準備 二


 普段より起床を送らせること数時間ばかり。午前中の授業を見送り、昼食を近所の牛丼チェーンに済ませてからの登校。昼休みの始まりを知らす鐘の音が校内に鳴り響くと共に、正門を抜けたのが四半刻ほど前のこと。


 教室へ到着して早々、西野はクラスメイトから詰問に遭っていた。


「ちょっと、松浦さんが作ったメニュー、失くしたって本当?」


 相手は志水である。傍らには松浦の姿もあり、そのすぐ近くには何故か竹内君と、彼と仲の良い男子生徒一同の姿もある。おかげで数名からなる学園カースト上位者との強制的なコミュニケーションだ。


 それも教室で自席に腰掛けた西野に対して、他者が周囲を取り囲む形である。


 題目は失われた喫茶店のメニュー。


 昨日、太郎助のホテルで襲撃を受けた際、破損、紛失してしまった文化祭の備品の所在を巡る問答である。実のところ同じものは複数個用意されているのだが、その一つが欠けたことにクラスメイトは憤怒を覚えている様子だった。


 事の起こりは志水が西野に対して、昨晩持ち帰ったメニューの翻訳作業の進捗を確認したことから。一方でその行方を完全に失念していたフツメンは、問われて全てを素直に告白した。曰わく、紛失してしまった。


 そこから始まった問答の至りである。


「ちゃんと松浦さんに謝りなさいよ」


 志水が言う。


 まさか逆らうつもりもなくて、西野は素直に従う。


「松浦さん、ごめん」


「ちょ、ちょっと、ちゃんと立って、もっと真心を込めてっ!」


「え、あ、いや、あの……」


 猛る志水と困惑する松浦。


 そしてこれを囃し立てる男子一同、といった具合だった。関与しない他のクラスメイトは、他人事を決め込んで遠目に眺める限り。普段と比較しては、少しばかり賑やかな昼休みである。


「ごめんなさい、松浦さん」


 席を立った西野は、腰を九十度綺麗に折って頭を下げた。


 自らの過失から消失してしまったのは事実だと、本心からの謝罪である。


「いや、あの、べ、別にいいよ。そこまでしなくても……」


「っていうか、どうせ翻訳ができなかったから、なんでしょ?」


 どこまでも素直に謝る西野。結果的に志水が立てた矛は、早々に向かう先を失い、自然と続く言葉は確信へと繋がった。周りの誰も彼もが味方だという驕りが、彼女の口を軽くさせる。大義名分は十分に立っており、熱血教師への言い訳も何ら問題ないだろう。


 そこまでして見せる彼女の棘の芯に何が詰まっているかと言えば、昨晩、進学塾で受けたテストの結果が詰まっている。英語の点数に著しい低下の見られた点が、彼女の気性を激しく波立たせていた。


 このままでは私立大学も危ないですねぇ、などと塾講師から言われてしまったのだ。


「いや、別に仕事を放棄したつもりは……」


「メニューを紛失したのなら、なんとでも言えるわよね?」


 凄む志水。


 伊達に東京外国語大学を目指していない。昨晩も帰宅後に自室で一人、決意を新たにワンランク上の参考書を開いたのだ。曰わく、私はこんな普通の高校で終わったりしない。絶対に東京外国語大学に受かってみせる。


 でも、今のままだと合格は絶望的。


 故に彼女の心は滾っている。


「だよな? どう考えたって無理だもんなぁ?」


 これに賛同の意を表すのが、西野を囲う男子生徒の一人。志水に片思いする鈴木君だ。愛しの彼女が鬱憤を溜めていると理解して、いの一番に肯定の声を上げた。その口調は相手を舐め腐り、その神経を逆なでるよう。


 友達には気の良いヤツで通っているが、一方で親しくないフツメン以下には厳しく接するタイプの意識高い系イケメンである。おかげで彼に対する友人知人からの支持は非常に厚い。ヤツに任せておけば間違いないと。


 ただ、今回の一件に関しては彼に限らず、皆々が鈴木君と同意見だった。


 アイツ、面倒になってぶっちゃけやがった、と。


「まあ、確かに証拠はない。それを示しての反論はできない」


「そらみなさい」


 素直に応じる西野と、少しばかり誇らしげな表情となる志水。


「下らない見栄を張るから、こういうことになるのよ? 自分だけの問題なら良いけれど、他人に迷惑を掛けるような真似は止めて貰いたいわね! いい? 分かったのなら、今後はこのようなことはしないで欲しいわねっ!」


「……分かった。ごめん」


 メニューを紛失してしまったことは事実なので、西野は素直に頭を下げる。翻訳云々に関しても、メニューという形を失ってしまった時点で、仕事の失敗は明白だ。少なくとも彼はそのように認識した。


 責められる側としても至極納得のゆく話だった。


「ふんっ……分かれば良いのよ。まったく」


 どうにも叩き甲斐のない問答に、若干の不満を垣間見せる志水。ただ、それ以上は他に言葉も続かなくて、これにて問答は終えられた。西野の席より踵を返して、普段よりも幾分か歩幅も大きく、ズンズンと自席へ戻って行く。


 彼女が去れば、他の面々もまた同様だ。


 残る昼休みの時間を満喫すべく散ってゆく。


 詰問会は数分ばかりで閉会した。


「……困ったな」


 西野のリアル充実作戦は、決意から僅か二日で暗礁へ乗り上げた。




◇ ◆ ◇




 同日、放課後を向かえた生徒たちが勤しむのは、文化祭の準備である。


 連日に渡り続けられる作業は、いよいよ折り返し地点も過ぎて佳境を向かえつつある。必要な機材も七割ほどが作り終えられて、段々と形が見え始めた頃合だ。


 手間の掛かる看板や仕切り壁の制作、事前連絡の必要な椅子や机の発注など、主だった作業は終えられて、今は当日の進行や衣装の都合など、少しばかり細々としたところに工程は移っていた。


 そうなったとき、作業に従事する者に求められるのは、単純な労働力ではなく、人と人とのコミュニケーションであり、そこから生まれる新たな創造となる。より良いコスプレ喫茶を演出する為、今の自分たちには何が必要か、互いに意見を出し合い検討、実現する為のフェーズである。


 故に西野は孤立していた。


 誰も彼とはコミュニケーションを取りたがらない。


 カースト上位は意図してフツメンを排除するよう動いていた。露骨に嫌味を言われるようなことはない。しかし、彼が歩み寄れば、これから遠ざかるよう動く。一方でカースト中位以下はと言えば、完全に避けていた。下手に関わってトバッチリを受けるのはごめんだとばかり、誰も非常に分かりやすい態度を示す。


「すまない、何か手伝えることがあれば……」


 そうした事情も手伝い、彼は現場を取り仕切る志水に声を掛ける。昼休みに叱咤を受けた折、クラスメイトの中では一番話が通じる相手ではなかろうかと、西野から勝手に認定していた。認定された側はと言えば、まさかそのように思われているとは想定外である。


「手伝えること?」


「ああ」


「何を言っているのよ。こういうのはね、自分で考えて、自分で動くものなの。そんな簡単なことも分からないの? 他人からの命令を待っているばかりじゃあ、碌な大人にならないわよ?」


「なるほど、確かに」


「ああ、でも下手なことして、また皆に迷惑を掛けないで欲しいわね?」


「分かった」


 ちゃんと仕事をしないと給与は支給しないぞ。だけど、ここにはお前に任せられる仕事はないぞ。そんな感じだった。


 どれだけ西野が愚鈍であっても、彼女の言わんとすることは理解できた。


「ほら、私も作業があるし、邪魔だからあっち行ってくれない?」


「あ、ああ、分かった。邪魔して、ごめん」


 小さく頭を下げて彼は志水の下を後とした。


 例によって教室では机と椅子が後方へ寄せられて、その前方に広々とした空間が作られている。これが彼にとっては、どうにもこうにも眩しい空間である。誰も彼もが楽しそうに、和気藹々と文化祭に向けて作業に勤しんでいる。それは貴重な青春の一ページであり、一生涯に渡って思い出となる大切なワンシーン。


「…………」


 これを避けるよう、西野は壁と机とに二面を囲まれた角へ向かう。


 教室の隅へと向かう。


 そして、軽く腕を組んだ姿勢のまま、壁に背を預けては立ち呆け。


 助言は貰ったものの、作業は貰えなかった。他の生徒は誰も忙しそうに働いている只中、自分だけ手持ち無沙汰なのは居心地が悪い。さて、これはどうしたものか。あれこれと真面目に考えを巡らせ始める。目下、志水の言葉に従えば、自分で考えて、自分で実行しろ、とのことである。


 なので、西野は考えた。


 どうすればコスプレ喫茶をより成功させることができるか。


 そこではたと思い至る。


 学園祭におけるコスプレ喫茶の成功とはなんだろうかと。


「……なんだろう」


 軽く考えて浮かぶのは、売上や利益、来客数といった具体的に数値として数えられる指標だ。だがしかし、それでは面白くないと西野は考える。


 同校の文化祭において、売上の額や来訪者の数を巡り、表彰があることを彼は知っている。だからこそ、商売繁盛を求めるのは他のクラスも同様だ。


 それなら自分たちのクラスは、売上以上の何かを是非とも手に入れたいと、フツメンの癖に贅沢なことを考え始める。


 彼が求めるのはオンリーワンな想い出だ。


 最後の瞬間に通用する、強烈な想い出だ。


 そういうのだ。


「となると……」


 西野は考える。


 必至になって考える。


 考えまくる。


 すると考えている最中、不意に教室の中程から声が上がった。


「んじゃ、俺と一緒に買い出しに行ってくれるひとー」


 竹内君が右手を高らか上げている。


「できれば女子がいいなー。もしも居たらこの指とまれー」


 イケてるボイスだった。イケボだった。キラキラ笑顔だった。


 これに喰らいついたのは、カースト上位に位置する女子生徒である。あわよくば親密度を上げるべく、あちらこちらから声が上がる。更には彼の下へと駆け寄り、ぴょんぴょん、頭上に掲げられたイケメンフィンガーを掴もうと跳び跳ね始める。


「はーい!」「あ、わたしもー!」「はいはーい!」「いきたいなー!」「この辺りだったら、私ってかなり詳しいよー?」「あ、ちょっと、私だってそれなりのものだったりするんだよー?」「あ、あのー、わたしもー」


 賑やかだった。楽しそうだった。


 その中には彼が好みとする女性、松浦さんの姿もあった。カースト中位から低位に位置する彼女にしては珍しくも積極的な運び。恐らくは先日に同イケメンから旅行へ誘われたことが、彼女を積極的にしたのだろう。


 これを目の当たりとして、ふと西野の脳裏に閃くものがあった。


「……外しか、ないな」


 もう、このクラスでのリア充化は不可能だと、深く悟ったようだ。


 人生は短い。


 彼はプランに効率を求めることにした。


 竹内君がイケメン友達と共に、クラスの可愛いどころを数名ばかり見繕い、学外へと買い出しに向かっていった。キャッキャウフフな大冒険。これに続くこと数分後、西野もまた学外への向かうことにした。学内から学外へ、世界を広げることにした。


 再びクラス委員長の下へと歩み寄る。


「すまない、委員長」


「……今度はなに?」


 先程にもまして不機嫌そうに志水は言う。


 今し方に竹内君が催した買い出しメンバーの抽選。これに漏れたことが、西野に対する彼女の態度を悪化させていた。伊達に東京外国語大学を目指していない。更にクラス委員なんかもやっている。相応にプライドが高いのだ。


「学外へ買い出しに行きたいんだが」


「買い出し? 貴方に任せる予算はないのだけれど」


「費用なら自費で落とす」


「……勝手にすれば?」


 志水の態度は酷く冷たい。


 物言いも突き放すようだ。


「ありがとう」


 西野は静かに頷いて答えた。もしも駄目だと言われたら、次はどうしようかと考えていた次第だ。これは助かったとばかり、手早く荷物をまとめて教室を後にする。


 彼が部屋を出て以後、教室では男女を隔てず、あちらこちらで陰口が叩かれた。




◇ ◆ ◇




 教室を出てしばらく、昇降口付近でのこと。


「あら、西野くん」


 西野はローズに出会った。


「…………」


 フツメンは美少女を無視して、上履きから下履きへと履き替えに向かう。彼女に関わるつもりはなかった。数瞬ばかり視線を交わした程度で、その姿は数多並ぶ下駄箱の影に隠れて見えなくなる。


 しかし、下駄箱を前に腕の上げ下げをしていると、先んじて下履きに履き替えたローズが、彼の下までやって来た。わざわざ、すぐ傍らへ歩み寄り、上目遣いにその顔を覗き込むほどの接近ぶりである。


「これから帰りかしら?」


「……文化祭の買い出しだ」


「あら、それは奇遇ね」


「…………」


 嘘か本当か、小さく手を打ってローズは答えた。


 一連の立ち振る舞いは、非の打ち所がないほどに可憐。もしも西野以外の男子生徒であったのなら、自然と笑顔になったろう。伊達に金髪碧眼白人美少女していない。全校男子生徒の八割以上が惚れている言っても過言ではない。


「どうせなら一緒に向かわない? 一人では寂しいでしょう」


「断る」


 ただ、そんな彼女の黒いところを知る西野だから、答える調子は渋い。


「他に誰かと約束でもしているのかしら?」


「していないな」


「じゃあ、特別に遠くへ行く用事が?」


「それもないな」


 彼女からの甲斐甲斐しい呼び掛けに対しても、反応の悪いフツメン。


 ローズは少しばかり語調を強めて続けた。


「クラスの嫌われ者にだって、一人くらい友達は欲しく無いかしら?」


 ニヤリと笑みを浮かべての問いかけである。


 これには流石の西野も、少しばかりイラっと来た様子である。ピクリと小さく片眉が震えた。ただ、取り立てて声を荒げることも無く、表情を変化させることもなく、淡々と受け答えをしてみせる。


「仮に欲しかったとしても、その枠に収まるのはアンタじゃないな」


「自分で言うのもなんだけれど、こんなに可愛い女の子が誘っているのに?」


「人は中身で判断するようにしている」


「それを貴方に言われると、妙な説得力を感じるから不思議だわ」


「……勝手に言っていろ」


 これ以上は相手にしていられないとばかり、彼は下履きに履き替えて歩き始める。すると、フツメンの後へ続くよう、ローズもまたこれに習った。互いに無言のまま、しばらくを進む。下駄箱から離れて、タイル敷きの昇降口を後とする。


 屋根のある場所を過ぎて幾らばかりかを歩めば、正門は目と鼻の先である。ここまで距離にして数十メートルばかり。その間、ローズは西野のすぐ隣を並び歩んだ。


 屋外に作業を行う生徒もちらほら見受けられた。彼ら彼女らはローズの脇に立つフツメンの出所に少なからず疑問である。どのクラスにも一人と言わず数人は居る冴えない男子生徒であるから、西洋美少女には相応しくないのだ。


「何故に付いてくる?」


 流石にどうよと、西野は彼女を見やる。


「だって正門はそっちじゃない?」


「…………」


 両者の間隔、距離にして一メートル。


 傍から見れば共連れだろう。


「アンタ、正門を出たらどっちに行くんだ?」


「右かしら」


「じゃあ俺は左に折れる」


 少しばかり歩調を早くして西野は進む。その足が正門を過ぎる。宣言通り、彼は左に折れて直進した。別れの言葉もなく、スタスタと早歩きで前へ前へ。


 すると、ローズもまた左に折れて直進する。彼の右斜め後ろをキープして、親鳥を追う雛鳥のように付いてゆく。


 数メートルを進んだ辺りで、先を行くフツメンが歩みを止めた。


「……こっちは左だが?」


「学園を臨む側から見れば右じゃない」


「なるほど、確かに嘘は言っていない」


「でしょう?」


「どうやら俺が方向を誤っていたようだ」


「あ、ちょっとっ」


 西野は途端に踵を返した。幾分か歩幅を大きくして歩み出す。言外にこれ以上は付いてくるなと露骨に示す。というより、口で言っても無駄だろうと理解したようだ。


 しかしながら、彼女は決して諦めなかった。歩幅の違いからか、少しばかり駆け足となりながらも後に続く。すぐに隣まで追いついて、西野の顔を窺いながら口を開いた。


「買い出しなら荷物持ちくらいするわよ?」


「……何故にそこまで必至なんだ?」


「貴方がノーマルだからに決まっているでしょう?」


「海向こうの連中は、そういうところが素直で良いな……」


「そう? ありがとう」


「…………」


 軽口を叩いたところで、西野はふと思い至る。彼女は自分を仕事の道具として利用しようとしている。そういうことであれば、自分もまた充実した日常生活を手に入れる為に、私生活で彼女を利用してみては如何だろうかと。


 ローズほど津沼高等学校で影響力のある生徒はいないだろう。上手く使うことができたのなら、つい半刻前に諦めた学内での充実を、現実のものにできるかもしれない。そんな些か情けない気付きだ。


「分かった。良いだろう、俺に付き合え」


「あっ、その言い方って凄く似合わないわね」


「…………」


 他の男に喰われた後だと思うと、些末な軽口に対して浮かぶ苛立ちも、妙に強烈なものとして感じられる童貞野郎だった。相手の意識が自身へ媚を売ることに注力していると理解するからこそ、そうした思いは殊更に響く。


 だが、それでもフツメンは美少女を利用することと決めた。


「気に触ったかしら?」


「……勝手に付いてくればいい」


「本当に良いの? どういう気変わりかしら?」


「諦めただけだ」


「ふぅん? まあ、それならそれで良いかしら」


 ローズが仲間になった。


 彼は彼女を伴って、当初の予定通り買い出しへ向かうことにした。




◇ ◆ ◇




 学校を発ってから、電車を乗り継いで三十分ほど。西野とローズは津沼高校最寄りの大手百貨店までやってきた。時刻は午後七時を過ぎようかという頃合だ。会社帰りのサラリーマンやOL、これに学校帰りの学生が合流すれば、なかなかの混雑具合である。


 正面エントランスを抜けたところで、エスカレータに向かい歩みがてら、二人は何気ない調子で言葉を交わす。西野は過去に幾度が来たことがあるので、取り立てて珍しいものはない。他方、ローズは初めて足を運んだようで、少なからず興味を示して思える。


「ところで貴方は、ここへ何を買いに来たのかしら?」


「……特にこれと言ってはない」


「え? ないの?」


「現場の判断で、それらしいものを購入するつもりだ」


「なるほど、クラスに居場所を失くして逃げてきたのね」


「…………」


 どうやら西野の苛められ具合は、余所のクラスにまで正確に伝わっているようだった。如何にタフな精神を持ってしても、少なからず悲しいのは事実である。だからこそ、一刻も早い改善が求められると、彼は強く感じていた。


「それなら適当にまわりましょう? 私、幾つか見たいものがあるわ」


「どうしてアンタの買い物に?」


「私の買い物に付き合う最中、ミラクルが見つかるかも知れないわよ?」


「……まあいい」


 こうして百貨店まで足を運んだ時点で、西野の目的の九割は達せられたも同然だ。残る一割は地下の食品売り場、値引きシールの貼られた総菜を確保することに達せられて、晴れてミッションコンプリートとなる。


「婦人服売り場は二階のようね」


「ああ、二階と三階、四階がそうだ。五階は子供向けと男性向けが半々、六階は大半が男性向けで、七階から九階までは衣料品以外に雑貨や家具の類いを扱っている。最上階にはレストラン街と本屋があった筈だ」


「随分と詳しいわね?」


「何度か足を運んだ覚えがある」


「そう? じゃあ行きましょう」


「分かった」


 謀らずして学園一の美少女と放課後デートとなった西野である。


 ただ、これっぽっちも嬉しくないのは、その性器が既に他の男を受け入れた後だと、知らされたからだろう。それでも彼女に最低限、貞操の二文字が備わっていれば、少なからず意識していたに違いない。多少なりともドキドキと胸を高鳴らせていたことだろう。


 しかし今のローズはといえば、もののついでとばかり、西野にまで股を開こうと迫っている。しかも事前に語られた言葉を信じるなら、全ては保身と金銭の為だ。その笑顔一つとっても、媚から来る好意ならざる行為なのだと、彼は理解していた。


「まずはあちらへ向かいましょう?」


「ああ……」


 西野は気づいた。自分が異性に求めているのは、ありのままの自分を受け入れてくれる人格なのだと。フツメン相手にそんな願いを叶えてくれる女性など、それこそ宝くじで一等が当たることを願うようなものだと気づくのは、まだまだ当分先の話である。


 学校を後とした際とは一変、今度は西野がローズの後を追う形となった。




◇ ◆ ◇




 百貨店を巡ることしばらく。


 西野の手には紙袋が二つばかり提げられていた。中身はローズが購入した衣服が収められている。スカートが二着とブラウスが一着。更にブーツが一組。涼しくなるこれからの季節に向けて、どれも厚手の生地に作られたものだ。


「以外と品揃えが良いわね」


「それは良かったな」


「ところで、貴方は何も買わなかったようだけれど……」


「取り立ててこれだと思えるものもなかったからな」


「であれば良いのだけれど」


 それとなく気遣いの意志を見せる金髪ロリータ。平素と比べて幾分か穏やかな立ち振る舞いは、異性経験に疎い少年西野の意識を何気ない調子で奪いに来る。これを彼は自らに言い聞かせることで、危うくも思いとどまる。相手は竹内君の女なのだと。


 過去、同じような勘違いの末に痛い目を見たことも、一度や二度ではすまない健全男子である。それこそ肉体的に痛い目から精神的に痛い目まで、実に幅広いラインナップでフツメンの心身は苛まれてきた。


 故に今の疑り深い彼が成り立っている。ちょっとやそっとじゃ騙されないぜ、俺は勘違いしてやらないんだぜ、とかなんとか必死に自分へ言い聞かせて平静を保っている。こうしてフツメンは女日照り街道をまっしぐらだ。


「でも、荷物なんて持って貰って良かったのかしら?」


「これも練習のうちだ。アンタの為じゃない」


「練習? 近く彼女でも作る予定があるのかしら?」


「そういうことだ」


「ふぅん? 女に飢えているって噂は本当だったのね」


「……そういうことだ」


 隠さない男、西野である。


 今更に隠したところで仕方がないとも言う。


「オナニーばかりの人生は辛いわよね」


「あれはあれで悪くないがな」


「そうなの?」


「誰しも自身のペースで至りたいことはあるだろう?」


「自身のペースで至れないケースが貴方の過去にあったのかしら?」


「俺は無いが、そういうアンタはどうなんだ?」


「貴方と違って年相応の経験はあると伝えておくわね」


「……そうか」


「確かに言われてみると、自分のペースというのは、ええ、悪くないわね」


「…………」


 自分から尋ねておいて、勝手に落ち込む童貞野郎。


 数日前、屋上で竹内君から聞かされた、酷く生々しい報告が、ローズと顔を合せる度に彼の脳裏へ蘇る。今こうして目の前に立っている女も、あの日、どこかのベッドで他の男の性器に濡れていたのか、などと考えると、如何ともし難い気持ちになる西野だ。


「まあいい。仮に現状が最低であっても、挽回は決して不可能ではない」


 自らに言い聞かせるよう、前向きに語ってみせる。


 彼の野望はまだ始まったばかりだ。


「むしろ私は貴方がチェリーということに驚きを隠し得ない訳だけれど」


「それならもう少し素直に驚いてくれた方が嬉しかったんだが」


「ええ、次からはそうするわ」


「……そうしてくれると助かる」


 適当に軽口など交わしながら、二階フロアを二人は歩む。制服姿に並び立つ様子は、傍から眺めれば彼氏彼女の関係に映る。だからだろうか、周囲からはチラリ、チラリ、それとなく視線が向けられる。理由は一重に、ローズの優れた容姿が故だ。


「そろそろ帰らないか?」


 端末に時刻を確認して、西野が呟いた。


 そろそろ九時を過ぎようかという時刻だ。


「それなら夕食にしましょう? 今日のお礼をするわ」


「何の礼だ?」


「私の買い物に付き合ってくれたお礼よ」


「あぁ……」


 両手に提げた紙袋を眺めて、どうしたものかと言葉を濁す。これ以上を付き合うのは面倒臭いと思い始めていた彼である。彼女の買い物に終始付き合ったことで、地下の総菜売り場、半額シールの配布タイミングも逃してしまった。


 今から向かったところで、碌なものは残っていないだろう。そうなると今晩の夕食はコンビニの弁当か、云々、西野のさもしい心中を見透かしたか否かは知れない。ただ、続けられた提案は、腹減り男にとって、なかなか悪くないものであった。


「この近くで良い店を知っているの。奢るわ」


「……分かった」


 そういえば最近、おいしいものを食べてないな。そんな感慨に拿捕されて、本日の夕食を彼女と共に食べることに決めた。当人からすれば、毒を喰らわば皿までの精神で、素直に頷き応じた次第である。




◇ ◆ ◇




 ローズ案内の下、百貨店を後としてから電車に二駅ばかり揺られて訪れた先は、都内有数の繁華街。そろそろ夜の十時を廻ろうかという時間帯とあって、道行く手合いも相応のもの。人の流れを脇に眺めながら歩むことしばらく。


 そろそろ目的地という界隈で、それは二人の視界に届けられた。


「……ねぇ、あれって貴方のクラスの子じゃないかしら?」


 先んじて見つけたのはローズだった。


「あぁ、確かに……」


 彼女に問われて、西野は頷いた。


 二人が見つめる先には、確かに見知った相手の姿があった。竹内君とクラスメイトの女子が一人。後者は昨今、西野が気にして止まない相手である。地味で目立たない根暗系女子筆頭代表、松浦さんである。


 これが今まさに、どことも知れない雑居ビルへ向かおうとしていた。


 加えて、一同の傍らには他に、西野が見知らぬ者の姿がある。


 短く刈り上げられた頭髪とハリウッディアンに整えられた髭は黒。ギロリと鋭い眼差しは色つきグラスに隠されて、彫りの深い顔立ちは、見る者に殊更な威圧感を与える。また、これを支える首はやたらと太く、続く胴体は更に屈強で百九十を超える巨漢。


 それが開襟シャツを着用の上、真っ白なスーツに収まっていれば、どのような仕事を生業としているか、そう観察することもなく理解できる。衣服の生地の上からでも、盛り上がった筋肉の具合は、意図して鍛えなければ決して至れないだろう。


「ドナドナされてるわね」


「あぁ……」


 男に肩を抱かれる竹内君と松浦さんは、それこそ手首に錠を欠けられた囚人のようだ。酷く頼りない足取りである。ヤクザ男に促されるまま、雑居ビルへと収まって行く。共に顔色は白を通り越して青かった。


 松浦さんに至っては、胸へ伸びた男の手にモミモミ、乳など拉かれつつのことである。今にも泣き出してしまいそうな表情だった。他方、竹内君は頬に大きな青あざが確認できた。既に一発、良いのを貰った後なのだろう。


「行っちゃったわね」


「あぁ……」


 雑居ビルの正面には黒塗りの高級外車が停まっていた。恐らくは二人は、これに乗せられて、ここまで運ばれてきたのだろう。白スーツの男が雑居ビルへ消えるに応じて、自動車は再び走り出す。車道の流れに乗って何処へとも消えていった。


「…………」


 西野は考える。


 これは最高の機会なのではないだろうかと。もしもここで、上手い具合に松浦さんをヤクザの手から助け出すことができたのなら、或いは自分に彼女が惚れてくれるかもしれない。そんな淡い期待である。


「……二、三分ばかり待っていてくれ」


「あら、珍しいわね」


「何故だ?」


「貴方はノーマル。この私だって、どれだけ探し回ったかしら。過去にない費用と労力を掛けて、やっと今日まで至るというのに、それがまさか、なんら利にならない行いで自らを世間に露呈させるなど、おかしな話だわ」


「勘違いするな。別に何を知らせるつもりはない」


「そんなに彼女が大切なのかしら? それとも彼の方?」


「強いて言えば、両方だな」


「あら意外、貴方って両刀なのかしら?」


「彼はクラスの人気者だ。この時期に失われては文化祭に響く」


「……意外とクラス想いなのね」


 淡々と語ってみせる西野。


 これには少しばかり驚いて見せるローズだろうか。


「少し待っていろ。食事はそれからだ」


 言うが早いか西野は足を速めて、問題の雑居ビルに向かった。




◇ ◆ ◇




 その日、竹内君は生まれて初めて、心の底から恐怖を感じていた。羞恥にも勝る圧倒的な恐怖というものを感じていた。どれだけ気持ちを震わせても、決して抗うことのできない恐れが、彼の全てを支配していた。


 こんな筈じゃなかったとは、幾度となく繰り返される後悔だ。


 西野が気を向ける女子を手込めにしてやろうと企てたのが、つい先刻のことである。文化祭の買い出しを終えて以降、他の女子と別れて、松浦さんと二人きりになった竹内君は、彼女を食事に誘った。


 人気も多い繁華街、行きつけのレストランへ恋敵の思い人をご招待。


 食後は近隣のホテルに休憩して、三時間コース。


 明日にでも西野へ見せつけるべく、ハメ撮りを行う予定だった。


 それが食事へ向かう途中、松浦さんが路上に通行人と肩をぶつけた。よろめく彼女に気を使い、相手に注意の声を上げたのが、彼の何よりの失態だった。相手は開襟シャツに白スーツという、典型的なヤクザ然とした男だった。


 気付いた時には既に遅かった。


 二人の運がなかったところは、すぐ近く路側帯に、男が用立てた自動車が停まっていたことだ。どうやら近隣に用事を済ませて、これから帰路へ着こうと動いている最中に、松浦さんと身体をぶつけたらしい。


 更に不幸なこと、相手は機嫌が良くなかった。彼は竹内君と松浦さんを睨み付けるや否や、その身柄を部下に拘束させた。男は相応の地位にあるらしく、気付いた時には既に周囲を黒服に固められていた二人である。


 場所がヤクザ御用達の繁華街であった点も大きい。


 結果、今まさに彼と彼女とは剥かれている。


「か、か、勘弁してください……」


 パンツ一丁の上、床に正座する竹内君が呻いた。


 自慢のイケメンは目元と頬にそれぞれ一つずつ、大きな青あざが目立つ。他に首から下には怪我らしい怪我がない点から、顔面を集中して殴られたようだ。眼鏡はもれなく紛失済みである。


 一方で彼の正面には、松浦さんがヤクザの上に乗っている。


 衣服を奪われた彼女は、ソファーに腰掛けた白スーツの男の上、対面座位で腰掛けていた。下腹部にはズボン越しにもハッキリと分かる相手の男性器。これを自らの女性器に感じながら、いつ乱暴されるのかと酷く怯えた様子である。


 その腰に回された男腕は、彼女の太股ほど太さがある。これが獲物を逃すまいと、華奢な腰に回されて、グイグイと両者を接させる。運動嫌いで引きこもりがちな松浦さんでは、どれだけ頑張っても逃れることはできそうにない。


「コイツはオマエの女か? なぁ、イケメンの兄ちゃん」


「いえ、ち、違いますっ、彼女はその……同じクラスの友達で……」


「ふぅん? じゃあオジサンが貰っちゃってもいいよなぁ?」


「あ、いや、それはその……」


 彼らが連れ去られた先は雑居ビルの二階、十畳ほどの空間である。ピータイルの敷かれた床の上、粗雑に置かれた革張りのソファーとテーブル。他に事務机と本棚の類いが幾つか並んだ程度の一室である。ヤクザの事務所と聞いて、誰もが想像するような風景だ。


「いいよなぁ?」


 スーツ男が凄むように言う。


 既に何度となく殴られた竹内君は、これに抗うことができなかった。


「……は、はい」


「そんなっ……」


 彼が頷くに応じて、松浦さんの顔色が殊更に悪くなる。


 彼女としては嘘でもノーと言って欲しかった。


「んー、やっぱり健康的な若い子は、肌に張りがあって良いやな。薬やタバコをやってる女はどこかカサカサしてたり、妙なこわばりがあったりしていかん。女を喰うならこういう素人に限る」


 白スーツの男が部屋を見渡して言う。


 同室には他に、彼の部下だろう構成員が幾名か、一連の流れを眺めていた。ある者は机の上に腰掛けていたり、ある者は壁に寄りかかっていたり、またある者は直立不動に身を正していたりと、その役柄に応じて実に様々な在り方である。


「俺のあとはオマエにもやらしたるわ、子鉄」


「え? いいんスか?」


「たまにはこういうのも抱かないと、男としての感が鈍るってもんだ」


「流石は兄貴、太っ腹っスねっ! 俺、一生着いていきますっ!」


 子鉄と呼ばれた二十歳前後の男が、目をキラキラと輝かせて言う。どうやら白スーツの弟分らしい。丸刈りの頭にピシッとした黒スーツ。大きくはだけたシャツの胸元には、柄の知れない入れ墨の端が除く。


 舎弟から熱い眼差しに答えるよう、白スーツが手を動かし始める。


「この濡れてないところに無理矢理ぶち込むのが刺激的で堪らん。分かるか? 子鉄。男ってのは、刺激を求めて生きてなんぼだ。前戯なんて不要よ」


「ういスっ! 前戯なんて不要っスっ! 少し痛いくらいが丁度良いッス!」


「おう、そのとおりだ。俺の教えを守っているようで偉いぞ子鉄」


「ウッスっ!」


 さっそくズボンをゴソゴソとやり始める男。


 どうやら本当に前戯は不要らしい。


 松浦さんの股間はまるで濡れていない。


「や、や、やめて、ください……」


 彼女は今にも消え入りそうな声で鳴く。ただ、それだけだ。男の膝上で暴れるほどの度胸は持ち合わせていないようだった。恐怖に凝り固まった身体は碌に身動きを取ることも敵わず、為されるがまま良いように扱われる。


「んじゃぁ、頂くとするか」


「や、やめっ……」


 そうして松浦さんの貞操が、今まさに失われようとした瞬間のことだった。


 バンと大きな物音を立てて、フロアの出入り口となるドアが開かれた。


 その先から現れたのは、他の誰でもない、西野五郷である。彼は正面から事務所へ乗り込み、組員数名が屯していた一階を軽々クリア。手には一階で入手したのだろう。木刀が握られている。刃の部分にはのっぺりと血液が付着していた。


「あぁ? なんだこのガキャァ」


 結合を目前に控えて、白スーツが唸る。


 これに反応したのは周囲の組員だ。


 部屋のあちらこちらに散っていた男たちが、わらわら、西野を取り囲むように歩み寄ってきた。誰も彼も顎を挙げて、ズボンのポケットに手を突っ込んで、あーん? おーん? 威嚇の声を上げながらである。


「に、西野、くん?」


 想定外な同級生の登場。しかも相手はクラスでも冴えていないと評判のフツメン野郎である。最近は同じクラスの生徒一同から苛められつつあり、関わり合いになりたくない人ナンバーワン、扱いに困る人ナンバーワンの二冠王。


 そうした背景も手伝い、松浦さんは酷く驚いていた。全裸で見知らぬオッサンに対面座位をさせられている、そんな自身の無様すら忘れるほどである。後ろを振り返り戦く姿は、色気にも増して間抜けさが際立ち思える。


 そして、これは竹内君もまた同様だ。パンツ一丁で正座姿勢のまま、驚きに瞳を見開いている。どうしてオマエがここに居るんだと言わんばかり。彼もまた首を捻って後ろを振り返るよう姿勢している。おかげで松浦さんにも増して間抜けな姿格好だ。


「なんで西野が……」


 呟いてから、ふと、イケメンは気付いた。


 今なら逃げられるのではないかと。


 彼から出入り口のドアまで、障害物はゼロだった。


 更にヤクザ一同の意識は西野に集中である。


「っ……」


 思い至ってからの彼は迅速だった。咄嗟、正座を崩して足を立てる。即座に立ち上がり、今し方に西野が開けたドアに向かって走り出した。


 誰も彼もの注目が西野へ向いていた点は大きい。彼は百メートル十一秒ジャストという自慢の健脚を発揮して、瞬く間に西野の脇を過ぎる。


 伊達に体育の時間、女子一同をキャーキャー言わせていない。


「あ、おいらコラ、テメェっ!」「待てコラっ!」「なにかってに立ちあがっとるんじゃい!」「ふざけんじゃねぇぞコラァっ!」「逃げるんじゃねぇよっ!」


 逃げ出したイケメンを目の当たりとして、組員一同が吠える。


 その後を追って走り出す。


 しかし、彼らの行く手は西野によって遮られた。


「アンタらの相手はこっちだ」


 彼は手にした木刀を振り回す。


 剣道などまるで経験のない彼だから、踏み込みは適当、振り下ろしも適当。何もかもが適当。とりあえず、相手の顔の辺りを狙って力任せにブォンとやってみる。


 意識をイケメンに奪われていた組員の一人が、これに打たれて撃沈した。メキっと小気味良い音と共に頬骨を潰して、その場に倒れる。すぐに動かなくなった。


「なっ、このガキゃぁっ!」


 組員一同の意識が西野へと移る。


 一度は駆け出した者たちも歩みを止めて、彼を取り囲む形だ。


「この女の知り合いか?」


 白スーツが問うてきた。


「俺が大切だと思う人だ」


 精一杯、格好付けて言う。


 つい今し方、竹内君が嘘でも言えなかった台詞だ。


「あぁ? 大切な人だぁ? そりゃ兄ちゃん、勇ましい話じゃねぇか」


 白スーツの顔にニィと厭らしい笑みが浮かぶ。


「そこで指をくわえて見ていろ。自分の女が見ず知らずのオヤジに犯されてヒィヒィと声を上げる様子をな? なんだったら自分のモノを扱いても構わねぇぞ」


 男の腰が動く。いざ入刀。


 その寸前の出来事である。


 パァンと乾いた音がフロアに響いた。


「なっ……」


 懐から拳銃を取り出した西野が、その銃口を白スーツへ向けていた。撃ち放たれた一発は、松浦さんの脇を過ぎて、これを抱く男の肩に命中していた。


「っあぁあああっ!」


 予期せぬ痛みを受けて、白スーツは身体を悶えさせる。両手に傷口を庇うよう、ソファーの上で丸くなる。痛い痛い。痛いんです。おかげで彼の足の上に乗っかっていた松浦さんは、床の上に転がる羽目となった。


「て、てめぇっ!」「このガキっ、弾きやがったっ!」「な、なに舐めたこと晒してじゃこらぁっ!」「ふざけたことしてんじゃねぇぞっ!?」「あぁあああっ!?」


 拳銃の発砲音を耳として、周りの組員の顔色が変わった。


 幾名かは西野と同様、懐から拳銃を取り出して構える。


「下で拾ったんだが、また随分と程度の悪い銃を使っているな」


 銃口を熱くするトカレフを眺めて言う。


「この距離で狙いが逸れたのは、まさか自分の腕が理由だとは思いたくない」


「や、やれっ! 殺しちまえっ!」


 自身が撃たれたことで気が動転したのだろう。白スーツが自棄になったように吠えた。自らもまたスーツの懐から拳銃を取り出し、これを痛みに震える腕で構える。


「テメェ、よくも兄貴をっ!」


 子鉄が吠えた。撃鉄に掛けられた指に力が入る。


 パァンと乾いた音は、しかし、彼の構えた銃とは別に響いて聞こえた。西野の放った銃弾に弾き飛ばされて、子鉄の銃はカシャンと床に落ちた。カラカラと滑りながら部屋の隅の方へ流れて行く。


「なっ……」


 パァン、パァン、立て続けに銃声が鳴った。


 応じてフロアに立つ男たちから、次々と悲鳴が上がった。全員が全員、右の太股を打ち抜かれていた。かなり痛いところを撃たれたようで、一人の例外もなく床に膝を突いて、五月蠅いほどの悲鳴を上げ始める。


 同フロアで二本の足に立っているのは西野だけだった。


 彼は近くに倒れた男から、無理矢理にスーツのジャケットを奪い取る。そして、これを全裸でへたり込んだ松浦さんへ、ファサと掛けては被せてやった。無駄に熟れた立ち振る舞いは、過去の経験から来るものだ。銃の扱いも然り。


「……大丈夫か?」


 それとなく声を掛ける。


 これに松浦さんは放尿で答えた。


「えっ、あっ、み、み、見ないでっ……」


 しょわわわー、と小気味良い音を立てて、彼女の尻下に黄色い池が生まれた。度重なる緊張が、今し方の銃撃戦を受けて、ついに限界を迎えた様子だった。随分とため込んでいたようで、歩み寄った西野の靴がしたたるほど。


「…………」


 これを受けては、流石の西野も返す言葉を失った。上手い対応が見つからない。さて、どうしたものか。本来ならすぐにでも、彼女を攫って逃げたいフツメンである。外にローズを待たせているという負い目もある。


 すると状況は、彼が何をするまでもなく動いた。


 ウーウーというサイレンが、彼らの下へ段々と音を大きくしながら近づいてくる。どうやら一連の発砲騒ぎを受けて、警察に連絡が入ったようだ。その音を耳にしたのなら、長居は無用である。


 手にした拳銃を懐へしまい込み、彼は彼女に伝える。


「後は警察の世話になるといい」


「あっ、に、西野くんっ……」


 短く呟いて、逃げるように事務所から退散である。


 西野が出て行ってからしばらく、これと入れ違うように警察が事務所へ雪崩れ込んできた。十分に武装した一団であって、盾を構える者の姿もあった。しかし、組員全員が負傷していた為、それら装備は碌に用いられることなく騒動は過ぎていった。


 無事に救出された松浦さんは、周囲を警察官に固められて屋外まで連れ出された。一度は脱がされた制服を着用の上、股間の尿を拭って人心地といったところ。半刻ぶりに人としての尊厳を取り戻した彼女だろうか。


 すると、そこで待っていたのは竹内君である。


 彼は今にも泣き出しそうな表情で、彼女の下へと駆け寄った。一目散に走ってきた。依然としてパンツ一丁のまま、それでも必至に走ってきた。そして、いの一番に謝罪の声を上げてみせた。


「ごめん、松浦さんっ!」


 腰を綺麗に曲げて、誠心誠意を込めて見える謝罪のポーズ。


「え、あ、あのっ、竹内くん……」


「警察を呼ぶのに必至で、君をあの場所に一人にしてしまったっ」


「あっ……」


 その瞬間、松浦さんは理解した。


 この人は自分を助ける為に走り出したんだ。周りを怖い人に囲まれて、それでもこうして、ちゃんと私の為に、助けを呼んできてくれたんだ。決して恐怖から逃げ出した訳じゃなかったんだ。


 そのように理解した。


 だってイケメンは言った。ごめん、申し訳ない、ゆるして欲しい、ちゃんと頭を下げて言った。酷く心苦しそうな表情で、トランクス一丁で言った。辛い思いをさせてごめん。本当にすまなかった。


 そのように理解した。


 延々と謝罪の言葉を続ける竹内君の姿は、彼女の母性をこれでもかとくすぐった。痒いほどにくすぐった。この人は自分みたいな地味子が相手でも、このような無様を晒してまで、真正面から受け止めてくれるんだと。


 それはカースト底辺にとってはこの上ない悦び。


 彼女は自分にとってより良い形で、目の前の状況を整理した。


「あの、だ、大丈夫、何もされてないからっ!」


 必至に自らの貞操を伝える。


 オマンコにオチンチンは未遂だったと。


「本当に?」


「本当、ぜんぜん大丈夫。だから、た、竹内君は気にしないでっ」


 微妙にめり込んでいた事実は、彼女の中では全然大丈夫だ。


 何ら問題ない。


 何故ならば彼女は非処女である。こんなの掠り傷だ。


「……俺、君に許して貰う資格があるかな?」


「ゆ、許すよっ!? だって私の為に、あんな危ないことをしてくれたのに!」


「良かった。う、嬉しいよ、松浦さん」


「ううん、私の方こそ、助けてくれてありがとうっ」


 この瞬間、松浦さんは竹内君に惚れた。


 完全に惚れた。


 ゾッコンとなった。


 パンツ一丁で警察を呼びに行くなんて、凄く恥ずかしいことなのに、自分の為にそこまでしてくれる男性がいるなんて。しかもそれがクラスで一番に格好いい竹内君だなんて。などと胸の鼓動を早くする。


 実際は拳銃の発砲音を聞きつけた近隣住民の手による通報である。竹内君はと言えば、万が一にも西野が騒動を丸く収めた場合に備えて、今まさに振る舞う通りを演出するべく、事務所の脇で物陰に隠れていたに過ぎない。


 まさかパンツ一丁で街中を歩めるほど、彼のプライドは安くなかった。事態が収拾を迎えれば、松浦さんを使って衣服を調達することも可能だと考えた上での動きである。どんな時でも、ピンチをチャンスに変える男、それが竹内君である。


「ところで、彼はどうなったんだろう?」


「え? あ、あぁ、えっと、西野君?」


「無事だと良いのだけれど……」


「あ、彼だったら、あの、その……」


 松浦はつい今し方まで一緒だったクラスメイトを思い起こす。


 一連のやり取りは彼女も鮮明に覚えている。普段、教室で見るときと変わらない仏頂面で、しかし、拳銃など撃ち放っていたフツメンだ。平然とヤクザ一同を鎮圧してしまった冴えない苛められっ子。その背景に疑問が無いと言えば嘘になる。


 興味だって沸いてくる。


 ただ、賢い松浦さんは銃刀法違反という単語を知っている。


「彼はその、や、ヤクザから銃を奪って、それで人を撃って……」


「……マジかよ」


 流石の竹内君も驚きだった。


 銃声こそ耳にしていたものの、発砲元がクラスメイトとは想定外だ。


「とりあえず、それはちゃんと警察に言った方が良いね」


「う、うん……」


 西野にチェックメイトを掛ける竹内君。


 これでヤツの高校生活は終わりだと。


「あと、彼に関わるのは今日までにした方が良い。これだけ派手なことをしたんだ、きっとヤクザから狙われる。一緒に居たら、きっと君まで巻き添えをくって、今日よりもっと怖い目に遭うだろうから」


「そんなっ……」


「大丈夫、そうならないように、僕が君を守るから」


「……竹内君」


 ウットリとした瞳で相手を見つめる松浦さん。


 パンツ一丁でもイケメンはイケメンだった。


 むしろパンツ一丁の方が、彼女的には、松浦さん的には眼福である。


「本当に君が無事で良かった」


「私だって竹内君が無事で、本当、凄く安心したよ」


 彼女は日々にスリルと充実を求めるより、老後の安定を優先するタイプの女だ。西野が目指すにしては、幾分か敷居の高い性格の持ち主である。そうした事実こそが、彼の一番の敗因であった。


「さぁ、帰ろうか。タクシーを呼ぶよ」


「う、うんっ」


 一連の出来事を受けて、竹内君は会心の笑みを。


 心の内側で西野に対して勝利宣言を。


 伊達にイケメンしていない。全てはその高過ぎる顔面偏差値の成せる技だ。




◇ ◆ ◇




 ところ変わってこちらは六本木の繁華街、その外れに位置する雑居ビルの地下、二十数坪ばかりのスペースに打たれた手狭いバー。同界隈に詳しい人間であれば絶対に近づかず、詳しくなければ足を運ぶ機会も滅多にない。


 午後八時開店の同店は、現在午後十一時とあって、本来であればバーとして、今まさにかき入れ時となる。しかしながら、諸々の事情が手伝い客の姿は見られない。店の出入り口にはCLOSEの案内が下がる。


 店内に数えられるのは同店のマスターにして唯一のバーテンであるマーキスと、彼と会う為に足を運んだ西野、更に西野の連れとしてローズの三名の姿だけがある。


「話を付けておいた」


 短く呟いて、今まさに回線の切られた端末を懐にしまうマーキス。


 そんな彼の言葉にカウンター越し、答えたのが西野である。


「悪いな」


「そう思うのなら、少しは殊勝な態度を見せたらどうだ?」


「金は払っている。アンタも儲けている。なんら問題ないだろう?」


「確かにそれはそうだが……」


 二人の傍ら、小皿にドライフルーツなどぱくつきながら、呆れ調子でローズが言った。


「貴方も下らないことにお金を使うわね」


「俺が後ろ盾に使えるものなど、金くらいだからな」


「ふぅん?」


 外で食べる筈だった夕食を延期して、ローズと西野がやって来たのは、マーキスの下である。何故かと言えば、つい今し方に起こしてしまった面倒に関して、その事後処理を済ませる為だ。マーキスはその為の窓口である。


「しかし、本当に良かったのか?」


「問題ない」


「後々面倒になるのはアンタだぞ?」


「あそこの上とは幾らか付き合いがある」


「俺が心配してるのはそっちじゃねぇよ」


「あぁ、そっちか……」


「奴らは金だけじゃ動かない。アンタだって分かるだろう?」


 西野の脳裏に思い起こされたのはパトカーのサイレン。


 今まさにマーキスが話を付けていた先だ。


「俺はアンタの交友関係なんて知らないが、わざわざ高い金と、小さくない借りを作ってまで、無理を押し通すような場面だったのか? 言っておくが、後々下らない仕事が振ってきても、俺は拒めないからな?」


「分かっている」


「貴方の評判が落ちる分には、扱い易くなって良いのだけれど」


「勝手に言っていろ」


 二人からの忠告に対して、西野の振る舞いは酷く素っ気ない。


 しかしながら、そうした言動とは対象的に、彼の胸中には嘗てない充実が満ち溢れていた。もしかしたら明日、放課後に体育館裏へ呼び出されて、松浦さんから告白されるかも知れない。告白までは進まずとも、お礼の言葉を貰えるかも知れない。


 そんな期待が、彼を幸福状態にしていた。


 今日は帰りにコンビニでコンドームでも買っていこうか。


 周囲から与えられる塩っぱい忠告など、何処吹く風であった。

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