水面の月
ささべまこと
第1話 執着
時折寒い夜もあるけれど、随分と暖かくなってきた、5月。その夜は風もなく、月明かりで辺りはほんのりと明るい。見上げた月にはかさがかぶっていて、淡く丸い虹が月をかこむ。
こんな月の夜はあしあとがみえる。これまで、自分の歩いてきた道が。どこをどう通って、どんな風に歩いてきたのかが。
満月の夜は特にわかる。あなたの歩いてきた道が。どうやってここまでたどり着いてきたのかが。
風のないその日、私は月夜の中、街を流れる一番大きな川のほとりを歩いていた。
川にはいくつも橋がかかっている。橋の下にはたいてい、段ボールでできたコンパクトな家があって、何人もの人がひっそりと暮らしている。缶ビールが2つ入ったコンビニ袋をぶら下げて、唐戸橋の橋桁の下に作られた段ボール製の扉をひっかいたのは、ちょうど丸い月が空のてっぺんに差し掛かった頃だった。
なかなかどうして、工夫が凝らされている段ボールの引き戸があいて、野村さんが顔をだした。
なんだ、あんちゃん。また来たのか。
私はわざと、ちょっと困ったように、
一人のビールは寂しくって
と肩をすくめてビニール袋を野村さんの目の前にぶら下げた。
おう、わかったよ
野村さんはちょっと面倒そうに、でもちょっと嬉しそうに狭い段ボールハウスから身をよじって外へと出てきた。そのまま二人で橋の下からでて、河原へと腰を下ろした。
先に腰を下ろした私に続いて、野村さんもどかっと腰を下ろす。
おまえさんも、物好きだな。
腰を下ろすなり野村さんが言った。呆れたように言う野村さんに私は缶ビールを突き出した。なかなか受け取らない野村さんに半ば押し付けるように缶ビールを渡した。
野村さんのおかげで、アンナに指輪をわたせたんですから。
野村さんの視線が痛い。時折、私の頭の中が透けて見えるのかと、ドキッとするような目つきをする。
そんな視線を感じたのは束の間、野村さんは手元の缶ビールに目をやって、缶をあけた。プシュッと音がした。
こんなところにきて駄弁ってる暇があったら、アンナちゃんに電話でもしてやれ。
ため息をつきながら、野村さんは言った。
僕はドキっとした。 一瞬の間を野村さんは見逃さなかった。
なんだ?まだ、サトミちゃんと切れてないのか?
サトミというのは会社の後輩だ。男ばかりのIT企業で、彼女は会社の華だった。
切れるも何も、元からサトミちゃんとは何もないですよ。
サトミは愛嬌のある女性だった。会社の誰とでも仲がよかったが、ことさら私には頼ってくれているように思えた。
だが、アンナと比べる気などさらさらない。ただただ可愛い後輩だった。
おまえさんがアンナちゃんが好きだってのは見てりゃわかるよ。でも、肝心のアンナちゃんが悲しい思い、してんだろ?
野村さんは、ぐっとビールを飲むと川面へと視線をやって呟いた。
アンナちゃんが好きなら、アンナちゃんの気持ちを大事にしてやれ。アンナちゃんを、じゃないぞ。でないと、俺みたいに寂しい老後になる。
野村さんは、ふん、と鼻で笑った。
さぁ、帰った、帰った。
野村さんが立ち上がる。私は焦った。サトミとはもう何週間も業務連絡意外で話などしてなかった。もちろん、かつては毎週末のように行っていた、サトミを含むメンバーとのアウトドアにも参加していない。
違うんです。
引きつった声がでた。
喉のおくに引っかかった言葉を、勢いに任せて吐き出した。
怖いんです、アンナが。
川面がてらてらと、満月を移していた。ゆらゆらと揺れて、満月は歪に歪む。
野村さんがじっと私を見た。あの、見透かすような目で。
私は、今日、アンナの部屋のPCにサトミのブログやSNSにアップした写真が大量に保存されていることを見つけた話を野村さんにした。
アンナちゃんはなんて?
野村さんが私に問うた。
いえ、勝手に見てしまったので…。アンナには何も。なんとなく怖くなって、今日は帰ってきたんです。
話し合ってないのか。なんで、怖いんだ。ブログもSNSの写真って、どうせ、お前さんが出てくるもんなんじゃないのか?
他の女が知ってるのに自分の知らないお前さんがいることが嫌だったんだろ?
女心がわからんのは苦労するなと、黄ばんだ歯を見せながらニヤッと笑う野村さんに、僕は更にすがるように言った。
それもあるんですが…、それだけじゃなくて。サトミはあのあとSNSのアカウントに鍵をかけて、ブログもやめたんです。それで、どうやら違うブログを始めたようなんですが、それらしい新しいブログや、鍵付きのはずのSNSの記事まで持っているみたいで。
野村さんは少し考えたあと、あんちゃんのスマホでも見たんじゃないかと言った。
まさか。だって私は鍵付きになったSNSは見てないし、新しいブログだって知らなかったんですよ。
新しいものには私の事なんて書いてません。同僚の話では、サトミちゃんは趣味のサークルで彼氏ができたって話で。私の件で少しもめたあとは、少なくともいつものメンバーで遊びに行くことはなくなったんです。新しいブログは趣味サークルの話や新しい彼氏の話ばかりだったのに。
野村さんは、私をじっと眺めていたが、ポツリと言った。
アンナちゃんが大事なら、癒してやれ。お前さんがついてて、毎日幸せで満たしてやれば、お前が好きなアンナちゃんに戻るさ。今日はどうやって出てきたんだ?帰って一緒にいてやったらどうだ。
結論なんてでないし、私はまだアンナが好きだった。鍵付きのSNSの内容まで知っていることに引きはしたが、アンナは元来やさしい女だった。
野村さんに背中を押され、私はアンナのアパートへと引き返した。
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