Foolish Divers

月下ゆずりは

第1話 未知の海洋



 人類の共通の夢の一つに、『もっと遠く』というものがある。



 宇宙よりも深海の果てを目指すほうが難しいのだと父親が言っていたのを覚えている。

 アンツール・ジョーンズは首にかかった船の錨(アンカー)を模したペンダントを指で弄っていた。ペンダントの塗装はあちこち剥げてしまっていて、銀色の地がむき出しになっていた。

 周囲を見回す。惑星の地平線が青い平面にそって浮き出ていた。底抜けに明るい空には綿をちぎったような雲が浮いていた。海面に漁船がぽつりぽつりと浮いているのが見えた。

 アンツールはペンダントから手を放すと、肩に引っ掛けておいたタオルで顔を拭いた。ズボン以外纏わぬ姿だった。鍛え抜かれた上半身が露わになっており、汗で光っていた。腰かけていた手すりから飛び降りると灰色塗装を纏ったフライングフィッシュの名を冠された船の甲板へと両足をつけた。

「時間」

 相棒たる少女が風に紛れて聞こえない囁き声をあげた。轟々と押し寄せてくる潮風のせいで言葉の半分が紛れてしまっていたが、辛うじて理解することができた。

 アンツールは上着を取って羽織ると、おもむろに振り返った。

 ラベンダー色の細い頭髪を後頭部で結わいた白磁肌の少女が佇んでいた。見る者を引き寄せる群青色の眦がぱちくりと瞬いた。男性平均身長並のアンツールと並ぶと、少女は子供のようで、頭一つ分は低かった。

「ラベンダー。もう少し休んでいてもいいんじゃないか」

「………」

 ラベンダーと呼ばれた少女の眉に皺が寄る。一目で分かる不機嫌っぷりに、仕事前の昼寝を挟もうと考えていたアンツールの目論見は風の前の塵と化した。

 アンツールはため息を吐くと上着の前を留め、仕事道具の入った鞄を肩に引っかけラベンダーを伴い歩き始めた。

「初仕事。嬉しくないの」

 ラベンダーの髪の毛が潮風を孕みはためいた。髪の毛が尻尾のように揺れる。

「初仕事だからこそ集中力を高めるべく睡眠をだな」

「昨日十時間とってるのに?」

 ぐうの音も出ない意見だった。十時間の睡眠はむしろ多すぎるであろうから。眠気のねの字の滞在さえ許されない。

「お前耳が良すぎないか? 目覚まし時計なんてないのに、俺がいつ寝ていつ起きたのかどうやってわかったんだ」

「ベッドの軋む音。あと勘」

 アンツールはわかったわかったと首を振ると、フライングフィッシュの艦橋で腕組をしてコンソールを睨みつけている女性に手を振って見せた。女性はとっとと仕事にかかれと言わんばかりに口をへの字に曲げて、親指でフライングフィッシュに接舷している別の船を指した。

 ホバークラフトのような丸みを帯びた形状の船が停泊していた。手すりの付いた板橋がかけられており、甲板では数人の男たちがせっせせっせと作業をしていた。

 船は、やはり、一見するとホバークラフトのように見えた。後部についた一対のプロペラ推進装置といい、スカートといい、甲板に並ぶ作業用具といい、この時代この場所では何の変哲もない船のようだった。

 しかし二人には、その船が単純な作業用艇ではないことを知っていた。

「おはよういい朝だ。“潜る”には最適な天気で嬉しいよ」

 黒人系の屈強な体躯をした男が二人の若き船乗りに手を上げ笑顔を浮かべた。

アンツールが男の傍らで足を止めた。

「緊張なんてがらじゃないんだが、初仕事だからなぁ。シミュレーションは腐るほどやってきたし、ためしに動かしてみたこともある。けど、実戦と練習じゃ違うって言うぜ」

 男がアンツールの肩を叩いた。親愛表現として叩いているのだろうが、見上げるような体躯から繰り出される表現に足がばねのように跳ねた。

「あんたならやれますぜ。何せボスお気に入りの人材ですからな!」

「そうかなぁ。の割りにパンチの威力がいつにも増して強かったわけだが」

 アンツールがにわかに信じがたいといったようにかぶりを振った。つい数日前作業が遅いと背中に一発貰った部分が痛みを訴えてくるような気がしたのだ。

 視線を艦橋へとやると、仁王立ちで操舵装置を握った妙齢の女がいた。

 鬼。悪魔。アスラ。怪物。いろいろとあだ名がある中でも一際有名なのが『巨人殺し(ジャイアントキラー)』というものだろうか。

 人類がこの星『エデン』にやってきて三十五年目。移民のため一枚岩になった人類はしかし分裂し戦争を引き起こしたという。移民初期の混乱に乗じて略奪行為を働いたものたちがいたといい、彼らは海賊と呼ばれていた。曰くボスは人種の多様性を守る為に意図的に白人系としての特徴を強くさせられた遺伝子操作幼児(デザイナー・ベビー)であり、いいところ出身のお嬢様であり、なんらかの原因で海賊になり戦闘を潜り抜けて身分を偽装し運送会社をやっているらしい。聞いても答えてくれないので噂は噂に過ぎなかったが、少なくとも叩く蹴る怒鳴る人権の二文字を忘れて生まれてきたような性格は遺伝子操作ではなんともならなかったらしいことだけはわかっていた。

 アンツールはやれやれと首を振ると、ラベンダーを伴ってタラップを歩いて渡り船に足を踏み込んだ。ハッチを開いて中に身を滑り込ませる。するりと腕に髪の毛が触れた。名前と同じ香りのラベンダーのかすかな香水が鼻腔をくすぐった。

 メイン・エンジンであるガス・タービンを起動。タービンの高速回転に合わせて計器盤の針が大きく振れた。コンソール上に文字列が走ると船舶名が表示される。操縦席内部の非常灯の橙色が瞬時にきりりとした電子照明の白に切り替わった。

 『ブルー・クラブ号 へようこそ』

「システム起動確認。タービン正常。蓄電池正常。全システム正常。すぐに発進できるよ」

 アンツールは背後から聞こえてくる相棒の声に頷いた。

 ラベンダーは席に座ってキーボードを叩いてパネル上に指を滑らせると、シートベルトをつけていた。

 ブルー・クラブ号のもやいが船員らによって解かれる。タラップが撤去された。

 通信を意味するランプがついた。スイッチを入れると、聞くものを惹き付ける蠱惑的な声が流れてきた。

「準備はどうだ。整ったのか?」

 女性ながら男性口調に限りなく近い発音が耳朶を打つ。ボスと呼ばれる女の声だった。有無を言わさない圧力が無線越しというのに襲い掛かってくるようだった。

「準備完了しました。これより任務を開始します」

 アンツールが言うとボスが唸った。

「今回の目的は船体の慣らし運転を兼ねた遺跡表面への到達だ。間違っても内部に入ってみようと思うなよ、ラベンダーいいだろうな」

 ラベンダーがぎくりと肩を震わせた。

「は、はい…………」

「返事は一回だ」

「はい!」

 ラベンダーがか細い声で返事をすると、ボスは満足げに鼻を鳴らして無線を切ったのだった。

 アンツールはラベンダーが表示してくれた航路の映るコンソールを一瞥した。

「そんじゃあまァいきますかね………」

 ブルー・クラブ号がするすると海上を滑り始めた。船体後部のプロペラを猛烈に回転させながら、スカートから水しぶきを上げながら進んでいく。一見すればホバークラフトにしか見えない挙動だった。

「タービン停止。動力蓄電池へ切り替え。メインタンク、注水開始」

 アンツールが宣言するや否や船体がするすると水面下に沈み込み始めた。

「耐圧殻問題なし。偽装装置収納開始」

 ラベンダーがかたかたとキーを打つ音が操縦席に響く。船外のプロペラ式推進装置を含む装置が装甲の内側へと滑り込み姿を消した。

 ブルー・クラブ号は公には作業用・運搬用の船として登録されているが、その実体は潜水艦であった。

 Deep Sea Sell。あるいはDSS。第二地球とも呼ばれるエデンの大部分を覆いつくす大洋を目指すための装置。人類移民の最中に失われた潜水艦の技術を文献や設計図を元に蘇らせた船であり、彼らが挑もうとしていたのは政府が禁止している地点への潜航であった。

 今から十五年前。各移民船間で大規模戦闘が勃発。環太平洋連合(PRU)と欧州経済協定連合(EEAU)間において血で血を洗う戦闘が繰り広げられた。旧アフリカ連合(OAU)や南極連合(AU)などの他の勢力も戦闘を余儀なくされた。数週間にも及ぶ戦闘の末に、エデン各地には大規模な人工漁礁が作り上げられるに至った。各政府はこれを重く見て戦闘があった区域への立ち入りを禁じたのだった。

 だが、一方でこの戦闘は市民の目をくらますためであった偽りの戦いであると言う噂もあった。いずれにせよ、強大な武装を積んだ先進技術の塊である移民船の貴重品を引き上げる為に潜水艦やサルベージ船を持ち出す連中があとを絶たなかったのだ。彼らは『ダイバー』と呼ばれていた。

 そしてアンツールらプロキオン海洋運送業もまた、表向きでは運送業を営みながらも、裏では作業用艇に偽装されたDSSを使ってサルベージ作業を行っていた。

 アンツールはプロキオン一番と呼ばれた操縦技術を持ちながらも、今の今までDSS『ブルー・クラブ』での作業は許されていなかった。深海と言う環境は地上とは比べ物にならないくらい危険なのだ。事故が発生すれば人命は風の前の塵よりも容易く押し流されて消えるだろうから。

 深度300mを突破。

「照明装置オン」

 ラベンダーがひそひそと囁いた。船体四隅に設置された大型サーチライトが深海を睨み付けた。

「予想より海中物質の濃度が高い。暗すぎる」

 ラベンダーが画面を操作しながら言葉を発した。暗いモニタをにらみながら、呟いていた。

 船体四隅の大型ライトに加えて腹に抱えた小型ライトが点灯した。

「特に問題ないな。とにかく深海を目指そう」

 アンツールは言うと眼前に広がる半球型のモニタを睨んでいた。ブルー・クラブ号には窓が無い。圧力に耐えるためだ。

「海底深度はおよそ7000mか」

 惑星エデンの海水の成分組成はほぼ地球と同じであり、重力も1Gに限りなく近い。大気圧もほぼ同等である。そのため地球上で使っていた式を導入することができる。すなわち10mあたり1気圧と大気圧を乗せた圧力がかかることになるのだ。7000mということは、およそ701気圧がかかり、1cm2あたり701kgがかかる計算になる。

 アンツールがデータを思い出しながら呟いた。操縦桿にかかった手はリラックスしており、スラスターペダルに足さえかけていなかった。問題は起きないならば、沈んでいくだけでいいからだ。

 深度1000mを突破。海面から差し込む光は人体には認識できない光量に落ち込んでいた。

 深度2000mを突破。奇妙な声が聞こえてきた。大音響の“歌”が聞こえてきたのだ。

「くじら?」

「くじらとみんなは言うけどな―――俺からすればありゃあ目の無い怪物だよ」

 海中を騒がす歌は、エデン原生生物通称“くじら”の歌だった。エデンには知的生命体に区分できる生物はいなかった。地球におけるカンブリア紀を彷彿とさせる異型の生物が棲んでいたのだ。くじらはその中でも地球上に存在したという鯨と同格の体格と特徴を有していた。目と口がないことを除けば。

「今のうちにソナーをテストしたい」

「了解。アクティブで打つなよ」

 ラベンダーがパネルに指を走らせた。操縦用半球型モニタに青い輝きが走る。音波が押し寄せてくる方角から順番に、ブルー・クラブへ伝ってくる様子が視覚となり映っていた。

「システム正常。アクティブ・ソナーもテストしたい」

 既にラベンダーはヘッドセットを被っていた。身じろぎの音を聞いていたアンツールは頷くとヘッドセットを被った。

「一回打とう。その後は海底音波探査機を起動。事前調査通りの海底との差異を計測しながら潜ろう」

「わかった。発振」

 アクティブ・ソナー発振。赤い輝きが船体から発振されると、画面上の暗闇に波となって広がっていった。続いて海底音波探査機が起動。画面上に海底の地形との差異が表示され、リアルタイムで更新される。

 「差異はほとんどないみたい。目標地点に“遺跡”を発見」

 ラベンダーの言葉にアンツールがふむと花を鳴らした。

 遺跡。それは恐らくはエデンの先史文明が建造した巨大建造物であった。到達さえ容易ではない深海に岩を並べたような人工物が存在していることが判明したのはつい最近のことだった。

 アンツールはラベンダーが歯がカタカタとなっているのも気にせずにキーを打ち続けていることに気が付いた。凍えるように寒い深海であっても、基本的に潜航中は暖房器具を使えない。体温維持希望を有するスーツに頼るしかなかった。腕輪のような形状をした制御パネルに指を滑らせながら、ラベンダーに声をかける。

「スーツの電源をいれないと凍えちまうぞ」

「あっ……忘れてた」

「まったく、おっちょこちょいだな」

 ラベンダーがぶつぶつと文句を呟きつつも手首の機器を弄った。

 深度、5000m。6000m。そしてついに7000mを突破した。

 アンツールが操縦桿を握る手に力を込めてペダルに足を乗せた。

「バラスト・タンク容量調整……下部スラスター噴射開始。減速を確認。レッグ展開、着底まで三秒、二秒、一秒」

 ブルー・クラブの合計6本存在する機械脚が殻の下部から展開すると、海底をかみ締めた。殻前方に設けられた複眼式のメインカメラが光をぎらりと放つ。

「着低した(タッチダウン)」

 ラベンダーが無線を開いた。

「ブルー・クラブ号よりフライングフィッシュ号。歩行機能と、マニュピレータ操作、火器管制システム調査を実施する」

 返事が無い。雑音しか返ってこなかった。

「無線装置系統Aダウン。Bに切り替える」

 ラベンダーがキーを叩くとヘッドセットの耳当てを押さえた。

「こちらブルー・クラブ号。フライングフィッシュ号聞こえますか」

『フライングフィッシュ号、聞こえます』

「ブルー・クラブ号、所定の試験を実施する」

『了解。検討を祈る』

 ラベンダーが無線を切った。前席に腰掛けているアンツールの肩を軽く撫でた。

「はじめましょうか」

「了解。どれ、歩いてものを掴んで魚雷をぶっ放す簡単な作業だ」

 アンツールがアクセルを踏み込む。

 ブルー・クラブが6本の足でマリンスノーの降り積もった大地を歩き始めた。障害となる岩を乗り越え、堆積物をかき回しながら青い肢体を進ませていく。

「次。マニュピレータ試験だな。操作系をそっちに回す。ラベンダー頼むぞ」

 アンツールがブレーキをかけた。船体が軋みを上げながら足で踏ん張り仰け反った。

「岩を掴んでみる」

 ラベンダーが操縦桿を引き出して握った。ブルー・クラブ前面のハッチが開くとマニュピレータが展開した。

「掴んだ」

 マニュピレータはあっさりと地面の岩を掴み取った。

「そういう時は器用なんだけどな。ベッドメイキングくらい一人でやれるようになれると助かるんだが」

「朝食に下剤を滑り込まされたいの」

 アンツールがちくりと皮肉ると、ラベンダーが眉を持ち上げた。

 アンツールはすまないと首をふると、次の試験をするべく海底を蹴った。

「メインタンク・ブロー。浮上……停止。火器管制システムを試そう」

「了解。火器管制システム起動。魚雷使用可能。目標はどうしよう。爆発させたら怒られちゃう」

 彼らがいる海域は本来的には進入が許可されてない。爆発音を立てるのは賢明とはいえなかった。

「目標……は特に無い。訓練弾一番魚雷管装填。弾道直進。安全距離にて起爆設定。起爆信号受信と共に魚雷は放棄」

 半球状モニタに魚雷の素直な直進弾道が表示された。

「了解。魚雷目標設定中……発射」

 がこん、と軽い音がしてオレンジ色に塗装された魚雷が船体を離れて進んでいく。後部のプロペラ推進装置でまっすぐと進んでいくと、暗闇に紛れて見えなくなった。

「目標地点到達。起爆信号確認」

「よし、帰るぞ!」

 アンツールは魚雷が無事起爆信号を送ってきたことに胸をなでおろしていた。失敗していたらボスに尻を叩かれるでは済まなかっただろうからだ。深海という環境からとっとと地上に戻るに限る。後部を振り返ってみると、画面を見つめてうっとりと頬を緩ませているラベンダーの顔立ちがあった。何を見ているのか調べるべくパネルを弄る。前方に広がるピラミッド状の建築物を見つめているようだった。

「乗り込んでみたいとか思ってるんだろ」

「…………」

 ラベンダーが操作していた画面が通常のオペレーション画面に切り替わった。

 アンツールはラベンダーが抱いている強い未知への憧憬と一抹の不安を理解していた。自身が抱く好奇心と畏怖と恐怖とは似ていながら、細部が異なっていることも。ブルー・クラブの性能があれば遺跡に乗り込むことも出来るだろう。

 遺跡には、内部に入り込むことが出来る場所もあるのだ。まるでエジプトのピラミッド遺跡のように。公式には調査どころか存在自体認められていないのだから、誰がいつ作りどのようにして残されたのかさえ分かっていない。ラベンダーがこの任務についた時の喜びっぷりと言ったら雪を見た犬のようだったのだ。

 だが、これ以上の滞在は認められていなかった。性能試験であって調査ではないのだから。

 アンツールが操縦桿を握りなおした。

「メインタンク排水開始。帰ろう」

「うん………」

 ラベンダーが残念そうに声を上げた。

 ブルー・クラブが地底を蹴った。加速度的に未知の世界から離れていった。

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