第7章 ケンゴの忘れもの
第7章 ケンゴの忘れもの 1
「――この辺りのはず、なんだけどな……」
メモを片手にコートの襟を立てて、閑静な住宅街を歩き回る。
すぐ横ではアザミが、この世界にもだいぶ慣れたようで、質問を浴びせることもなく静かに並んで歩く。そして、さらにその向こう側にはカズラも、見るからに不機嫌そうな顔で同行している。
「本当に合ってるの? あんたのことだから、どうにも信用できないわ」
「向こうならともかく、こっちの世界では兄さまを信じてあげてよ」
さっそく、カズラが白い息と共に毒を吐く。
そして、そこにアザミがフォローを入れる……。お約束のワンシーンだ。
だが、どこかずれていてフォローになっていないというのも、いつものパターンだ。これではフォローというより、お情けと言った方が正しい。
「うーん……、違う……」
「えー、何よ。やっぱり間違えてたわけ? こっちの世界でも、やっぱり頼りにならないじゃない」
「いや、そうじゃなくて。ここで間違いないはずなんだけど、表札の名前が違うんだよ」
ケンゴに最後に手渡されたメモを再び取り出し、じっと見つめる。
メモ、住居表示板、そしてスマートフォンの地図。三つを何度も見比べたが、やはり同じくここを示している。
それにしても、このメモを受け取ったときには、まさかケンゴより先にここを訪れるとは、夢にも思わなかった。
「どういうことなんですか?」
「多分、ケンゴさんの家は人手に渡ったんじゃないかな」
「引っ越したってことかしら?」
「それだけなら、いいんだけどね……」
どうにも悪い胸騒ぎがしてならないが、このまま誰ともわからない人の家の前で立ち尽くしていても何の解決にもならないので、思い切ってインターホンに指を掛ける。
すると程なくして、機械経由のくぐもった声で応答が返ってきた。
『どちら様ですか?』
『十年ほど前に、こちらに新島さんという方が居たはずなんですが、何かご存じありませんか?』
『うちは四年ぐらい前にここに引っ越してきたんで、それより前のことはちょっと……』
『そうですか……、ありがとうございました』
手掛かりらしいものは得られていないが、あんまりしつこく食い下がってもこのご時世。誤解された上に通報なんて事態にも陥りかねない。
仕方がないので、情報を求めて隣の家へと移る。
『宗教に興味はないよ』
『いえ、違います、違います。十年ぐらい前に隣に住んでた人の話を伺いたいのですが……』
『――十年前っていうと、あの失踪事件の話かい?』
応接間に招かれ、紅茶をいただく。
今日も外は寒かったので、その温もりについ表情も緩む。
「不幸な話だったよねえ……」
不穏な言葉から昔話を始める、六十代ぐらいの夫人。
向かいのソファーに腰掛けた僕たち三人も、否応なく身構える。
こんな言葉が最初の一言では、ハッピーエンドは期待できそうもない。僕はこの先、一体どれだけ辛い事実を突き付けられることになるのだろう。
「ここら一帯が、新興住宅地として売りに出された頃だから、……十年とちょっと前ですかねえ、私たちが越してきたのは。その時はまだお隣さんは建築中で、少し後に越してこられましたねえ。
礼儀正しい良い人たちでねえ、一人娘の詩音ちゃんもすれ違う度にちゃんと挨拶のできる良い子でしたよ。休みっていえばご家族でお出掛けしたり、お買い物に行ったりと、ほんとに仲の良い、絵に描いたような幸せな家庭っていう感じでしたねえ。
あの事件が起きるまではねえ……」
序盤は微笑ましい昔話という感じで、こみ上げてくる懐かしさを噛みしめるように語られていたが、最後の一言で一変した。
いよいよ現実が語られる気配に、生唾を飲み込み横を見ると、アザミもカズラも身を乗り出して話に聞き入っている。僕も慌てて正面に向き直し、夫人の言葉に耳を傾ける。
「それなのに、突然旦那さんが行方をくらましてしまってねえ。
なんでも、終電で駅の改札を抜けたところまでは目撃されていたらしいんだけど、それ以降の足取りがぷっつりと……。警察もしばらくの間は池を浚ってみたり、聞き込み調査をしたりと、ずいぶん動いてくれてたんだけどねえ。私も何回話を聞かれたことか。でも、一向に手がかりが見つからなくて、段々と捜索の規模も縮小され続けて、そのうち打ち切りになっちゃって……。
その後が大変だったわよ。奥さん、警察に陳情したり街灯でビラ撒いたりねえ。それでも一人娘抱えて家のローンでしょ。毎日遅くまで働いていて、見てるこっちの方が辛かったわねえ。旦那さんも何の事情で失踪したのかわかんないけど、ほんとひどい話だわ」
失踪の原因も、そして今どこにいるかも知っている僕にとっては、聞けば聞くほどに辛い話だ。誰も悪くない、言うなれば全員が被害者だ。だがそんな話をここでしても何の意味もない、それでもケンゴの気持ちを考えると黙ってはいられなかった。
「でも、ケンゴさんも止むに止まれぬ事情とか、不慮の事故だったんじゃないですかね」
「ケンゴさん? ああ、そういえば旦那さんの名前確かそんなだったわね。ひょっとしてお友達? ってそんなはずないわよね。こんな若い人が、フフフ」
「水を差してすいません。それで、その後はどうなったんです?」
「やっぱりローンが払い切れないっていうんで、五年前に娘さんが中学校に上がる時に、家を手放して引っ越して行ったわ。なんでも、支援してもらってるうちに仲良くなった、お勤め先の人と暮らすとかなんとか……」
最悪の結末が脳裏をよぎる。
何を持って最悪と言うかにもよるが、別な家庭で新しい道を歩んでいるのなら、ケンゴが帰るべき場所も、守るべき人も居なくなってしまう。不可抗力で十年間帰ることも叶わず、そしてやっと訪れた機会も、僕達を逃がすために居残る結果になったケンゴには、重く辛すぎる仕打ちだ。
「その後の連絡先はご存じではないですか?」
「私も引っ越して行かれる時に、『ひょっこり帰ってくるかもしれないから』って引越し先を尋ねたんだけど、『そんなはずありませんから』って何も言わずに行ってしまわれたのよねえ。
真面目な人だったから、きっと散々悩み抜いて出した結論を惑わされないように、思いを絶って行ったんでしょうねえ」
――手掛かりは早くも途絶えた。
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