カクヨム出張版:ある日のバーでの出来事(西野と化粧道具)

 午後六時を少しばかり回った頃合い。六本木の繁華街、その外れに位置する雑居ビルの地下、二十数坪ばかりのスペースに設けられた手狭いバーでのこと。開店から間もない店内に客の姿は一人限り。


 カウンターに座った西野はグラスを傾けながら、正面に置いた化粧道具の収まるポーチを難しい表情で眺めていた。それはブレイクダンスの大会へ臨むに当たって、二丁目のドラッグクイーン、アダムから譲り受けた品である。


「…………」


 どれほどの時間をそうしていただろうか。


 しばらくすると店に新たな客がやってきた。カランコロン、乾いた鐘の音が鳴ると共に、カツカツというヒールの床を叩く気配が続く。それは彼のすぐ隣まで至ると止まった。


「西野君、何をそんなにジッと見つめているのかしら?」


 ローズである。彼女はフツメンの隣に席を取ると、首を傾げてみせた。


 自ずとその意識が向かったのは、彼が見つめていた女物のポーチである。


「べつに、なんでもない」


「女物のポーチなんて……それ、前のイベントで利用していたものかしら?」


 日頃から西野の行動のチェックに余念がないローズは、彼が見つめているポーチの出処にすぐ見当がついた。ブレイクダンスの大会の当日、更衣室を共に利用した経緯も手伝い、同じデザインを何度か目撃していた彼女である。


「もしかして、女装が癖になってしまったのかしら?」


「いいや、違う」


「だとしたら、何故なのかしら?」


 ローズからの問い掛けを受けて、西野は黙る。


 それから十数秒ほどを悩んだろうか。


 彼は自問するように、彼女に対して語ってみせた。


「……アイプチというのは、これは男でも使えるのではないかと考えた」


「あぁ、そういうこと」


 合点がいったとばかり、ローズは頷いてみせた。


「たしかに男性でも、日常的に利用している人はいると聞くわね」


「やはりか……」


「もしかして検討しているのかしら?」


 西野の顔面偏差値が向上しかねない話の流れを受けて、ローズは危機感を覚える。もしもこの場で相手が頷いたのなら、どうやって否定してやろうかと、即座にその意識は巡り始めた。


 しかし、続けられた言葉は彼女の想定とは些か異なった。


「検討はしていた。だが、やはり止めておこうと思う」


「あら、何故なのかしら?」


「相手を騙しているようで罪悪感を覚える。あまりいい気分ではない」


「そういうのは特定の相手を持ってから言ったらどうかしら?」


「…………」


 これ以上ない正論を受けて、ぐうの根も出ない童貞野郎だった。

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