最初はグー
むしゃくしゃする。こんな気持ちを晴らすためには酒を呑まざるをえない。アル中で死んだら、あの野郎、化けて出てやる。おれはバーに足を向けた。地下への階段を下る。ドアを開けるといつものバーテンが迎えてくれる。他に客はいなかった。
バーテンはグラスを磨くのを中断し、顔を上げて言った。
「いらっしゃいませ」
「ああ、いつもの」
それで通じるのは気分がいい。カウンター席に座るとすぐに酒が出てくる。それをぐいとやってから、バーテンにあの野郎のゲス具合を説明しだした。それからグラスとマホガニーが幾度となくぶつかって、その度に鈍い音を立てた。合の手に酒をつぐトクトクという音もあった。
愚痴を語り尽くしてしまい、ふと自分の腕時計を見た。銀色の針によると、バーに来てからけっこうな時間が経っているらしい。夢中で話していたから気づかなかった。どれだけ酒を呑んだだろう。潰れるほどではないはずだが。
しかし幻聴が聞こえた。
「最初は……」
その声色はバーテンのものでも自分のものでもない。
「グー」
「ん?」
「最初は……」
おれは振り返った。脂顔が鼻先五センチに迫っていた。
驚いて飛び退き、椅子から転げ落ちるところだった。
「な、なんだ、あんたは! いつのまに」
若造ではないが、自分よりも年上かと問われるとわからない。能面のようにシワのすくない顔をした年齢不詳の男だ。伸ばしっぱなしの長髪を後ろで結っているらしい。前髪は真ん中分けで耳の後ろの方までべっとりと撫でつけられている。黒尽くめの礼装は喪服として通用するだろう。一見した印象はそのまんま死神だ。酔いが覚めて、背筋が冷たくなる。
そいつは名乗らず、おれの耳元で繰り返した。
「最初はグー、最初はグー、最初はグー」
「や、やめろ、気味が悪いやつだな」
おれは囁き声から逃げるように首を振った。カウンターの中のバーテンに助けを求める。バーボンからカルーアまで視線を動かすが、バーテンの姿は消えていた。
「おいどこだ?」
返事はない。
「最初はグー、最初はグー、最初はグー」
どこかへ出かけたのだろうか。そう言えば、どうとかこうとか言って、どこかへ行った気がする。こうなれば自分でなんとかしなければなるまい。酔っぱらいの一人くらいどうということはない。
「最初はグー、最初はグー、最初はグー」
今のところそう言うだけだが、目の奥には危うさが潜んでいる。なにかやらかしそうな雰囲気だ。刺激しないほうがいい。すこしだけ付き合ってやるか。それで満足するかもしれない。時間を稼げばバーテンも帰ってくるだろう。近頃じゃ、なんでも穏便に解決できる男がモテるらしい。予行練習といこう。
「こういうことか」
おれはそう言って、右手を突き出してみた。グーだ。
「おおっ!」
男は嬉しそうな声を上げ、続けて言った。
「じゃん……、けん……」
やはりそう来るか。おれは手の形を変えず、そのままグーを出した。
「ぽん!」
男が出したのはチョキ。おれの勝ちだ。勝ち負けなど気にしないつもりだったのだが、勝つとすこぶる気分が良い。いや、面白がっていることがばれてはいけない。つけあがらせることになる。おれはわざと怒ったふうに鼻を鳴らす。
「フンッ、これで満足か」
おれは男から目を離し、自分のグラスを見た。まだ中身が残っている。
「最初はグー」
また耳元で声がして、おれはムッとなった。今度こそ、無視しようと思ったが、しつこく食い下がってくる。
「三回勝負、三回勝負、三回勝負」
「三回だからな、それで終わりだ」
おれはグーを突き出す。その勢いで顎をぶん殴ってやりたかったが我慢する。こっちがしょっぴかれかねない。じゃんけんをしようと絡まれたから殴ったでは警察は許さないだろう。この状況になれば、たいていのお巡りも我慢できないだろうがな。
「最初は」
「グー」
「じゃん」
「けん」
おれはまたグーを出した。
「ぽん!」
男はパーを出す。男の勝ちだ。勝ったのがよっぽど嬉しいのか、気味の悪い脂顔を歪めてニヤニヤ笑う。歯がひどく黄ばんでいた。口臭からしてわかっていたが、やはり相当のヤニ中らしい。それがおれの癪に障る。こっちは禁煙中だ。
「おい、三回勝負だろ」
おれは言った。
男はすぐに応じる。
「最初は」
「グー」
「じゃん」
「けん」
おれはすこし考えてパーを出した。罵倒の意味もあった。
「ぽん!」
男はグーを出した。おれの勝ちだ。
「よしっ! おれの勝ちだ。おしまい!」
おれはグラスをとって酒の残りをあおった。
男はまだやろうと言い出す。
「五回勝負、五回勝負、五回勝負」
むかついたが、すでに二回勝っているから、五回勝負なら、あと一回勝てば終わりだ。それくらいの計算なら酔っ払っていてもできる。
「いいだろう」
「最初は」
「グー」
「じゃん」
「けん」
おれはグーを出した。
「ぽん!」
男はチョキを出した。
「勝ったぞ!」
おれは叫んだ。そして体を伸ばして、カウンターの中から酒をとる。自分についで祝杯をあげる。男のくやしむ顔をさかなにしようと振り返る。
「最初はグー、最初はグー、最初はグー」
男は壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返し続けた。その姿からは、もはや不気味さよりも憐れみを強く感じる。
「だめだ、五回勝負の約束だろ」
「七回勝負、七回勝負、七回勝負」
「いくらやっても同じだよ。あんたは負けがこんでる」
バーテンは帰ってこないし、ツケにして帰ろうと考える。立ち上がって、一歩、ぐいと裾を引かれた。この男もボロ負けじゃつまらないだろうな。変な仏心が出た。
「最初は」
「グー」
「じゃん」
「けん」
それからは勝ったり負けたりだった。
三十一回勝負までずれ込み。
「ぽん!」
「やった! 勝ったぞ!」
そう叫んだのは男だった。おれが唖然としているうちに、男はさっさとバーから出ていった。入れ替わりに、カウンターの奥からバーテンが出てきた。
「あれ? どうかされましたか?」
「どうしたもこうしたも……」
おれはさっきまでの経緯を熱弁した。
「それは災難でしたね」
「あんたはなにをしてんたんだ」
「すいません、古馴染みからの電話で、懐かしくて、つい」
「おれの声は聞こえなかったのか」
「いやぁ、楽しそうにじゃんけんをする声は聞こえていましたよ」
バーテンは半笑いだ。
「なんだと!」
「いえ、すいません」
しかし、ここで怒りをぶちまけるのも難しかった。自分に理がなさそうに思えたし、馴染みの店に来られなくなるのも嫌だ。
「今日のお代はいだだきませんから」
そこまで言われると、もうなにも言えなくなった。
「帰ることにするよ」
おれはそう言ってバーを出た。むしゃくしゃした気持ちのまま、とぼとぼと岐路につく。その途中、さっきの男を見つけた。後ろ姿だが、まとめた長髪は間違いないように思えた。
「あの野郎」
おれは文句の一つでも言ってやろうと追いかけた。
曲がり角を二つ曲がったところで追いつき、肩をつかむ。
「おい!」
「な、なんですか!」
気の弱そうな若者だった。あの男とは似ても似つかない。髪型だけそっくりだったのだ。
「紛らわしい髪型しやがって」
「なんなんですか、あなたは!」
人違いに文句を言うわけにもいかない。ぶん殴るわけにもいかない。しかしおれは右手の拳を突き出していた。自分がなにをしているかわからなかった。
次の瞬間、言葉が自然と口をついた。
「最初はグー」
「え、なに?」
「最初はグー、最初はグー、最初はグー」
「や、やめてください。気味が悪いですよ」
絶対にやめないぞ。
絶対にだ。
「最初はグー、最初はグー、最初はグー」
「もしかして、こういうことですか?」
若者が拳を出してくるとおれは嬉しくなった。
「おおっ!」
思わず悲鳴をあげてしまう。
勝っても負けても、勝ち越すまで続けてやる。
「じゃん……、けん……」
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