大切な人 1
時は2004年5月12日。
「おい、隅田、お前明日から一軍だから」
二軍監督からそう告げられた隅田は、しばらく驚きと疑問が入り混じったまま、立ち尽くした。
「おい!聞いてんのか?!一軍の立花が今日の試合で怪我したんだ。その代わりにお前が一軍に上がるんだからな。立花には申し訳ないが、これはある意味お前にとってはチャンスだ。必ずものしてこいよ」
「あ、あああ、は、はい!」
ようやくこの日がやって来た。どれだけ待ちわびたか。言われたように、これは人生の中で大きなターニングポイントになるだろう。
隅田はその日、車で帰りながら期待に胸を膨らませた。そして、帰宅してからはもし、試合に出場した場合の事を考え、サインの確認や相手投手の対策を練ろうと考えていた。
隅田はふと思い付く。
「そうだ、加奈子に知らせないと」
隅田と加奈子が出逢ったのは友人の紹介だった。
それも偶然の出来事で、隅田がチームメートたちと食事をしていた居酒屋で、高校時代の同級生だった女子と偶然再開した。その同級生の職場の同僚で、その日偶々一緒に居たのが加奈子だった。
その日は挨拶程度でその場は別れたのだが、それから数日後、その同級生が二軍の試合を見に来るからと告げ、当日にも加奈子の姿はあった。そこからはちょくちょく加奈子の方が試合を見にくるようになり、会うたびに一言二言会話は増え、数カ月後には交際がスタートした。
後々に聞いた話では、居酒屋で会った時に加奈子は隅田に一目惚れしたらしく、隅田の同級生に頼んできっかけを作ってもらったのだと言う。
隅田も「俺に一目惚れするなんて、どうかしてるよな」と言いながらも、いつの間にか加奈子を好きになっていた。
加奈子は身長こそ少し低めだが、すらっとした体型に、整ったハーフのような顔立ちで、決してモテないと言うことはなかっただろう。だが、その彼女を狙う、数多い猛者どもを押しのけて、隅田を選んだのは、何か運命的なものを感じてのことだったのかもしれない。
だが、この日、帰宅した隅田は数秒後にその運命を呪う事になる。
電話が鳴る。知らない電話番号。
「はい、もしもし」
それは加奈子の母からだった。
「隅田さん、ですか?加奈子の母ですが」
「あ、ああ、どうもこんばんは、始めまして。隅田と申します。加奈子さんとおつきあいさせていただいておりまして、今度ご挨拶に伺おうとも思ってたんです。それで、今日はどうかなされたんですか?」
加奈子の母の声は確実に震えていた。その様子に異変を感じた隅田は「お母さん?どうしましたか?」続けて問いかける。
「あ、あ、隅田さん、お、落ち着いて聞いてください。加奈子が…加奈子が…事故に遭いました。今中央病院です」
人というものは何とも幸せな生き物だ。
人の不幸は全く痛みを感じない。日々そこに迫っている不幸についても目をそらし続けることができる。
なぜなら人は自分で言い聞かせるからだ。
「自分がそんな目に遭うなんてありえない」と。
交通事故であったって、殺人事件であったって、一年間に多くが全国で発生しており、もちろんいつ自分が巻き込まれてもおかしくはない。
それでも人は「まさか、自分が当事者にはならない」と高を括ってしまうのだ。
隅田も恋人が交通事故に遭うというケースは、テレビドラマでしかありえないことだと考えていた。
だが、実際に起こるのだ。
全国で毎日のように交通事故は起きているのだから、可能性はゼロな訳がない。ましてや、隅田が翌日にデビューする事が決まり、二人の人生にとって記念すべき日だったとしても、それは起きる可能性があったのだ。それを隅田は失念、というか完全に元から起きる事がないと決めつけていたのだ。
隅田は顔を真っ青にして、慌てて自宅を飛び出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます