打ち上げ 三

 マーキスから与えられた数枚の写真を頼りに、西野は都内を駆け回った。


 そして、最初に訪れた雑居ビルと似たようなことを、更に二度ほど繰り返したところで、ようやっと目当ての名前を確認することができた。曰く、組織的には末端主導の犯行であり、細かな理由までは定かでないが、拉致監禁は事実との話であった。


 結果として、最終的に彼が辿り着いたのは新宿の歓楽街だ。


 そこに建った一棟の廃ビルが、黒ギャルとユッキーの連れ去られた先だという。


 一階フロアの正面には重機が止められており、出入り口は大きく削り取られた上、随所にブルーシートが掛けられている。どうやら解体工事が始まって間もないようだ。当然、各フロアのテナントは全てが撤退した後である。


「……ここか」


 形を崩した正面玄関から外れて、その脇に設けられた非常階段に西野は向かった。出入り口には金属で作られた格子状のドア。鍵は掛けられておらず、更には彼が訪れる以前より、開けっ放しとなっていた。


 これ幸いと彼は階段の一段目に足を掛ける。


 すると時を同じくして、遠く頭上から物音が聞こえてきた。


 ドタンバタンと、何やら重量のあるものを床にでも叩きつけたような物音だった。二階、三階といった低階層よりも上の、もっと高い階から響いてきたと思しき気配である。自ずとフツメンの意識もまた、上層階に向いた。


 ビルは九階建てだ。


 彼は上の階から確認することを決めて、階段を登り始めた。


 既に電気も止められているようで、照明のスイッチはこれといって反応を示さなかった。おかげで屋内は窓から差し込む月明かりが唯一の光源となる。その薄暗がりに紛れて、彼は階段を上っていった。


 六階を過ぎた辺りで、不意にカツンと硬い音が彼の耳に届いた。


「……上か」


 更に上の階層から聞こえてきた音だ。


 自ずと階段を登る勢いが増す。


 最終的に辿り着いたのは最上階のフロアだ。


 ビル内部は一メートルと少しほどの手狭い内廊下により、幾つかの部屋が隔てられて存在していた。バブル期の前後にオフィスとして建てられた建物が飲食店に転用された、界隈では随所に見られる典型的な雑居ビルである。


 部屋の前には放置された出前の食器や、朽ち果てた見ての看板などが倒れていたりする。元々はそれぞれで独立して、キャバクラやスナックなどの店舗が入っていたようだ。それらしいデザインの案内が目立つ。


 やがて、四つ目のドアを正面に迎えたところで、再びカツンと音が響いた。


 ドアの向こう側からだ。


「ここか……」


 フツメンは躊躇なくドアノブを引いた。


 鍵は掛かっていなかった。


 開かれた先に続くのは、これまで歩いていた廊下と大差ない暗がり。ただ、その奥まった場所には窓が設置されており、ガラス越しに差し込む外界からの明かりが、部屋の中の様子をぼんやりと照らしていた。


 内部は大して広くないワンルームだ。数歩ばかり足を踏み入れれば、調理場を除く大半のスペースを確認することができる。西野は片手をズボンのポケットに突っ込んだまま、何気ない調子で部屋の中に入っていった。


 すると直後、視界に入ってきたのはショッキングな光景だ。


「素直に吐きなさい? 貴方が西野君をたぶらかしたのでしょう!?」


 そこにはローズがいた。


 更に彼女の足の下で、地面に倒れ伏して足蹴にされる黒ギャルの姿があった。傍らにはユッキーの姿もある。後者に関しては、暴力を振るわれた跡が見受けられた。薄暗がりの下であっても如実に窺える。


 目元に青あざ、更に左手の小指が非ぬ方向に曲がっている。


「な、なんのこと!? 私は何もしてないよっ! それよりもユッキーが大変だから、お願い! 病院に行かせてっ!? 沢山殴られて、大変なことになってるのっ! このまま放っておけないでしょっ!?」


「今更そんな世迷言が通じると思っているのかしら?」


「よ、世迷言って、どういうこと? 私、中卒で馬鹿だから……」


 黒ギャルは涙目だ。


 ローズは床にへたり込んだ彼女の豊満な胸を片足で踏みつけると同時に、片手で髪を引っ張り、首から上をグイグイといわせている。その傍らで山野辺に庇われるように倒れたユッキーは、どうやら意識を失っているようで、グッタリとしている。


 おかげで西野の反応は顕著だった。


 彼の脳裏でカチンと、パズルのピースがハマる音が響いた。


 実際には全然ハマっていないのだけれど、それでも響いてしまった。


 何を語るまでもなく、その腕は動いていた。


「貴方、日本人なのに日本語が通じな……」


 猛るローズの足が太ももの辺りでブツンと切断された。


 例によって例の如し、傷口は間髪を容れずに氷結する。おかげで周囲が血液で汚れることはない。切り飛ばされた足は、その勢いから後方に飛んで、ゴロンゴロンと床を転がった。同時にバランスを崩した肉体が倒れてゆく。


「あ……」


 その視界は部屋に足を踏み入れた西野の姿を映した。


 目が驚愕に見開かれる。


 ややあって、どさりとローズの身体は床に倒れた。


 その姿を見下ろして、フツメンは淡々と言葉を続ける。


「アンタだったのか? マーキスの調べが外れるとは珍しい」


 語る調子は普段と何ら変わりない。


 ただ、本日に限っては少しばかり声色が低いフツメンだ。


 何故ならばローズが足蹴にしていたのは、ここ数日にわたってカースト底辺と青春トークをご一緒してくれた同い年の女の子である。そこに並々ならぬ価値を見出していた西野としては、己を壊されたにも等しい苛立ちを覚える。


「ちょ、ちょっと待って頂戴」


「何を待つ必要がある?」


「もしかして、か、勘違いしているんじゃないのかしら?」


 容赦のない殺意を感じて、ローズは慌てた。


 珍しくも本心から慌ててみせる金髪ロリータだ。


 語る口元には引き攣る様子が窺える。


「今の光景のどこに勘違いする猶予があった?」


「ぁ……」


 続けざま西野の腕が振るわれる。


 残っていたもう一本の足もまた、膝の上辺りで切断された。


「このままあの女とお揃いにしてやろう」


「っ……ま、待って、西野君っ! 私の話を聞いて欲しいわっ!」


「待つ理由がないな」


「いいの、西野君に殺されるのなら、なんら構わないわっ! ただ、それならせめて、こんな汚らしい場所でじゃなくて、もう少し綺麗なところで、私と貴方だけ、二人だけで殺して欲しいわっ!」


「そういう贅沢は他所でやってくれ」


「うっ……」


 更に二度、フツメンが腕を奮った。


 ローズの腕が根本から切り飛ばされる。出血こそ正体不明の氷結で防がれており、現場が血液で汚れることはない。ただ、おかげで彼女が持つ自然治癒もまた、勢いを失って思われる。


「再生者というのは面倒だな」


「……西野君」


 黒ギャルを苛めていた際とは打って変わって、ローズは大人しくなった。床に転がった姿勢のまま、部屋の出入り口にほど近い場所に立ったフツメンをジッと見つめる。まるで目の前の光景を眼に焼き付けんとせんばかり。


「アンタ、どこまで持つんだ?」


「…………」


「楽には殺さない」


 治癒こそ始まりつつあるが、痛みや負担が無いという訳ではないようだ。段々と顔色も悪くなっていく。額にはいつの間にやらびっしりと汗が浮かび上がっている。ただ、それでも瞳だけは瞬きすら忘れたようにフツメンを凝視していた。


 おかげで慌てたのが黒ギャルだ。


「ちょ、ちょっと待って、ニッシー!」


「悪いが目を瞑っていて欲しい。これから少しばかり刺激的な……」


「違うのっ! この人は別に悪くないのっ! だから止めてっ!」


 大慌てで身を起こした山野辺が、ローズと西野の間に割り込んだ。


 そして、声も大きく語って見せる。


「なんかよく分からないけど、この凄いの、ニッシーがやってるんだよねっ!? 手品とか、マジックとか、そういうのじゃないんだよねっ!? もしも本当に大変なことになってるなら、お願いだから止めてあげてっ!」


「……どういうことだ?」


「勘違いなのっ! 私がこの子に勘違いさせちゃったのっ!」


「勘違い?」


「この子は私たちを助けてくれたのっ! ただ、私がニッシーのことをニッシーって言ったりしたから、その、か、勘違いをさせちゃって、それで怒らせちゃったの! だからお願いっ! これ以上酷いことしないでっ!」


「…………」


 おかげで続く言葉を失ったニッシーである。


 何故ならば、てっきり事件の黒幕がローズだと、思い違いをしていた彼だった。ユッキーの怪我も彼女の行いによるものだとばかり考えていた。だからこそ山野辺から伝えられた、助けてくれた、という物言いを受けてビックリである。


 そうこうしていると、部屋の隅に設けられたキッチンフロアから、ひょっこりとガブリエラが姿を現した。ホールの一面に設置されたカウンターより先、奥まった位置に設けられていた調理スペースである。


「お姉さま、男どもを縛って隅の方においてきたで……す」


 直後、ガブちゃんは静止した。


 床に転がるローズと、その傍らで悠然と立つ西野。後者と同じ力を振るう彼女には、前者がどういった仕打ちを受けて、床に倒れているのか、容易に理解できた。おかげで何が起こったのかと、混乱も一入である。


 一方で西野もまた静止していた。


 かろうじて、その口からは確認の声が漏れる。


「一つ確認したい、この女に助けられたとは?」


「私たちを助けてくれたのっ! 私とユッキー、ここで捕まってたの!」


「…………」


 これにはぐぅの音もでないフツメンだった。


 ハマった筈のパズルのピースは、カタリと音を立てて盤面から落ちた。




◇ ◆ ◇




 ローズが想い人から切り刻まれて興奮の只中に一方、同じビルの四階フロアでもまた、危地に立たされている者たちがいた。ハァハァと息も荒く呼吸を繰り返しながら、必死の形相で薄暗いビル内を駆け回っている。


 竹内君と委員長、それにリサちゃんの三名である。


 彼らが隣接する廃ビルの非常階段にローズとガブリエラの姿を見かけたのが、今から少し前の出来事だ。その姿を追い求めて同所に忍び込んだ三人は、建物の内部を探索中に見知らぬ男と遭遇した。


 他の建物であったのなら、テナントに出入りする客や従業員と考えることができたかも知れない。しかしながら、こちらの建物は取り壊しが目前に迫った廃ビルであった。更に夜遅い時間帯とあっては、工事業者の可能性も低い。


 更に相手の風貌が見るからにチンピラ然としていれば、自ずと竹内君たちの歩みは後ろに下がっていた。そして、相手もまた予期せず遭遇した彼らに対して好奇を示した。取り分けリサちゃんと委員長の存在が、男の股間を刺激した。


 三人は男を確認してすぐ、脱兎の如く逃げ出した。


 すると相手は間髪を容れず、後を追い掛けてきた。


 結果的に現在、建物の内部で逃げ惑う三人の姿がある。


「委員長、ここから下の階に飛び降りれるよ!」


 リサちゃんが声を上げた。


 彼女の指摘どおり、部屋の一部で床が抜けていた。


 先には階下の様子が窺える。ニ、三メートルほど高低差があるものの、降りて降りれないことはなさそうだ。常日頃から運動部で身体を鍛える彼ら彼女らであれば、そこまで問題になる高さでもない。


「お、降りるの?」


「二人とも先に降りちゃってよ! 俺はドアを押さえてるから!」


 後先考えずに飛び込んだ一室での出来事だった。


 廊下にはドアをガンガンと叩く男の気配がある。建材の破片でも打ち付けているのか、かなり大きな音が聞こえる。衝撃も結構なもので、一撃が打ち付けられる毎に、ガタガタとドア全体が震えると共に、蝶番が軋みを上げる


 これを一生懸命、内側から抑えているのが竹内君だ。


 実は上手いこと内側から鍵が掛かったので、これといって抑えている必要はない。しかし、そこはピンチをチャンスに変えるのがイケメンである。自ら矢面に立っている風を装い、リサちゃんと委員長、二人に対して確実にポイントを稼いでいく。


 あれ、ドアって鍵とか付いてなかったっけ? とは委員長の脳裏に一瞬ばかり過った寸感である。ただ、これを確認している余裕もない。もしかしたら壊れているのかも、と都合のいいように解釈して、その意識をリサちゃんに向ける。


「よ、よし、それじゃあ行くよ!?」


「リサ、絶対に怪我とかしないでよっ! 足首痛めたら最悪だよ!?」


「大丈夫、分かってる!」


 リサちゃんは端末の明かりをかざして、下のフロアを確認する。幸い足場は平たい床が広がっていた。これなら飛び降りても十分に着地ができるだろう。そのように判断して、彼女は一息に飛び降りた。


 バタンという着地の音が、上のフロアで待つ二人の耳に届く。


 直後にリサちゃんの元気な声が。


「降りたよー!」


「竹内君、それじゃあ私たちもっ!」


「レディーファースト、委員長が先に行っていいよ」


「す、すぐに来てよね?」


「分かってるさ」


 内心、ビビりにビビっている竹内君だ。今もいつ男がドアを破って部屋に入ってくるかと気が気でない。それでもクラスの綺麗どころと一緒という状況が、彼に虚勢を張らせる。ここぞとばかりに格好つけさせる。


 少しだけ西野の気持ちを理解したイケメンである。


「リサ、いくよ!」


「うん!」


 リサちゃんに続いて委員長もまた、下のフロアに飛び降りた。


 着地の音が竹内君の耳に入る。


 どうやら志水も無事に階下に降りたようである。


 次は彼の番だ。


 そこでイケメンは室内を見渡す。そして、隅の方に放置されたソファーを発見。念のためにと考えて、これをドアの正面まで引きずり移動させた。万が一に鍵が壊されても、これで少しは時間が稼げるだろう、といった判断である。


 無事に移動を終えて、ふぅと一息。


 そこで、はたと彼は気づいた。


 今の今まで聞こえていたドアを叩く音や、男の声がいつの間にか失われている。ソファーを移動させるのに一生懸命になっていた為か、気づくのが遅れたようである。時間にしてほんのニ、三分の出来事だ。


「……ちょっと待てよ」


 咄嗟に意識が向かったのは、下のフロアだ。


 彼はドアから離れて、女子二人が飛び降りた穴の縁に向かう。


 恐る恐る階下の様子を窺う。


 するとそこでは、彼が想像した通りの光景が広がっていた。


「むー! むー!」


「んんぅううー!」


 委員長とリサちゃんが、見ず知らずの男二人に猿ぐつわを噛まされていた。男の内一人は、つい先程まで廊下でドアを叩いていた人物である。どうやら竹内君たちは、彼らによって意図的に追い詰められていたようだった。


 そして、男たちの意識は既に竹内君から離れていた。


 どうやら女子二人が目的であったらしい。


 彼らは委員長とリサちゃんの身柄を確保すると、どこへとも歩み去っていった。当然、彼女たちの腕を強引に引きながらのことである。上のフロアに残っている竹内君のことは完全に放置だ。


「……マジかよ」


 イケメンの胸の内には二つの感情が生まれた。


 一つは自分が助かったことに対する安堵だ。男たちの関心が自分に向いていないことは、彼もまた理解できた。今ならばビルの外まで逃げ出すことも可能だろう。このまま部屋に隠れて警察の到着を待つという判断もできる。


 他方、もう一つは委員長とリサちゃんに対する仲間意識だ。緊急通報を受けた警察が現場に到着するまでには、少なくとも数分を要するだろう。その間に彼女たちがどういった仕打ちを受けるのか、同じ男の子である彼には十分に理解できた。


 場合によっては、別の場所に連れ去られてしまうかも知れない。


「…………」


 聡明な竹内君は前者を選びたかった。相手が真っ当な人間でないことは、彼も十分に理解できた。廃ビルというロケーションも手伝い、得体の知れない男性たちの存在に恐れが先行する。後々、妙なグループから標的にされる可能性もある。


 様々な憶測や想像が思い浮かび、自ずと及び腰になる


 ただ、そうした彼の脳裏にふと浮かぶものがあった。


 それはいつだか、旅中に垣間見た太郎助の姿だ。


 見ず知らずの土地で、銃や刃物に武装した一団から襲われた一件。よもやこれまでかと思われたとき、偶然から居合わせた憧れの人物によって助けられたことは、竹内君にとって生涯忘れられそうにない刺激的な出来事だった。


 もしもこの場に太郎助さんが一緒だったら。


 そうした想像が、竹内君の心に熱いものを灯させる。


「…………」


 二ヶ月前の彼であれば、すぐにでも現場を脱していたことだろう。その足で交番に駆け込んでいたに違いない。事実、松浦さんと共にヤクザに拉致られた際には、我先にと逃げ出した竹内君である。


 しかしながら、今日の彼は少しばかり違っていた。


 手早く警察への通報を済ませた竹内君は、覚悟を決めた様子で顔を上げる。そして、今し方に移動させたばかりのソファーを退けると、地上へ向かうことなく、階下のフロアに向かって駆け出した。


 まさかその太郎助さんが、同じ感慨をどこぞのフツメンに対して抱いていたとは、夢にも思わないイケメンである。




◇ ◆ ◇




 黒ギャルの懸命な説得の甲斐あって、ローズの誤解は解かれた。


 結果的に一変して窮地に立たされているのが西野だ。


「……悪かったな」


「人を半殺しにしておいて、それだけなのかしら?」


「…………」


 腕を組んで偉そうに立っているローズ。


 その正面でフツメンはしゅんとしている。


 黒ギャルも見ている手前、バツが悪い西野だ。


 ちなみにガブちゃんは部屋の隅に立って大人しくしている。久しぶりに目の当たりにした西野マジックを受けて、過去のトラウマが刺激されたのだろう。彼とは少しばかり距離の感じられる立ち位置だ。


「だが、どうしてアンタがこっちの事情を知っているんだ?」


「六本木の彼に確認したのよ」


「その理由が気になったんだ」


「貴方の引越し先については、あの女から連絡を受けていたわ。そこで今回の一件が話題に上がったものだから、同じ学校に通うよしみとでも言うのかしら? 手助けをしようと動いていたのに、この仕打はあまりにも酷いわね」


「…………」


 フランシスカからフツメンの引越し先について情報を得ていたのは事実である。だが、新居が荒らされていることを知ったのは、彼女たちの方が先だ。ただ、それでも決して嘘は言っていない。ローズは自分に都合がいいように、スラスラと語ってみせた。


 予期せず転がり込んできた好機を受けて、彼女の気分はこれでもかと高ぶっていた。この機会を逃してはなるまいと、大上段に語ってみせる。まさか新居への不法侵入を素直に弁明するような大人しい女ではない。


 おかげで西野には弁明の余地もない。


「すまなかった」


「本当にすまないと感じているのかしら?」


「…………」


 フツメンを睨みつける彼女は、その背筋に快感の走りを覚えていた。意中の相手が大人しく頭を下げて謝罪する様子に興奮していた。背筋にぞくぞくとしたものを覚えて、口上は勢いを増してゆく。


「もしも相手が私でなかったら、大変なことになっていたわよね」


「……そうだろうな」


「それを謝罪の言葉だけで済ますというのは、どうかと思わないかしら?」


「…………」


 ここぞとばかりに非難の声を上げるローズ。


 内心では顔に笑みが浮かびそうになるのを抑えるのに必死である。


「あら、黙りかしら?」


「素直に言ってくれ。アンタの望みは何だ?」


「望み? 取り立てて望みなんてないわ。こうして問い正しているのは、それもこれも貴方の素直な思いが聞きたいだけなのだから。まさか自身の行いが全て、金銭で精算できるだなんて考えていないわよね?」


 西野の懐が温かいことは、ローズも十分に理解していた。


 だからこそ金銭をせびって終わらせるつもりなど、毛頭ない彼女である。より効果的に相手の意識に自身を植え付けるべく、今も必死に思考を巡らせていた。三ヶ月間という約束の期日が迫りつつある昨今、彼女には躊躇している余裕がない。


「悪かったとは思っている。本当だ」


「何ら気持ちが伝わって来ないわね」


「どうしたら伝わるんだ?」


「それを謝罪の対象に確認するというのはどうなのかしら?」


「……俺にはアンタが分からない」


「私だって貴方のことは分からないわ」


「…………」


 普段は憎まれ口を叩いてばかりのフツメンだから、一方的に弄り回す機会など滅多にない。おかげで段々と西野を虐めるのが楽しくなってきた金髪ロリータだった。もうしばらく続けたいわね、などと考え始めている。


 ただ、そうしたやり取りも長くは続かない。


 部屋の隅の方から声が上がった。


「あ、あの、話してるところごめん!」


 山野辺が声を上げた。


 ローズはこれを無視したが、西野の意識がそちらに移ったことで、致し方なし、彼女もまた視線を向けた。これまでのやり取りから、目の前のフツメンが黒ギャルの存在を重要視していることは、彼女もまた理解していた。


「私、ユッキーを病院に連れて行きたいんだけどっ……」


 彼女の腕には依然として気を失ったままのユッキーが抱かれている。西野がやって来て以降、ローズと彼とが話を始めてしまったことで、今の今まで語り掛けるタイミングを逃していた彼女だった。


「まだいたの? さっさと行きなさい」


「わ、分かれる前に連絡先だけでも教えてもらえたりしないかな? 助けてもらったお礼とか、しないといけないとだし、それにユッキーにも後で二人のこと、ちゃんと説明しておきたいから……」


「そういうのは結構よ」


「え、でもっ」


「意識が戻らないのでしょう? 急いだほうがいいわよ」


「っ……」


 さっさと追い出したいのだろう。


 わざと相手の危機感を煽るようにローズは語ってみせる。


 すると山野辺は素直に慌ててみせた。


「や、やっぱりそうだよねっ!?」


「手遅れになる前に行きなさい」


「ニッシーと同じ津沼高校の子だよね!? 後でちゃんと連絡するから!」


「……連絡は結構よ」


 ニッシーなる響きを耳にして、ローズの表情が僅かに曇る。


 どうやら意中の彼を相性呼ばわりしたのが気に入らない様子だ。西野がこうして正座しているのも、そもそもは彼女がフツメンを相性で呼んだことが原因である。一つ屋根の下、シェアハウスという状況から、一方的に嫉妬した金髪ロリータの暴走である。


「それじゃあ、あ、ありがとうねっ!」


 ペコペコと頭を下げる黒ギャル。


 アパレル勤務とあっては、日頃から重い荷物を手にすることも多いのだろう。自分より背丈のあるユッキーを背負い、その足を引き摺りながらも、どうにかこうにか部屋から廊下に向い歩いていく。


 その姿を眺めて、咄嗟に声を上げたのがフツメンだ。


「ちょっと待て、せめて救急車を呼ぼう」


「だ、大丈夫だよ。外のコンビニで呼ぶから!」


「分かった。それならビルの外まで送って……」


「西野君?」


 当然、ローズは睨みを利かせる。


 ここで逃すなどとんでもない。


「すぐに戻る。女の身体で男を背負って地上まで階段を下るのは……」


「だ、大丈夫だよっ! なんだか迷惑かけちゃってごめんね、西野君」


 ニッシー呼ばわりが失われた瞬間だった。


 黒ギャルはえへへと笑みを浮かべる。


 そして、ペコペコと繰り返し頭を下げながら、部屋を去っていった。


「…………」


 後に残されたのは、少しばかり気落ちしたフツメンと、満足そうに笑みを浮かべる金髪ロリータ。そして、二人とは少しばかり距離をおいて、一連のやり取りを眺めるガブちゃんの三名となる。


「さて、西野君。さっきの話の続きなのだけれど……」


 ローズにとっては、フツメン攻略に挑む又とない機会である。


 その胸の内には、他の女には絶対に渡すまいという気概が渦巻いていた。

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