職業体験 一

 翌日、西野は普段どおり学校に登校した。


 教室内には既に大勢生徒の姿が見受けられる。日課となる朝の挨拶を終えて、彼は自席に向かった。本日もこれと言って返事は返されない。卓上に鞄を下ろして、机の中に教科書やノートを詰め込んでいく。


 すると彼の耳に、何やら聞こえてくる声があった。


「荻野、オマエって勉強できたんだな? 数学とか普通に負けたし」


「前までは就職する予定だったから、その、なんていうか……」


 竹内君と剽軽者だった。


 西野と同様、自席で教科書を出し入れいしている荻野君。その正面に立ち、イケメンが何やら語り掛けている。話題に上がっているのは、つい先日に結果が張り出された、中間試験の点数について。


「もしかして進学するの?」


「一応、そのつもり」


「へぇ? ちなみに志望校は?」


「……実は俺、医学部を受けようと思って」


「え? マジで?」


「以前までは金銭的な問題で諦めてたんだけど、そっちが解決しそうだから、ちょっと真面目に目指してみようかって思ってさ。もちろん竹内と比べたら全然だけど、一度っきりの人生だし、やれるだけやってみようと思ったんだよ」


「それいいじゃん。荻野、オマエ格好いいよ」


「そ、そうかな?」


「けど、それじゃあ俺と同じだな」


「やっぱり、竹内も医学部?」


「それ以外はオヤジが許さないだろうしなぁ」


 やれやれだと言わんばかりの態度で、竹内君は語ってみせる。


 その姿を剽軽者は眩しいものでも眺めるように見つめる。


「大学はどこ受けるの?」


「まだ具体的には決めてなくて、次の塾の模試でベースラインを決めようと思ってる。正直、これまで進学とか全然考えてなかったから、試験対策も何もかも、全部これから始まる感じだよ」


「そっか、ならライバルになるかも知れないな」


「いやいや、竹内と競える程じゃないって」


「そんなの分からないじゃん? こっちも頑張らないと」


「お手柔らかに頼むよ」


 聞き耳を立てているのは西野に限らなかった。


 教室に居合わせた生徒の大半が、剽軽者の医学部進学宣言を耳にしていた。少なくとも学業において、大半の生徒から下に見られていた彼だから、一連のやり取りを聞いたことで、決して少なくないクラスメイトが内心驚きを覚えていた。


 どうして荻野なんかが医学部に、といった感じだ。


 同時に彼ら彼女らは焦り始めた。自分の人生は本当にこのままで大丈夫なのかと。前日には三者面談なるイベントが催されていたことも手伝い、誰もが少なからず動揺していた。それは西野と同じく聞き耳を立てていた、委員長や鈴木くんも同様である。


「あ、そうだ。それなら荻野、うちの病院に職業体験に来る?」


「え?」


「ほら、来週から職業体験の実習が始まるだろ? 就職組向けのイベントではあるけど、医者を目指すなら足を運んでおいて損はないと思うぜ? 毎年、この学校からは何人か取ってるんだよ。今年は俺も参加する予定だし」


「……いいの? っていうか、竹内の家ってそんなにデカい病院?」


「正確にはうちの親父が理事をやってる総合病院かな」


「え、マジかよ。それって凄くない?」


「でも実家は普通の開業医だけどな。親父、生涯現役が口癖なんだよ」


「いやいや、だとしても凄いって」


「本当は応募者の事前抽選らしいけど、こっちは受け入れる側だから、今からでも多少の無理は利くと思うんだよな。理事の息子の友だちってことで、枠を用意するくらいはやれると思うんだ」


 同じ進路を目指すクラスメイトの存在が喜ばしかったのか、竹内君は普段以上に多弁であった。その顔に浮かべられた表情は、どこぞのフツメン相手には決して向けられることがない素直な笑顔だ。


「そういうことなら、た、頼んでもいいか?」


「なに、気にするなって」


 恐る恐るといった様子で応じた剽軽者。これに竹内君は軽い調子で頷いて応じた。先日まではそれほど接点があったとも思えなかった二人が、今この瞬間、クラスメイトの目に仲良さ気なものとして映った。


 当然、人目も引く。


 だからだろうか、これを眺めてふと閃いた男がいる。


「竹内君、ちょっといいか?」


 西野である。


 昨今関わる機会が増えた為か、段々と声の掛け方が気さくになってきている。まるで友達気取りのフツメンだ。一方で名を呼ばれた側は、ここ最近になって距離を置こうと意識し始めた事も手伝い、若干腰が引けている。


 更にローズとの一件を思い起こせば、自然と顔が強張った。


「……な、なんだよ?」


「悪いが今の話、俺と委員長も参加させてもらえないか?」


 これまた急な話である。


 しかも自身のみならず、委員長を巻き込んでの物言いだ。


 これには志水も驚いた。


「ちょ、ちょっとっ! 西野君、いきなり何を言ってるのっ!?」


「なんだ、委員長は竹内君のところに行くのは嫌か?」


「そ、そ、そういうことを言っているんじゃないのっ!」


「なら問題はあるまい。進学するにせよ就職するにせよ、こうした機会は貴重だ。それも気心の知れた友人の紹介となれば、悪くないのではないか? 医療の現場を体験する、それは今後の人生においても、価値のある時間となるだろう」


「っ……」


 あまりにも強引な話の運びである。


 おかげで居合わせた面々は困惑を隠しえない。こいつは何をしたいんだ、そう訴えんばかりの視線が、教室の至る所から西野に向けられる。過去、訳の分からない言動を繰り返してきたフツメンだが、本日のそれは輪をかけて酷かった。


 その真意を理解できたのは、教室で唯一人。


 西野は他者に気づかれないように、チラリとリサちゃんに視線を送った。


 フツメンの意図に気づいたリサちゃんは、間髪を容れずに声を上げる。


「竹内君、それなら私もお願いできないかな?」


 溌剌とした声が教室に響いた。


 恋のキューピット西野が、早速仕事を始めたようだった。


「まあ、大丈夫だと思うけど……」


「本当? ありがとう、竹内君」


 あまりにも強引な仕事っぷりも手伝い、誰もフツメンの意図に気づかない。また西野が変なことを言い出したぞ、といった扱いが精々だ。そもそもリサちゃんが委員長に惚れているだなどと、クラスメイトは夢にも思わないことだろう。


 しかし、それでも例外はいた。


「…………」


 委員長本人である。


 西野の強引極まる物言いと、続けざまに声を上げたリサちゃんの姿を目の当たりにして、賢い志水は即座に状況を理解した。今し方の一件が、自分と彼女との間を取り持つための行いであったことに。


 まさかリサちゃんが西野と組むとは思わなかった志水だ。


「あの、竹内君。私は……」


 本当なら嬉しい委員長だった。


 だって、竹内君かっこいい。


 しかしながら、隣にリサちゃんが一緒となると話は変わってくる。保留にしたままの告白をどうにかしなければならない。職業体験の期間中、十中八九で迫られるだろうとは、これまでの経験から否応なく意識させられる。


 そこで委員長は断りを入れようと口を開く。


 だが、これを遮るようにリサちゃんが言った。


「職業体験、楽しみだねっ!」


「……う、うん」


 こうなると彼女には、上手い返事が浮かばなかった。


 大勢生徒の目がある教室内で、リサちゃんからの誘いを無下にすることは難しい。それでも行き先が、どことも知れない工場であれば、進学を理由に断ることもできただろう。しかし、行き先は竹内君のパパが理事に就いている病院だ。


 下手をすれば竹内君に嫌われた上、女子生徒一同を敵に回しかねない。


 まんまと西野にしてやられた志水である。




◇ ◆ ◇




 その日の昼休み、委員長はローズを屋上に呼び出した。


「いきなり何? 貴方と違って私は忙しいのだけれど」


「それがいつも同じことをやっている人の台詞? 西野君に関して変わったことがあったら、報告をして欲しいというから、わざわざこうして連絡を入れたのに。必要がないなら私は帰るわよ?」


 同所には他に人の気配も感じられない。段々と気温も下がり始めた昨今、休み時間に好んで屋外に出ようという者は少ないようだ。おかげで彼女たちもまた、肌寒い風を身に感じながらの会話である。


「そう? ならさっさと用件を言ってもらえないかしら?」


「…………」


 二人の仲は相変わらずである。


 ローズの志水に向ける態度は人を人と思わないもの。一方で志水もまた、ローズに対して感情の悪化が進んでいる。おかげで二人の向かい合う様子は、これから取っ組み合いの喧嘩でも始めそうなほど、ピリピリとしている。


「西野君、職業体験に参加するらしいわ」


「職業体験? 彼は大学へ進学すると言っていたわよ」


「そんなの知らないわよ。私は教室で見聞きしたことを伝えただけ」


「……そう」


 リサちゃんと彼の絡みについては、委員長は黙っておくことにした。下手に話を突っ込まれて、彼女との関係にまでヒビが入っては堪らない。相手からの好意はさておいて、対外的には円満なまま卒業したい、というのが志水の思いだった。


 リサちゃんもまた、ローズに並ぶカースト上位の生徒だ。取り分け女子生徒に対する影響力は絶大である。もしも女子だけに限って学内カーストを眺めたのなら、目の前の金髪ロリを越えるのではないか、と委員長は考えている。


 当然、そうした相手との円満な関係は、学校生活において欠かせないものだ。だからこそ彼女はリサちゃんからの告白に焦っていたりする。


「どこに行く予定なのかしら?」


「……竹内君のお父さんが理事をしている病院」


「ふぅん?」


 西野の真意を測りかねて、ローズは思考を巡らせる。


 その脳裏に浮かび上がったのは、昨日に行われた三者面談だ。そこで何かしら意識改革のようなものがあったのかと、あれこれ邪推を繰り返す。そうなると彼女もまた、今後の方針に軌道修正が必要であった。


 まさか恋のキューピット役に興奮した結果、突っ走っただけとは思わない。


 そうした彼女の姿を眺めて、委員長が言った。


「今回の仕事に対して報酬が欲しいわ」


 昨今、フランシスカからの依頼で始めた、英語を使ったお小遣い稼ぎ。フランシスカから西野への連絡だという英文のメッセージの添削。曰く、彼の好みに合うような文章に、意図を変えずに手を加えて欲しいのよねぇ。


 その過程で経験した金銭のやり取りを受けて、一方的に言われるばかりでは駄目だと、意識を改め始めた志水である。結果的にちょいと西野っぽい台詞が口から溢れていた。お小遣い稼ぎの影響を受けてしまっている。


「報酬?」


「貴方の為に時間を使っているのだから、当然でしょう?」


「…………」


 過去に一度、白星を上げたことで、委員長のローズに対する意識は、若干ではあるが変化を見せていた。言われるがままに扱われるばかりではない。ちゃんと自分の意見を言えるようになった千佳子は、やればできる子だ。


 ただ、それも駄目で元々の提案である。


 まさか目の前の金髪ロリが、自分の言葉に頷くとは思わない。


 だからこそ、続くローズの言葉を耳にして委員長は驚いた。


「そうね、構わないわよ」


「……貴方が私の言うことを聞いてくれるなんて珍しい」


「勘違いしないで欲しいわね。私は貴方と仲良くするつもりなんて微塵もないわよ? ただ、働きに対して報酬を求めるというのであれば、これに応じるのは当然のことでしょう。むしろ求めないような愚か者は、身の回りにいて欲しくないわね」


 暗にそれまでの身の上を馬鹿にされた志水である。おかげで気分はよろしくない。ただ、それを言葉にしたところで不愉快な言葉が返ってくることは目に見えている。彼女は喉元まで出かかった不平不満を飲み込んで堪えた。


「何が欲しいのかしら? 言ってみなさい」


「…………」


 そして、こうなると逆に悩んでしまうのが志水だ。


 さて、どうしよう。


 この期に及んで提案を引っ込めることもできない。


 そこで彼女は冒険してみることにした。


「ローズさんにも私の恋愛をサポートしてもらいたいのだけれど」


「…………」


「竹内君は貴方のことが好きじゃない? そして、私は竹内君のことが好き。もしも私と竹内君がくっついたら、貴方は今以上に動きやすくなると思うのだけれど、どうかしら? そっちにも益のある話よね?」


「……ふぅん?」


「い、嫌なら、別に無理にとは言わないけれど」


 これまでの一方的な状況から、決して怯むことなく交渉を継続。最終的に相手の利益も含めて、対等な関係を提案してみせた委員長である。その姿を目の当たりにして、ローズはほんの少しだけ、委員長という人格に対して評価を上げた。


 居ても居なくても同じ、といったポジションから、多少は使える人間に格上げだ。


「いいわよ? そういうことなら協力してあげる」


「本当?」


「ただし、私と貴方の利益が被った時、私は自分を優先するわ」


「別にそんなの私も同じだし……」


「それなら報酬を決定しましょう」


「う、うん」


 委員長の本音はと言えば、自身が異性とくっつくことで、リサちゃんからの好意を交わす作戦だ。竹内君が彼氏だったら、流石の彼女も諦めるでしょ、云々。手段と目的が逆転している気がしないでもないが、それも含めて本人は一石二鳥の良案だと考えている。


 こうして対リサちゃんに向けた、ローズと志水の協力が決定された。




◇ ◆ ◇




 屋上でローズと委員長が同盟を結成している一方、こちらは校舎裏。


 同所では西野とリサちゃんが顔を合わせていた。


 後者が前者を呼び出した形だ。


「西野、意外とやるじゃん! さっきの最高だったよ?」


「……そうか?」


「まさか昨日の今日で、こんなに働くとは思わなかったし」


「喜んでもらえたのなら何よりだ」


 そこでは朝の教室での出来事を受けて、フツメンがリサちゃんから感謝の言葉をもらっていた。本人は素っ気なく応じているが、内心では嬉しくて仕方がない西野である。彼にとっては、これ以上ないご褒美であった。


 一方でリサちゃんは素直に笑顔を浮かべている。


 予期せず委員長と同じイベントに参加、同じ時間を過ごす機会をゲットしたことで、とても機嫌が良さそうだった。これまでフツメンの前では不機嫌そうな顔ばかり披露していた彼女だから、その心情はコミュ障の西野でも素直に察することができる。


「竹内君をだしに使うなんて、他の子じゃ絶対にできないよ」


「いいや、決してだしにした訳ではないんだが……」


「病院で職業体験ってことは、委員長のナース姿とか見られるのかな?」


「……それはどうだかわからないが」


「千佳子っておっぱい大きいから、絶対に凄いと思うんだよね!」


「…………」


 委員長と一緒に臨む職業体験を控えて、リサちゃんは元気一杯だった。


 おかげでお喋りにも勢いがある。


 これまで否定的な言葉しか向けられたことがなかった西野としては、目の前ではしゃぐ相手が本当にリサちゃんなのか、疑いたくなるほどの豹変ぶりであった。おかげで彼は彼女の委員長に対する気持ちが本物であると理解した。


「竹内君に頼めば、一着くらいなら貸してもらえるんじゃないか?」


「たしかにそれは言えてるね。頼んでみようかな!」


「ああ、そうするといい」


 西野の突っ慳貪な物言いに腹を立てた様子も見られない。


 翌日の遠足に気分を高ぶらせる子供のようだった。


「ところで西野って、やっぱり変わってるよね」


「何がだ?」


「私の話を聞いてもぜんぜん引かなかったじゃん」


 ジッとフツメンの瞳を見つめてリサちゃんが言った。


 手を伸ばせば触れられる距離、真正面から眺める彼女はとても可愛らしかった。ローズが転校してくる以前、学年一番を誇っていた愛らしさは本物だ。おかげで西野はここぞとばかりにシニカルを決める。


「人の趣味など千差万別だ。惚れた腫れたを語るのであれば、全人口の一割近いと言われる同性愛者は、むしろマジョリティとも言える。一クラス当たり、三、四人はいる計算になる。なんら不思議じゃない」


「……本当にそう思う?」


「ああ」


「…………」


 委員長が聞いたら、どうせネットの受け売りでしょ、などと軽口の一つでも叩いたことだろう。それは昨日までのリサちゃんであっても、きっと同様であったに違いない。しかし、本日に限っては少しばかり様相が異なった。


「それってつまり、委員長も可能性があるってことだよね?」


「……可能性の是非で言えば、なくはないだろう」


「西野、いいこと言うじゃん」


「しかし、無理強いはよくない」


「そんなの分かってるし」


 委員長と共に参加する職業体験という功績が、リサちゃんの中で西野の株を大きく上げていた。おかげで多少のシニカルは気にならないようである。言葉を交わす表情も、依然として笑顔の美少女だ。


「もしも西野のおかげで委員長と上手く言ったら、お礼に他校の女の子、紹介してあげようか? この学校だともう無理っぽいけど、他所の子だったらチャンスがあるかも知れないしさ」


「……いいのか?」


「早合点しないでよ? 委員長と上手く言ったら、だからね?」


「分かった」


 予期せぬ提案を受けて、フツメンの胸の内に暖かなものが溢れる。いつぞや文化祭の折、ローズに泣きついて失敗した紹介制度の復活である。それをクラスの女子グループを率いるリサちゃんから提案されるとは、夢にも思わなかった彼だ。


「それじゃあ引き続き、よろしく頼むね!」


「ああ、できる限り協力しよう」


 ひときわ魅力的な笑みを浮かべて踵を返したリサちゃん。短めのスカートがふんわりと浮かんで、引き締まった太ももを顕とする。日々陸上部で汗を流す彼女の身体は、健康的な魅力に溢れている。


 その姿を眺めて、これはなかなか青春っぽい、と西野は充足感を覚えた。


 ちょろいフツメンである。




◇ ◆ ◇




 その日の放課後、竹内君はローズに呼び止められた。


 今日も今日とて部活を休み、自宅で肉体の調子を確認しようと考えていた彼である。教室を後にして昇降口に向かう道すがら、廊下で声を掛けられた次第だった。ちょっと付いて来て頂戴、そんな言葉に促されてのことである。


 向かった先は都内のオフィス街に所在する喫茶店だ。


 空も段々と暗くなり始めた頃合い、店内に客の姿は見られない。


 二人の足は奥まった席に向かう。


 四人掛けのテーブル席だ。


 そこでお互いに顔を向かい合わせる形で腰を落ち着けた。


「それでローズちゃん、俺に話って何かな?」


 努めて平静を装い、竹内君は目の前に座った相手に話し掛けた。


 内心、心臓はドキドキと痛いほど強く脈打っている。


 つい数日前、彼の体液として分泌された毒により爛れてしまった彼女の手は、まるでその事実がなかったかの如く、綺麗な肌を晒している。爪の先ほどの炎症も窺えない。その艷やかな指先が、イケメンを多分に焦らせていた。


 普段の彼ならば、まずはこの点を確認したことだろう。


 しかし、彼は既に気づいていた。


 目の前の相手は、どこか普通ではないと。


 そして、これを表立って口にするほど、こちらのイケメンは愚かではない。西野がヤクザの事務所で暴れまわった時と同じだ。賢い竹内君は知っていた。世の中には追求することで損をする事柄が、存外のこと多く存在していると。


「未だに続けているのね。彼にバレていなければ構わないのかしら?」


「……な、なんの話かな?」


 威力的なローズの発言を受けて、竹内君はヒヤヒヤだ。


 校舎裏での一件が脳裏に過る。


 背丈と肉付きに恵まれた彼は、腕っぷしにも少なからず自信を持っていた。それが一方的に押し倒された上、油断していたとは言えども、首を絞め殺されそうになったのである。まさか目の前の相手が、普通の女の子とは思えなかった。


「何が目的? あの女が尻尾を掴めないなんて、大したものだわ」


「え?」


 あの女とはフランシスカを指してのことだ。


 だがしかし、竹内君には何のことだかサッパリ分からない。ただでさえ身体の具合がおかしくなっている昨今、更に意中の相手から意味不明な揺さぶりを掛けられたことで、その肉体は緊張に強ばる。


 気分が高ぶると体液が毒に変わる。そんな訳の分からない体質も相まっては、いよいよ心が悲鳴を上げそうな竹内君だった。万が一にも人前で毒を撒き散らした日には、自分自身はおろか、実家が営んでいる病院すらも危うい。


 それは彼にとって、とんでもないプレッシャーだった。


「単刀直入に尋ねるわ。貴方の目的は何なの?」


 竹内君には相手が何を言っているのかサッパリ分からない。


 そこで彼は素直に伝えることにした。


「もしかして気づいてなかった? 割と頑張ってたつもりなんだけど」


 精々ニヒルを気取り語ってみせる。


 いつぞやの海外旅行、太郎助が見せた余裕を肖っての行いだった。まさかその出処が、巡り巡って西野にあるとは思わないイケメンである。おかげでどことなくフツメンを思わせる語り草が、これまたローズの神経を逆撫でた。


「前にも言ったかもだけど、俺の目的はローズちゃんと付き合うことだよ」


 続けられた言葉を耳にして、いよいよ怒れる金髪ロリである。


 テーブルの下で握られた拳から、ポタリと血の雫が床に落ちた。


「……あら。ターゲットは彼ではなくて、私だったの?」


「いやいや、西野が相手とか冗談キツイよ。俺は至って普通だし」


「…………」


 おかげで微妙に話が噛み合っていない。


 これにはローズも、何かおかしいと気づいた。


「一つ確認したいのだけれど、依頼主は誰?」


「え?」


「こういうことを言うのは癪なのだけれど、組織力で私たちに勝てるようなところは滅多にないわ。能力的に考えても、こうして身元が割れた時点で、貴方はもう満足に使える駒じゃない。素直に洗いざらい吐いて、大人しくこちらに下る方がお得よ?」


「……あの、ローズちゃん」


「そうでなければ、依頼人に始末されるのがオチじゃないかしら?」


 結果的に竹内君も気づいた。


 自分が惚れた相手は、想像した以上にヤバイ感じなのかも知れないと。


「長生きしたいのなら、今この時点で吐いたほうがいいわ」


「…………」


 続けられた文句を耳にして、イケメンは考えた。


 ローズちゃんマジで言っているっぽい、と。


 校舎裏での一件も手伝い、いよいよ竹内君は確信に至る。


 そこで彼は決断した。


「分かった、分かったよ。よく分からないけれど、ローズちゃんの言うとおりにする。俺のことは好きにしてくれて構わないよ。ただ、できればオヤジの病院は継げる身の上のままで、どうにか穏便にお願いできないかな?」


「あら、随分と素直なのね?」


 この期に及んでは素直もへったくれもない竹内君だった。なんとなくヤバイとは理解しても、まるで仔細の知れない状況だ。


 しかし、転んでもただでは起きないのがこちらのイケメン。ピンチをチャンスに変える力に関しては、人並み優れたものを備えている。どこぞのフツメンが、チャンスをピンチに変えてばかりなのとは雲泥の差だ。


 この場での会話を実りあるものにするため、竹内君は言葉を続ける。


「ところで一つ、こっちからも提案があるんだけど」


「……何かしら?」


「来週から学校で、職業体験っていうイベントがあるんだよね。もしよかったら、ローズちゃんも一緒しない? 体験現場の一つにうちの知り合いの病院も挙がってるんだけど、今回はローズちゃんの知り合いも何人か来る予定なんだよ」


「それに私が参加して、何の意味があるのかしら?」


 それはそれ、これはこれ。


 依然としてローズに対する熱意を失っていない竹内君だった。


「ちなみにこれ、西野も参加するらしいんだけど」


 試しにフツメンの名前など上げてみせる。


 それは本来であれば、彼にとってあり得ない可能性であった。イケメンの理論に従ったのなら、絶対にあってはならないことであった。しかしながら、過去に朦朧とする意識の中で耳にしたローズの言葉は、それを明確に否定していた。


 そして、実際に彼女からの反応は顕著であった。


「……参加するわ」


「本当?」


「ええ、本当よ」


 即答である。


 昼休みに委員長から聞いた話を思い出したようである。


 おかげでイケメンは改めて理解した。


「それじゃあローズちゃんも参加っていうことで」


 同日、竹内君にとって西野という存在が、全力で競うべきライバルになった。




◇ ◆ ◇




 会話を終えた竹内君は、一足先に喫茶店を後にした。


 席にはローズが一人で残る。


 それから数分ばかりが過ぎて、手元のコーヒーも冷たくなった頃合いのこと。彼女の下に歩み寄ってくる者の姿があった。丈の短いスカートスーツに胸元の開けたシャツ。腰下まで伸びた長いブロンドが印象的な女だ。


 フランシスカである。


 彼女は何の断りを入れることもなく、今まで竹内君が座っていた席の一つ隣、ローズとは斜め前の位置に腰掛けた。そして席に着くや否や、挨拶の言葉もすっ飛ばして、ローズに語り掛けた。


「どうやら本当に何も知らないようね」


「ええ、そのようね」


 他所からカメラ越しに、二人のやり取りを見聞きしていた彼女だ。


 答える側も当然のように受け答えを始める。


「まさかこんなところで、貴方の同類に出会うとは思わなかったわ」


「御託は結構よ。それでアレはどうするのかしら?」


「ローズちゃんの話に従うと、なんだか微妙な感じなのよね……」


「使い勝手は悪そうね」


「毒については成分を確認してみないと何とも言えないわ。ただ、体液の成分が遺体に残ってしまうようじゃあ、使い勝手が悪すぎるわね。それならガスでも何でも、自前で持ち込んだほうが無難だわ」


「それなら放置かしら? それとも処分?」


「あら酷い。放っておいたら可愛そうとか思わないの?」


「私には関係のないことだもの」


「貴方のことを好いてくれているのに、ローズちゃんは酷い女ねぇ」


「話は以上かしら?」


 戯けた様子で語ってみせるフランシスカ。


 これに対してローズは突き放した物言いで応じる。普段から上司に対して辛く当たることの多い彼女だが、本日は殊更に機嫌が悪そうだった。これ以上は遊ばない方がいいだろうと考えて、股臭おばさんは話をまとめることにした。


「念の為、あと数日だけ様子を見るわ」


「……そう」


「その間に接触がなければ、白としましょう。そこから先はこっちで進めるから、ローズちゃんは普段どおりにしていてね。ああでも、貴方とは相性が良さそうだから、万が一にも対象が動き出したら、助力をお願いするから当面は待機かしら」


「分かったわ」


「あら? いつになく素直ねぇ」


「彼の近くに毒虫が蠢いているのよ? 生きた心地がしないわ」


「……その点については、たしかに留意したほうが良さそうね」


 彼女たちの言葉通り、西野は竹内君の変化に気づいていなかった。本日もまた普段と変わりなく、一方的に絡んでいたフツメンである。何かの拍子から毒に触れてしまう可能性は、決して低くはないだろう。


「処分するなら早めにして欲しいのだけれど」


「あの子の場合、処分するにしても色々と面倒なのよね」


「そんなに大きな病院なのかしら?」


「歴史がある家っていうのは、思い掛けない繋がりがあったりするものよ? それに何より、あの子は彼のクラスメイトじゃないの。もしもバレたら、私や貴方だって無事では済まないわ」


「……そうね」


「まあ、歴史の生き字引である貴方が、他の誰よりも安いという事実を思うと、皮肉以外の何ものでもないわね。前々から疑問だったのだけれど、もう少しマシな人脈は築けなかったのかしら?」


「殺すことはしなくても、人を痛めつける方法なんて幾らでもあるのよ?」


「冗談よ、冗談。真面目に受け取らないで欲しいわね」


「…………」


 フランシスカは軽い調子で語ってみせる。


 その姿を忌々し気に見つけて、ローズは相手に言い聞かせるよう伝えた。


「どうするつもりなのか知らないけれど、彼の安全は絶対に確保して頂戴」


「ええ、そこは重々承知しているわ」


「万が一のことがあったのなら、貴方、ただじゃ死ねないわよ?」


 ローズは淡々と呟いて、相手の返事を待たずに席を立った。


 そのまま背後を振り返ることなく、喫茶店を後にする。


 ちなみにお会計は、いつの間にやら竹内君によって済まされていた。

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