部活動 十三

 誰かが期待に胸を膨らましている。誰かが絶望に嘆いている。誰かが暇に時間を持て余している。そうした誰彼の都合など、まるでお構いなしに時間は淡々と過ぎてゆく。気が付けば数日が過ぎて、週末を向かえていた。


 そんなこんなで訪れたのはイベント前日である。


 時刻は午後六時を過ぎた辺り。向坂を筆頭とした津沼高校ブレイクダンス同好会の面々は、学業を終えて直後、お台場を訪れていた。向かえにやってきた七三曰く、これからリハーサルが行われるとのこと。


「あの、か、会場に行くんじゃなかったんですか?」


 竹内君から七三に質問の声が上がった。


 それは尤な訴えである。


 学校まで向かえの車がやってきたかと思えば、皆々が連れて行かれたのは、会場に程近い位置に建てられたホテルである。スーツ姿の七三を引率として、ブレイクダンス同好会一向はエントランスを足早に過ぎて、高層階の廊下を歩んでいた。


 ちなみにリハーサル会場は、同所から少し距離をおいて屋外となる。ステージなどの施設は既に建築が終えられており、照明が灯っている。本番を翌日に迎えてリハーサルの最中にあり、窓を開ければ同所からでも、その音が聞こえることだろう。


「先に挨拶をしておかないとならない人がいるんだ」


 七三は歩みも早く歩きながら答えた。


 ちなみに彼とは津沼高校の校長室で分かれて以来、二度目の顔合わせとなる。こんな体たらくで本当に大丈夫なのか、とは竹内君も心中穏やかでない。ダンス中の演技が人知の及ばぬ力で成り立っている都合上、事情を知らないイケメンは不安を隠しきれない。


 事実、イベントの参加が決まってから本日を向かえるまで、問題のアドリブで成されたシーンに関しては、一度として練習が行われていなかった。彼らが練習したことはといえば、皆で一緒に踊るパートばかりである。


 それもこれも当事者であるローズとガブリエラが、その点に関しては問題ないと太鼓判を押した為だ。そうなると流石の竹内君も、カースト上位の女子二名には逆らえなかった。下手に強行しても、そんなに足蹴にされたいのかと、妙な勘ぐりを受けかねない。


 一方で何ら動じた様子を見せないのが西野である。


「ほぅ、名は何と言うんだ?」


 七三の声を受けて、意気揚々と軽口など叩いてみせる。


 おかげで即座に叱られた。


「お前は喋るな」


「…………」


 彼らのマネージャーは竹内君にも増して、ハッキリと者を言う人物だった。おかげで少し胸の内がスッキリしたイケメンだろうか。もしかしたら俺ら、西野のこと少し甘やかしてたかも、などと過去の対応を思い起こしては一考である。


「これから会う人はかなり偉い人だから、喋るときは十分に注意するように」


「わ、分かりました」


 七三の言葉を受けて、皆々を代表するように竹内君が応じた。


 引率する彼の力強い物言いに、業界の貫禄のようなものを感じたイケメンである。もしも太郎助が一緒だったのなら、七三もここまで大きな態度は取らなかっただろう。弱気に強く、強気に弱い、そんな典型的な業界人が七三という男である。


「ここだ」


 同ホテルにおいても極めて高いところに位置する一室。


 居室に通じるドアの前で七三が立ち止まった。隣り合う部屋の戸口が遠く見えない時点で、同所が相応に値の張るスイートであることが窺える。当然、そこに宿を取った人物の立場もまた然り。


 手元からカードキーを取り出した七三がドアを開けた。


「失礼します」


 短く声を掛けて、廊下から居室に足を踏み入れる。


 ブレイクダンス同好会の皆々もまた、その背に続いた。


 玄関ホールを思わせる空間を超えて廊下を歩んだ先には、広々としたリビング・ダイニング。部屋の隅にはバーカウンターやピアノまでもが窺える。また、他に寝室へ通じると思しきドアが廊下に見受けられた。とても広々とした間取りである。


 バルコニーに面した居室の壁には、全面にガラス窓が張られており、臨む光景は綺羅びやかにライトアップされたオーシャンビュー。そろそろ日も落ちようかという頃合い、キラキラと煌くレインボーブリッジが映えていた。


 素人目にも値の張りそうだと感じる一室である。


 問題の人物は、そのリビングに設けられたソファーに腰掛けていた。


「ご挨拶をしなさい。今回のイベントを取り仕切っている方だ」


 七三からブレイクダンス同好会の面々に向けて指示が飛んだ。


 その口調はこれまでにも増して厳しいものだ。


「あの緒形屋太郎助の面倒を見ていらっしゃる方でもある」


 予期せず耳にした憧れの人の名を受けて、竹内君の期待感は急上昇。もしかしたら、もしかしてしまうかも知れない。胸がドキドキワクワクと高鳴り始める。まだ見ぬ将来の芸能界生活が、彼の脳裏に描かれた。


「まあまあ、若いものを相手にそう強く言うのはよくないですよ」


 答える偉い人はご機嫌である。


 七三から存分にヨイショされたことで、気分も良さそうに受け答え。ソファーの手前に立ち並ぶ西野たちを眺めて、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべている。見たところ年頃は六十を過ぎた辺りだろうか。ワイシャツにジーンズ姿の老体である。


 しかしながら、指の関節に生まれたシワの深さに対して、妙に張り艶の良い首から上の肌を考えるに、実年齢はもう少し上と思われる。不自然に整った髪の生え際からも、少なからず整形を繰り返していることが窺えた。


「座ったままで悪いね。どうにも腰の調子がよくないのです」


 老体は片手にグラスなど掲げながら、気分も良さそうである。その理由はひとえに、今まさに彼の視界に入ったローズやガブリエラの姿が所以である。偉い人の視線は自ずと動いて、彼女たちの胸元や股ぐらを舐めるように見やる。


 彼ら彼女らが同所へ呼ばれたのは、それもこれも二人の存在が理由であった。そもそも今回のイベントに対して、急に声が掛かったのもまた、半分くらいは彼女たちの西洋ロリボディーに偉い人が興奮したからである。動画の話題性は体のいい言い訳だ。


 そんな上機嫌の偉い人に、これでもかと水を差すヤツがいる。


「なるほど、あの男の後見人か」


「っ……」


 西野である。


 あれだけ注意したのに、そう言わんばかりの眼差しが七三からフツメンに対して向けられた。その表情は般若の如くである。いいからお前は喋るな、そう訴えんばかりの視線が西野に向けられている。


 一方で老体もまた、まさかこうも容易にタメ口を利かれるとは思わなかったようだ。伊達に歳を重ねていない。若者からの軽率な発言には人一倍敏感なお年頃である。肥大化した自尊心はきっと死ぬまで治らない。


「さ、最近の若者は元気があって良いじゃないですか」


 少なからず苛立った様子で言葉を返した。


 その視線は七三を睨むように移る。


「申し訳ありませんっ! じゅ、十分に行って聞かせてはいるのですがっ……」


「構いませんよ。これから知っていけばいいのです。世の中というものを」


 ニコニコ笑顔を崩すことなく、偉い人は西野を見つめて語る。口調こそ穏やかではあるが、瞳はまるで笑っていなかった。コイツ、許さない。コイツ、絶対に許さない。言わんばかりの感情がその内側に感じられた。


 しかし、そんな彼の憤慨もフツメンにはまるで関係のないことだ。


「ああ、よろしく頼む」


「っ……」


 彼にとっての偉い人とは、単なる商売相手である。例えばマーキスのバーで待ち合わせた依頼人であったり、必要な物資を買い付けてくれたバイヤーであったり。その手の相手と大差ない認識で同所に臨んでいる。だからこその反応であり、対応だ。


 だがしかし、周りの大人たちはそのようには考えていない。ソファーに腰掛けた偉い人は、日本を代表する芸能業界の重鎮で、これに迎えられた若者たちは彼のもとで働く丁稚に過ぎない。偉い人や七三はそのように認識している。


 おかげで出会って早々、笑顔が怪しくなってきた偉い人である。眉間の辺りがピクピクと隠しきれない怒りに震え始めた。同所へ臨むんだ両者の意識差が、老体の心もとない胸の鼓動をこれでもかと激しくさせた。


 おかげで気が気でないのが竹内君だ。


「ほ、本日はどうぞよろしくお願い致しますっ!」


 大仰にも頭を下げて、お辞儀などしてみせる。


 これ以上、西野に好き勝手されては堪らない。大慌てでフツメンを切って捨てに掛かるイケメンだ。今この場で権力から身を守るために必死である。仰向けになって腹を晒す犬のように、誠心誠意ご挨拶である。


「ああ、そうだね。うん。イベントは頑張って欲しいですね」


「はいっ!」


 そんなイケメンの姿を確認して、偉い人は少しばかり機嫌を持ち直す。


 偉い人は他人に傅かれるのが大好きだった。


 ゴマをすられるのも大好きだ。


 ただ、それ以上に好きなのが、若くて可愛い女の子だった。


「ところで君たちは、随分と綺麗どころが集まっているようだねぇ」


 その視線がローズとガブリエラに向かった。


 偉い人にとっては、彼女たちの存在こそが本題だ。わざわざ面会の場を設けた理由でもある。国内では大陸の文化がメディアを圧倒している昨今、珍しくも自らの手元に転がってきた色白いロリータの存在は、彼にとっても滅多でない機会だった。


 まさか逃してなるものかと、無理を承知でイベントに組み込んだ次第である。


「……なにか?」


 その視線が意味するところを理解したのだろう。


 答えるローズは甚だ不機嫌そうである。


「この業界に興味はありますか? もしよければ、今後とも一緒に仕事をしていけたらと考えているのだけれど、どうですか? あの動画だけじゃない。君たちには人を魅了する才能が備わっていると思うんです」


「…………」


「もしよかったら今晩、ここで詳しい話をしませんか?」


 下心満々の偉い人だった。


 おかげで心中穏やかでない竹内君である。意中の女の子が、目の前で寝取られようとしている。しかも相手は、今まさに自分が媚を売った人物ときたものだ。男として、これほど格好悪い展開はないだろう。


 他方、ここぞとばかりに会話へ混じろうとするのがフツメンである。


「それはまた見ものだな。せっかくの機会だ、挑戦してみたらどうだ?」


 クラスメイトと共に芸能関係者とイベント直前にトーク。それはリアルで充実を目指す青春原理主義の彼にとって、逃すことのできない絶好の機会であった。強引に会話へ入り込むと共に、ローズを煽ってみせる。


 テラスに面した窓ガラス越し、視界一杯に広がる綺羅びやかな夜景が、西野のシニカルな部分を心地良く刺激していた。ニィと気取った笑みなど浮かべて、段々と気分が乗ってきたフツメンである。


 だからだろう。そんな彼にメロメロで股キュンな金髪ロリータは堪らない。


 胸をドクンと高鳴らせながらも、愛しの彼と会話を継続。


「冗談を言わないで欲しいわね」


「アンタみたいなのほど、意外とハマったりするものだ」


「何が楽しくて猿回しの猿にならなくてはならないのかしら」


 軽口など叩きながらも、確実にお股をしっとりとさせてゆく。


 曰く、あぁ、西野くんってば、なんて夜景が似合う男なのかしら。


「私はお姉さまが一緒なラ、どこまでもご一緒いたしますわ」


「貴方は黙っていなさい」


 結果的に同所の雰囲気は、完全に部活動中のそれである。


 結果的に向坂と竹内君は黙って震える他にない。ローズとガブリエラの貞操が懸かっている為、偉い人をヨイショすることが憚られる一方、そうは言っても権力者を敵に回すわけにもいかない。


 おかげで西野の独壇場である。


 段々と表情を厳しくしてゆく偉い人の様子をチラリチラリと眺めては、頼む、もう終わってくれ、祈りを捧げるばかりである。再三に渡って適当に扱われた為、その顔は憤怒から真っ赤に染まっていた。


 結果的に場を諌めたのは七三である。


「と、とりあえず、彼らには頑張ってもらいましょうっ!」


 声も大きく言い放ち、皆々の注目を集めてみせる。


 その額にはいつの間にやら、汗がビッシリと浮かび上がっている。


「先生にはお手数をお掛けしますが、な、何卒、よろしくお願い致します!」


「……しっかりと頼みますよ?」


「そ、それはもう承知しておりますっ!」


 仕切り直しということだろう。少なくとも次の機会、西野が呼ばれることはなさそうだった。偉い人と七三の間で視線越し、一方的に指示が飛んでは、後者の肝をこれでもかと冷やしていた。


 そんなこんなでマネージャーの指示に従い、皆々は同所から退出である。


 偉い人との顔合わせは恙無く終えられた。


「…………」


 際しては何とも複雑な表情となるのが竹内君である。


 今日この瞬間、西野に対して敗北感を感じざるを得ないイケメンだった。




◇ ◆ ◇




 その日、松浦さんは自宅から数駅離れた商店街の金物店にいた。


 近所に大型モールが建造された為、シャッター街と貸した郊外の商店街、その中で営業を続ける数少ない店舗の一つだ。当然、お客の姿は他に見られない。パッと見た限りでは、営業しているのか否かも怪しいほどである。


 店舗自体もかなりの年季物で、戦前を思わせる風貌だ。木舞壁をトタンで補強して作られた壁に、ここ幾年と手の入れられた様子のない瓦。自動ドアや監視カメラといった文明の利器とは縁のない建物である。


「…………」


 事前に調べていたとおりの店構えを確認して、彼女は商品の購入を決めた。引き戸を越えて店内へ足を進ませる。手狭い店内では床から天井まで、商品が隙間なく雑多に陳列されていた。その中から彼女は、手早く目当ての品を探し当てる。


 品質に問題がないことを確認して、そのままレジの下へ足早に向かう。


「これください」


 従業員は店主と思しきお婆ちゃんが一人きり。カウンターの内側は、商品の並べられた店内より幾分か高く作られており、畳が敷かれていた。そこに座布団を敷いて、お婆ちゃんは腰掛けていた。


 客足も遠退いて久しいのだろう。うつらうつらとしていたところへ声を掛けた形である。見たところ八十過ぎ、もしかしたら九十を越えて百歳近い老齢だ。顔や手はしわくちゃで、動きも同じ人間とは思えないほど緩慢なものである。


 お婆ちゃんはカウンターに置かれた商品を確認して、お値段を伝える。


「あい、千五百円だよぉ」


「これで……」


 財布から取り出した五千円札一枚で、松浦さんは会計を済ませる。


 お釣りが返ってくるには二、三分ばかりを要した。


「まいどぉ」


 シワだらけの手から受け取ったお札と小銭を財布に収める。


 お金のやり取りを終えたお婆ちゃんは、商品に積もっていたホコリを年季の入った小さなはたきで払い、カウンターの脇に下げられていビニール袋を一つ手に取る。そして、指先が乾いている為か、中々開けない袋の口に苦労しながら、どうにかこうにか商品を入れた。


「はいよぉ」


「……どうも」


 白いビニール袋に納められた商品が返された。


 これを受け取り、松浦さんは言葉も少なに踵を返す。


 そんな彼女に、お婆ちゃんから声が掛かった。


「おじょうちゃん……」


「……なんですか?」


 疑問に思いカウンターの側を振り返る。


 お釣りの額は間違っていなかった。商品もちゃんと袋に入れてもらい受け取った。まさか、ポイントカードの類いが運用されているとは思えない古めかしい店構えを思い起こしては、他に何があったろうかと肝を冷やす。


「また、おいでなぁ。そのときはおまけ、つけてあげるから」


 お婆ちゃんは穏やかな笑みを浮かべて言った。


 それはとても朗らかで優しい語り調子だった。


 ポカポカとした暖かさの感じられる、見送りの言葉だった。


「…………」


 何を語るでもなく、松浦さんは金物屋を後にした。




◇ ◆ ◇




 その日、マーキスは自身が経営するバーで一人、酒を飲んでいた。


 店先には閉店を示す看板が下がっている。


「…………」


 カウンターを出て客席に腰掛けるのは、久方ぶりのことだった。


 卓上にはどこぞのフツメンが好物とする銘柄のボトルと、これを受けるためのグラスが乗っている。氷や水を用意することもない。トクトクと手酌に注いでは、他に何をするでもなしに、ゴクリゴクリと喉を鳴らしている。


「…………」


 そろそろ日も変わろうかという時間帯。


 ふと、カランと来客を知らせる鐘の音が鳴った。


 自ずと視線が向かった先、そこには閉店を示す案内を越えて訪れた客の姿があった。身の丈二メートル近い巨漢の持ち主である。スーツの上からでもありありと窺える、見事なまでに鍛え上げられた肉体が印象的な人物である。


「あらぁん? 随分と流行っていないのねぇ」


 二丁目のオカマ、トーマスだった。


 本日は外出を意識してなのか、男性らしい格好をしている。ウィッグを外した頭髪は短く刈り上げられたブロンド。化粧をした様子も見られず、身に付けたスーツも男性のものだ。傍目には肉付きの良い二枚目として映る。まるで映画俳優のようだった。


「悪いが今日はやってない」


「定休日は月曜だったと思うのだけれどぉ?」


「…………」


 反応の鈍い店主を傍らに眺めて、トーマスは勝手に歩みを進める。


 マーキスから距離を取ること二席ほど、カウンター前の椅子に腰を落ち着ける。普段であれば、何某か酒の一つでも出てきそうなものだが、本日はバーテンの具合が良くないらしく、これといって反応は返らない。


「……珍しいこともあるものねぇ」


「帰れ」


「うふふ。今の貴方、とても可愛いわよ?」


「…………」


「ムキムキなのは趣味じゃないのだけれど、少し勃ったわぁ」


 トーマスはあれやこれやと語ってみせる。どこか相手を茶化したような物言いは、西野や向坂に化粧を教えていた時分と変わらない。それが生来のものであるか、キャラ作りなのか、これを理解する程度には付き合いのあるマーキスだ。


 しかしながら、バーテンからはこれといって返事がない。


 致し方なし、トーマスは同所を訪れた理由を素直に伝えてみせた。


「貴方のおかげで首の皮一枚繋がったわぁ」


 懐から封筒を取り出して、カウンターに乗せる。なかなかの厚さだ。


 ただ、そうして語ってみせた相手は、トーマスに意識を向ける様子が見られない。何をするでもなくグラスを手にしては、グビリグビリと喉を鳴らすばかり。続けられた言葉も、ひどく適当なものだった。


「そいつは良かったな」


「そういう貴方は、随分と機嫌が悪そうに見えるのだけれどぉ?」


「…………」


「おっかないったらないわぁ」


「……なら帰れ」


 普段から言葉数の少ないマーキスだが、本日は殊更に控えて見える。


 傍目にも元気がなさそうに映った。


「どうしたのぉ? 随分とらしくないわねぇ」


「別にどうもしない」


「…………」


 これを受けてはトーマスも思うところが出てくる。


 取り分け、ここ数日は話題に尽きない間柄だ。


「そう言えば、前に私のところへ来た子が、今度お台場でやるイベントに参加するとかしないとか、噂に聞いたのだけれど、貴方は知っているのかしらぁ? なんでもダンスを踊るそうよぉ? ネットで人気らしいわぁ」


「そうか」


「笑っちゃうわよねぇ? 怖くて見ていられないわぁ」


「……要件は?」


 相手の言葉を遮るよう、マーキスが伝える。


 これ以上は構ってくれるなと訴えんばかり、その声色には拒絶の意志が感じられた。マーキスの性格を知る者であれば、怒鳴り声を上げられるにも増して、肝を冷やしそうな底冷えする物言いである。


「貸し借りはきっちりとしておきたいタイプなの。それだけよぉ?」


「殊勝なことだ」


「義理堅いって言ってちょうだい」


「なんでも構わない。話はそれだけか?」


 ここへ来てようやっと、マーキスが顔を上げた。


 視線の先にトーマスを見つめる。


 互いに目と目が合ったところで、二丁目のオカマは言った。


「これは私からの助言なのだけれど、もしも店子の稼ぎを惜しいと感じているのなら、きっぱりと諦めることねぇ。今回ばかりは幾ら貴方とは言え、相手が悪いわぁ。悪いことは言わないから、騒ぎが収まるまで大人しくしているべきよぉ?」


「……どこまで知っている?」


「さぁ、どこまでかしら?」


「…………」


「アタシから伝えたかったのはそれだけ」


 視線が交わったのは、ほんの僅かな間の出来事である。


 おもむろに席を立ったトーマスは、それ以上何を語ることもなく、そそくさと店を出ていった。カランコロンと乾いた鐘の音が鳴るとともに、ドアが開いて閉じて。その背はすぐに見えなくなった。


 あとに残されたのは、グラスを片手に背を丸めたバーテンが一人である。




◇ ◆ ◇




 その日、リサちゃんは自室で勉強をしていた。


 将来はパパの隣で歯科衛生士。そんな未来を目指して、真面目に受験勉強を進めていた。来年は三年生、大学受験に向けて真摯に学業へ向き合っていた。できるだけ良い大学に入って、パパを喜ばせたいと考えていた。


 しかしながら、流石に二時間、三時間と続けていると疲れてくる。


 そこで気晴らしに、大好きなパパとお話をすることにした。


 近藤クリニックは土曜日も休まず営業している、ただし、同曜日に限っては開院時間も朝の九時から午後の一時までと、午前中のみの開院となる。そして、時刻はそろそろお昼を過ぎようという頃合い。最後のお客さんを見送るには良い時間帯である。


「ふふふ、土曜はパパと一緒にご飯だから嬉しいなぁ」


 午前の仕事を終えたパパと一緒に外食へ行くのが、彼女にとって休日の一番の楽しみであった。今日はどこへ行こうか、あれこれと考えながら、パパの仕事場となる一階の病院フロアに早歩きで向かう。


 階段を下り、廊下を幾度か曲がり、ドアを越えた。


 その先にはタイル張りの床と、真っ白な壁紙が続く。フロアを仕切る壁越しには、医療機器の並ぶ様子が目に入る。どうやら治療は既に終わっているらしく、普段なら響いている機械の動作音も聞こえてこない。


 これ幸いと一歩を歩み出すリサちゃん。


 そんな彼女の耳元へ、不意に届く音があった。


「あっ、あぁっ……先生、す、凄いですっ……」


「はっ、はっ、はっ!」


「それにこんなにがっついて、なんか、か、かわいいっ……」


 自宅に通じるドアと病院スペースとを隔てるセパレータ。その先に幾つか並ぶよう設けられた医療用のユニット。リサちゃんはその上に、愛しいパパと、同院で歯科衛生士を務める女性の姿とを見つけた。


 そして、パパの人工歯根は彼女の歯槽骨にオッセオインテグレーション。


 それもユニットへ仰向けに身体を横たえた歯科衛生士の女性に対して、パパが一心不乱に治療へ向かう格好である。その様子はまるで、飢えた赤子が母親の乳房に吸い付くようであった。少なくとも、これを目撃したリサちゃんには、そのように見えた。


 どうやら患者が捌けたのを良いことに、職場でインプラントしているらしい


「…………」


 これを目の当たりとした瞬間、リサちゃんの中で何かが崩れた。


 それはもうガラガラと崩れた。


「あっ、あぁっ……いいっ、きもちいいっ……」


「先生、いいですよぉ、とってもお上手です」


「ほ、本当っ?」


 彼女にとって、パパとは絶対の存在であった。


 学校の教室で眺めるクラスメイトの男子なんて、パパと比べたらぜんぜん子供よね。とてもじゃないけれど恋愛対象になんて見られないわ。インプラントなんて絶対に無理。みたいなことを、リサちゃんは常日頃から感じていた。


 いつだって強くて優しくて賢くて、誰よりも大人。それがリサちゃんにとってのパパである。そんなパパがあろうことか、一回り年下の若くて可愛い歯科衛生士と、大切な職場でインプラントである。


 それでも行為の形が、もう少しダンディーなものであったのなら、多少は面持ちを保ったかもしれない。パパだって大人の男性だもの、そういう欲求があったって当然じゃない。ちゃんと解消しないといけないわよね、みたいな。


 しかしながら本日のパパは、お母さんと一緒だった。仕上げは歯科衛生士。まるで我を忘れたように、彼女との治療行為にふけっている。更に相手から頭など撫でられている。為されるがままにヨシヨシされている。


「今日は大丈夫な日なんで、たくさん出しましょうね」


「あっ、で、で、でるっ……でるよっ……」


「こんなに必死になっちゃって、先生ってば可愛いんだから」


 しかも満更ではない表情だ。


 それは年下の異性にバブみを感じている中年野郎の顔だった。


「…………」


 それが、リサちゃんにとっては、とても汚らしいものに見えた。


 今日という日まで、彼女の中にあったパパへの愛情が消えてゆく。尊敬が失われてゆく。つい先程まで胸の内を一杯に満たしていた幸せなものが、まるで水風船でも弾けたように、瞬く間に消えていった。


 リサちゃんは物音を立てることなく、静かに同所を後にした。




◇ ◆ ◇




 色々なところで、色々な人たちが、色々なことになっている。


 ただ、それもこれも西野には関知する余地のない出来事である。


 偉い人とのお目通しを終えて翌日、いよいよイベントは当日を迎えた。昨年は雨天の下で、レインコートに見守られての開会であったという。対して今年は雲一つない晴天である。気持ちの良い秋晴れの下で開幕と相成った。


「いよいよ本番だな」


 イベント当日を迎えて、会場には気分を溌剌とさせるフツメンの姿がある。


 既にステージの上ではMCが声を上げている。これから幾つか前座となる出し物を経て、十分に観客が温まったところで、津沼高校が誇るブレイクダンス同好会のショーケースが出番となる。


 今回の舞台で箔を付けて、勢い良く売り込もうという偉い人の算段だった。


 そうしたスポンサーの意向を知ってか知らずか、同好会の面々は、各々が各々の目的のために胸を高鳴らせている。ちなみに本日は以前のイベントと同様、全員が女装を済ませている。例によってチアガール姿だ。


 ちなみに竹内君はもれなくヴィジュアル系。どうやらショックを受けているようで、視線も俯きがちな彼は更衣室で着替えを終えて以来、一度として口を開いていない。少なくとも西野たちは、そのように受け取った。


 あと小一時間もすれば、彼らの出番となる。


「ねぇ、西野君、喉は渇いていないかしら? さっき自動販売機で清涼飲料水を買っておいたのだけれど、もしよかったら飲んでくれても構わないわよ? ホテルを出てから何も口にしていないのではないかしら」


 良い笑みを浮かべて、ローズは手にした未開封のボトルを差し出す。


 彼女の指摘は事実である。ホテルを発って以降、西野はこれといって何も口にしていない。何故ならば彼のお財布には、十三円しか入っていないからだ。電子マネーやポイントカードの類いも全て尽きている。


「……結構だ」


 差し出されたペットボトルをチラリと眺めては、これを断るフツメン。ニコリと浮かべられた彼女の笑みに、良くないものを感じた様子だ。


 すると、これに間髪を容れずに動いたのが、ガブリエラである。


「そういうことでしたラ、私が頂戴させて頂きます!」


 その腕が動いたかと思えば、次の瞬間にはローズの手からボトルが消えていた。


 代わりに彼女の傍ら、喜々としてキャップを開ける銀髪ロリータの姿がある。意中の相手が自らの手で購入した、そんな瑣末なストーリーが彼女としては嬉しいのだろう。


 口を付けてゴクゴクと喉を鳴らす。その顔には満面の笑みである。


「……まあ、いいわ」


 金髪ロリータの顔が忌々しげに歪む。


 ただ、それ以上の追求はなかった。


 せいぜい苦しみなさい、とは彼女の心中に漏れた恨み言である。それもこれも西野をステージの上で脱糞させるために用意した、強力な下剤入りの一本だ。いついかなる状況においても、西野の社会生命を断つことに余念のないローズである。


 やって良いことと悪いこと、両者の垣根などまるで存在していない。


 彼女は西野が自身に依存しさえすれば、全てがハッピーだった。


 故に飲料から効果時間まで、綿密に計算された上での提供であったのだが、代わりに苦しむのはガブリエラの役割となりそうである。遺物混入の細工は随分と手の込んだもののようで、これに気付くことなく、彼女は一息に半分ほどを飲み干していた。


「お姉様かラ頂戴したお飲み物、とても美味しいですっ!」


「そう、良かったわね」


「はいっ!」


「たくさん飲むといいわよ」


「あリがとうございます! そうさせてもラいますっ!」


 満面の笑みを浮かべて、ゴクゴクと喉を鳴らすガブリエラ。


 気付けばボトルは空になっている。取り立てて喉が乾いていた訳ではない彼女だが、ローズからのプレゼントともなれば、肉体の具合など些末な問題である。小さなお腹はすぐにポチャポチャと鳴り始めた。


 そんなこんなで、待機時間を待つことしばらく。


 舞台の側からMCの一際大きな声が轟いた。


 それは彼ら彼女らにステージへの入場を示唆するものだ。


 遂に津沼高校、ブレイクダンス同好会の出番がやってきた。

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