は見つかってないんだから、村の外に逃げたのかもしれないじゃないか」
「死んだんだ、そうに決まってる! 俺は見たんだ!」
「酔って夜道を歩いてるときに、奥さんに似てる人を見ただけだろう? 家出かも、」
「次の日に、あいつを見失った辺りに血が落ちてた!」
言い募る男を、酔っぱらいが二度、三度と殴りつける。周りの男達がやっと間に割って入った。隙を見て、イルソンはその場を逃げ出した。
小さな村だが、鐘突き堂のある教会が建てられていた。近くの人に、教会に誰かいないか聞いてみる。行事のときに、近隣から教会関係者を呼んでいるということだった。
「ちなみに、村の入り口の、あれは……?」
「吸血鬼避けですか?」
古くから、動く死体とも呼ばれているのだが……人の血を奪う異形がある。便宜上、吸血鬼と呼ばれているが、生き物に噛みついて必要量だけわずかに奪うだけの者もいれば、人を切りつけて一気に全身の血抜きを行う者もいる。刺しても撃っても基本的には死なない。そして強い。最近はあまり目立って暴れることはない。
彼らへの対策をしているのが、教会に所属する、通称・猟師である。吸血鬼と通じた者の死体を吊すことで、ここは対策が万全であると喧伝する風習もある。
「あの吸血鬼避けは、古いものだそうです。教会の関係者が置いていったとか」
「もしかして、本当の吸血鬼の手下ですか」
村人が苦笑した。そんなものいるわけがない、という態度である。
「もしいたとしても、吸血鬼の手下はなかなか死なないっていうし。吊さずに、燃やして灰にするでしょう」
「そうですよね、変なことを聞きました。旅してると、村によって風習が違ってて、面白くって」
話を切って、イルソンは教会を離れる。
「ここはだめだな……戦う手段を持ってない。あいつがいないといいんだけど」
あいつ、を探しているのに、いても困る。難儀な話で、イルソンはため息をついた。
夕方、昨日と同様に食事をした。あの酔っぱらいがまた絡んでくる。一日、村を回っていたので、イルソンは自分が絡まれる理由を知っていた。彼の妻が行方不明になる前日、旅人と一緒にいたらしい。村人は、妻が家出したと思っているようだ。
酔っぱらいが酔いつぶれると、彼の近くにいた男がイルソンに謝ってくれた。昼間、イルソンが殴られないように止めた男だ。
「力がほしいなァ」
酔っぱらいは、テーブルにうつ伏せて呟いている。
「吸血鬼にでもなるつもり? 向いてないと思うけど」
面倒を見ている男が、苦笑して呟いている。
イルソンは黙って食堂を出た。
夜気が頬を撫でる。森がざわついている。不安な心を、懸命になだめた。大丈夫だ、あいつがいたとしても、辺りはもっと自然だ。イルソンは宿に戻って毛布にくるまる。
助けてくれえ、力がほしいよう。狼の遠吠えに混じって、男のうめき声が響いているような気がした。
翌朝、食堂はいっそう静かだった。連続して惨殺死体が見つかったのだ。誰がやったのかと互いの顔色を窺う、妙な空気だ。
イルソンは食堂の様子を確認して、何も食べずに外へ出た。
(殺しの間隔が短い。狩られないと分かって、大胆になってるのか)
森の木々がざわめいている。炊事などの日常のにおいに混じって、腐葉土や緑のにおいがする。
ふと木々の間に人影が見えた。
「来るな!」
酔っぱらいの舌足らずな口調だが、はっきりとした拒絶だった。
あの酔っぱらいだ。彼を何度か止めていた男が、彼を抱えるようにして立っている。
「来るなって言ったろ……ちびすけ」
男の腕が、酔っぱらいの胸を貫いている。イルソンの目の前で、彼の心臓が抜き取られる。
「こいつが、俺の嫁まで殺した、吸血鬼だなんて……」
血を吐き出しながら、不明瞭な声で酔っぱらいが呟く。
イルソンは右手を翻した。銀のナイフで、吸血鬼の腕を狙う。
「その心臓を返せ!」
「何で? 君はよそ者だろ、こんなもの要らないじゃないか」
「吸血鬼ってものが、俺は大嫌いだ」
手足は、少年であるイルソンの方が短い。けれど、素早く動ける。吸血鬼の手首を切り落とし、転がった心臓を取り戻した。心臓を元の胸に入れたところで、息を吹き返しはしないけれど。
「人間のまま埋葬してやって」
聞いてくれるとは思えないが、恐れて逃げていく他の人間に声をかける。
吸血鬼は叫びながら逃げていった。血の跡を追って、イルソンは移動する。
イルソンが素早く銀のナイフを投げる。相手は当たるわけがないと鼻で笑う。
数度繰り返した頃、吸血鬼の足が止まった。一本の銀のナイフが、吸血鬼の影を地面に縫い止めている。
「くそっ、野郎!」
「お前は親じゃないな? 吸血鬼には複数ある。強い奴と、感染して変化した奴、吸血鬼に心臓を取られて、死ねなくなった人間……お前は半端に感染しただけか」
イルソンは相手に近づく。もう一つ、銀色のナイフを上着の裏から取り出して、男に向けて振りおろす。男の口の端が、にいっと上がった。
「貰った!」
イルソンのナイフの先が届く前に、男の振りあげた腕が、イルソンに当たる。途端に、肩口から血しぶきがあがった。鎖骨の下部が折れて、赤黒い血が吹き出している。
「あははっざまを見ろ」
イルソンの足がふらつく。目の前が薄暗くなって、手からは力が抜ける。
(でも、こいつは殺さないと)
イルソンは、うつ伏せに倒れ込みながら、ナイフを男に突き立てた。残念ながら、男の腕を刺しただけで終わる。
罵られているのが分かる。耳が痛い。自らの血溜まりに沈みながら、イルソンは。息を、わずかに吸って。
「あぁ?」
男が変な声をあげる。
「誰だお前、」
言葉が途切れる。男の首がぽんと飛んで、草むらに落ちる。血は遅れて散らばった。
「手がかかるね」
誰かが近づいてくる。背中に羽でも生えているのかと思うほど、軽やかな口調だった。
「吸血鬼には親と呼ばれる者がいる。人を吸血鬼に変える者や、人の心臓を抜いて食べる者。親が死ぬか、心臓を取り戻すくらいしか、配下の人間には死に方がない」
まだ若い、青年と言ってもいいくらいの、男の声。柔らかく、けれど素っ気なく、声は続ける。
「君には全く、呆れるね。もう少し、自分を大事にしたらどうなんだい? こっちが来なかったら、損傷箇所は損傷したままになるっていうのに」
心臓を抜かれた人間は死なない。それを不老不死と勘違いした人間が、一時期進んで吸血鬼に心臓を差し出した。けれど、実際には違うのだ。心臓を抜かれるとほとんど時間が止まる。だから、壊れたら二度と戻らない。もがれた手足はそのままだし、首を切っても、それぞれの部位が生き続ける。修復するには親に会わなくてはならない。
イルソンは、ちぎれかけた手で、目の前に立った男を掴み止める。
「見つけた、ディレイ」
名を呼ばれた男は、少し目を細めた。
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